第8話「氷獄魔女、覚醒の兆し」
翌朝。
冬の澄んだ空気が辺境学院を包み込んでいた。
旧校舎の特別隔離教室では、いつものように五人の生徒たちが自由な時間を過ごしている。
ガルドは机に足を乗せて欠伸をし、ノアは静かに本を読み、セレスは優雅に紅茶を飲み、リュカは床で丸くなって二度寝をしている。
一見すれば昨日と変わらない光景だ。
だが一番窓際の席に座るミリア・フロストレインの様子だけは、昨日までと決定的に違っていた。
彼女は机の上に両手を置き、その手にはめられた黒く鈍い光沢を放つ特注の魔獣革の手袋を、何度も何度も確かめるように撫でていた。
防寒と魔力抑制の効果を持つその手袋は、昨日の放課後にレオンから渡されたものだ。
(先生は、何度凍らされても私の手を取ってくれると言ってくれた)
ミリアの胸の奥で、小さく温かい感情が灯り続けている。
彼女の周囲の空気はもう凍てついていない。
机に降りていた霜はすっかり消え去り、窓ガラスには朝日が明るく反射していた。
ミリアは時折、教室の入り口をちらちらと見つめている。
今日、先生と握手の練習をする約束をしているのだ。
誰かの手に触れるなど、母親を傷つけてしまったあの忌まわしい日以来のことだった。
怖くないと言えば嘘になる。
だがそれ以上に、彼女はレオンの大きく温かい手に触れてみたいと生まれて初めて強く願っていた。
「おはよう。全員揃っているな」
教室の扉が開き、レオンがいつも通り気だるげな足取りで入ってきた。
ミリアはハッとして姿勢を正し無意識のうちに少しだけ椅子から腰を浮かせた。
レオンは出席簿を教卓に置くと真っ直ぐにミリアの元へと歩いてくる。
彼女の手にはめられた黒い手袋を見て、レオンの口元に微かな笑みが浮かんだ。
「約束通り、つけてきたな。サイズは合っているか」
「はい……っ、ぴったりです」
ミリアは弾かれたように立ち上がり、震える声で答えた。
レオンはミリアの前に立つと、ゆっくりと自分の右手を差し出した。
大きくて、剣ダコのある無骨な手。
それは彼女を傷つけるものではなく、彼女を孤独の底から引き上げようとする確かな救いの手だった。
「さあ、練習の第一歩だ。お前の手で、俺の手を握れ」
ミリアはごくりと息を呑んだ。
大丈夫。
手袋には魔力抑制の術式が編み込まれている。
それに先生は勇者だから、私の氷くらいじゃ死なないと言ってくれた。
ミリアは強く目を閉じ、震える両手でレオンの大きな右手をそっと包み込むように伸ばした。
彼女の黒い手袋の指先が、レオンの指に触れようとしたその瞬間だった。
バンッ!!
鼓膜を突き破るような暴力的な音とともに、教室の扉が乱暴に蹴り開けられた。
「素晴らしい感動の場面に水を差して申し訳ないですね、元勇者殿」
静まり返った教室に、底冷えするような冷酷な声が響き渡った。
入り口に立っていたのは、王国教育局の査察官ロベルト・グライスだった。
彼の背後には王都騎士団の紋章が刻まれた鎧を着た完全武装の騎士たちが五人、剣の柄に手をかけた状態で控えている。
ただならぬ殺気に、ガルドが机から足を下ろして舌打ちをした。
ノアは本から目を離し、セレスは扇子を閉じて目を細めた。
リュカは床から跳ね起き、喉の奥で低い唸り声を上げる。
ミリアは驚いて手を引っ込め、レオンの背後に隠れるように身を縮めた。
レオンは差し出していた手をゆっくりと下ろし、冷たい目でロベルトを見据えた。
「ノックの仕方も知らないのか、王都の役人は。朝のホームルームの邪魔だ」
「下らないお遊びは終わりだと言っているのです。私は昨日の実戦授業を見て、王都への最終報告書をまとめました」
ロベルトは手に持っていた革袋の中から、禍々しい金属の塊を取り出した。
それは黒光りする重々しい首輪と、一対の腕輪だった。
内側には鋭い金属の棘が無数に生えており、見るからに拷問器具にしか見えない。
「ミリア・フロストレイン。君の魔力は、もはや辺境の学院で放置できるレベルを完全に超えている。よって王都研究塔への移送の是非が決定するまでの間、安全措置としてこの『魔力拘束具』を装着してもらう」
魔力拘束具。
その言葉の響きに、ミリアは血の気が引くのを感じた。
「それはただの制御具ではない」
ロベルトは残忍な笑みを浮かべ、金属の首輪をチャリッと鳴らした。
「魔力を物理的に抑え込むものではなく、君が少しでも魔力を使おうとした瞬間に、骨の髄まで響く激痛を与える罰の道具だ。痛みによって強制的に魔力を封じ込める、最も確実な安全装置だよ。大人しく首を出しなさい、化け物」
「ふざけるなッ!」
不意に、ガルドが怒号を上げて立ち上がった。
彼の右手から激しい黒炎が立ち上る。
「おい役人!その氷女は俺がいつかぶっ飛ばす予定なんだ!得体の知れねえ首輪なんかつけさせねえぞ!」
ガルドが牽制のために黒炎を放った瞬間、騎士の一人が前へ出て、青白い光を放つ盾を構えた。
シュゥゥッという音とともに、黒炎は盾の表面に触れた途端、煙のように掻き消された。
対魔法用の特殊な魔導盾だ。
騎士たちは隔離クラスの生徒たちを完全に制圧する気で武装を整えてきていた。
「ロベルト査察官!何をするおつもりですか!」
その時、廊下から血相を変えたエリスが息を切らして駆け込んできた。
彼女の手には、分厚い学院の規定書が握られている。
「魔力拘束具の使用は学院規定違反です!生徒への不当な身体拘束にあたりますし、正式な許可は出ていません!」
エリスはロベルトの前に立ち塞がり、書類を突きつけて激しく抗議した。
彼女はこの辺境学院の責任者として、そして何より一人の教育者として、生徒が鎖に繋がれることなど断じて許すわけにはいかなかった。
だがロベルトは突きつけられた書類を一瞥もせず、鼻で笑ってエリスを冷徹に見下した。
「許可?不当な身体拘束?エリス・アークライト先生、あなたは、まだここを学校だと思っているのですか?」
「学校……?」
「ここは教育の場ではない。王都で手に負えなくなった危険物の処理施設です。王都の安全を守るための特例措置に、辺境の学院規定などという紙切れが通用するはずもないでしょう」
ロベルトの言葉は、エリスの心を容赦なくへし折るものだった。
エリスはずっと、自分が王都と辺境学院の間を取り持ち、生徒たちを守るための連絡役として機能していると信じていた。
自分が書類を整え、正当な手続きを主張すれば、王都の無茶な要求から彼らを守れるはずだと。
だが違ったのだ。
王都の官僚から見れば、彼女はただの左遷された無力な辺境の小役人に過ぎず、彼女の抗議など路傍の石ころほどの意味も持っていなかった。
エリスは王都との連絡役としての自分の限界を初めて自覚し、悔しさに唇を強く噛み締めた。
「さあ、やれ」
ロベルトが顎でしゃくると、二人の騎士が剣を抜き放ち、ミリアへと歩み寄った。
「や、やめて……っ」
ミリアは首を横に振り、後ずさりをしようとした。
彼女の脳裏に、凄惨な過去のトラウマがフラッシュバックする。
幼い頃、魔力が暴走した直後に、汚らわしい化け物を見るような目で自分を睨みつけた大人たち。
暗くて冷たい地下の冷室へ放り込まれ、外から重い鍵をかけられた時の絶望。
あの冷たい金属の首輪をつけられれば、自分はもう二度と人間には戻れない。
ただ痛みによって支配されるだけの、本物の化け物になってしまう。
痛いのは嫌だ。
怖い。
もう二度と、あんな暗い場所に閉じ込められたくない!
「いやぁぁぁぁっ!!」
ミリアの口から、悲痛な叫び声が上がった。
その瞬間だった。
彼女の恐怖と絶望が限界を超え、激しい『怒り』へと転化した。
自分の存在を否定し、無理やり鎖を繋ごうとする世界に対する、強烈な防衛本能。
ミリアの足元から、ドゴォォォンッ!という轟音と共に爆発的な冷気が全方位へと吹き荒れた。
教室の床が一瞬にして分厚い氷に覆われ、窓ガラスが内側から弾け飛ぶ。
レオンから渡されたばかりの黒い手袋の表面にも、白い霜がびっしりと張り付いていく。
魔力抑制の術式すら追いつかないほどの、異常な魔力の膨張だった。
「ひぃっ!?」
騎士の一人がその絶対零度の冷気に触れ、腕の鎧ごと凍りついて悲鳴を上げた。
ミリアの瞳から光が消え、青白く濁った魔力の光だけが宿っている。
彼女は自分の身を守るために、教室ごとすべてを完全に凍らせて破壊しようとしていた。
レオンの視界が赤く染まり、ミリアの頭上に浮かんでいたあの文字が、これまでで最も鮮明に、激しく明滅して浮かび上がった。
『【未来の氷獄魔女】死亡者数、二百万人。破滅原因:孤独』
未来の災厄が、今まさに覚醒しようとしている。
ロベルトは冷気から身を守るように後退りしながら、狂気じみた笑い声を上げた。
「見ろ!やはりあれは化け物だ!貴様ら、構わん!力ずくで押さえつけて首輪をはめろ!抵抗するなら、災害対処の特例措置として斬り捨てても構わん!」
ロベルトの非道な命令を受け、残る騎士たちが魔導盾を構えながらミリアへと殺到した。
ミリアの周囲に渦巻く冷気がさらに密度を増し、致死の吹雪となって騎士たちを迎え撃とうとする。
ミリアの力が騎士を殺せば、彼女はもう完全に引き返せなくなる。
正真正銘の、人殺しの化け物として世界から討伐される存在になってしまう。
だが騎士の手がミリアに届くよりも早く。
「——俺の生徒に、汚え鎖を繋ごうとしてんじゃねえぞ」
地を這うような低い声と共に、黒いコートの男が吹雪を切り裂いてミリアの前に立ち塞がった。
レオンだ。
彼はミリアに殺到してきた騎士の一人の胸ぐらを掴むと、そのまま紙屑のように軽々と持ち上げ、教室の壁へと力任せに叩きつけた。
ガァァァンッ!!
壁にひびが入り、騎士が白目を剥いて崩れ落ちる。
レオンは腰の剣すら抜いていない。
素手による一撃だけで、完全武装の騎士を完全に無力化してしまったのだ。
「き、貴様……っ!王国教育局の決定に逆らう気か!」
ロベルトが顔を引きつらせて怒鳴りつける。
レオンは倒れた騎士を一瞥もせず、真っ直ぐにロベルトを睨み据えた。
その瞳には、魔王軍の幹部すら震え上がらせた、本物の死の気配が宿っていた。
「教育局だか何だか知らねえが、俺の教室のルールは俺が決める」
レオンはミリアを背中で庇うようにして、一歩前へと出た。
彼の背中にミリアの放つ極寒の吹雪が吹き付けているが、彼は微動だにしない。
「凍らせるな、ミリア。お前はもう、こんな連中に怯えなくていい」
レオンの声は、荒れ狂う吹雪の中でも不思議なほどはっきりとミリアの耳に届いた。
殺す気満々の騎士たちを前にして、レオンはただ一人、圧倒的な強者の佇まいで立ち塞がっている。
「こいつらは俺が全員叩き出す。お前はただ、俺の背中を見ていればいい」
暴走しかけていたミリアの魔力が、レオンの絶対的な安心感の前にほんの僅かに揺らいだ。
だがロベルトの騎士たちはすでに剣を構え、レオンを反逆者として排除するべく動き出している。
教室の中で、避けられない激突の火蓋が切られようとしていた。




