第7話「先生、私はここにいてもいいのですか」
放課後の本校舎、職員室。
レオンは学院長代理であるエリスの執務机の前に立っていた。
机の上には、王都の消印が押された小さな小包が置かれている。
「王都の魔導具店から、ご指定の品が届きました。手配はいたしましたが……かなり高価な魔獣の革製品です。本当にレオン先生の自腹でよろしいのですか?」
エリスが小包をレオンに押しやりながら、少し呆れたような、しかしどこか感心したような声で問いかけた。
レオンは小包を無造作に掴み上げ、軽く肩をすくめる。
「勇者の退職金が余ってるんでな。使い道としては安いもんだ。急ぎの手配、助かったよエリス先生」
「……いえ。ミリアさんのためになるのであれば、私としても協力は惜しみません」
エリスは小さく息を吐き、真剣な目をレオンに向けた。
「今日のグラウンドでの実戦授業、冷や汗をかきましたが……見事でした。彼女の力が防壁として機能したこと、そして何より、彼女自身がクラスの輪に少しだけ近づけたこと。王都の学院では決して見られなかった光景です」
エリスも、資料の上ではミリアの過去を知っていた。
だが紙に書かれた事故記録と目の前で震えながら温かい居場所を求める少女の姿は、まるで重みが違っていた。
「あいつらは根が素直なだけだ。腹一杯飯を食わせて、少し背中を押してやれば勝手に育つ」
「ふふ、教育の専門家が聞いたら怒り出しそうな理論ですね」
エリスは口元に微かな笑みを浮かべた。
彼女もまた、この辺境学院で問題児たちをどう導くべきか悩み続けてきた一人だ。
だからこそ型破りなやり方であっても、確実に生徒たちの心を開いていくレオンの姿を頼もしく感じ始めていた。
「ただ……ロベルト査察官は、ミリアさんの成長を危険度の上昇と見ています。王都への報告書にも、討伐部隊の派遣を急がせるような文言がありました。私も異議は出していますが、どこまで時間を稼げるか……」
「気にするな。王都の連中が何を言おうと、あいつらは俺の生徒だ。俺が必ず守り抜く」
レオンは小包を懐にしまい込み、短く礼を言って執務室を後にした。
彼が向かうのは、誰もいなくなったはずの旧校舎の特別隔離教室だった。
夕暮れ時の旧校舎は、赤く染まった西日が窓から差し込み長い影を床に落としている。
放課後の鐘はとうに鳴り終わり、ガルドたち他の生徒はすでに寮へ帰っていた。
だが一番窓際の席にだけ、ポツンと小さな影が残っている。
白銀の髪の少女、ミリアだ。
彼女は自分の両手を膝の上に置き、夕日に照らされる指先をじっと見つめていた。
今日の昼休み、彼女は初めて温かいポトフを食べた。
スプーンを持っても器は凍らず、ガルドやセレスたちクラスメイトが自分に言葉をかけてくれた。
嬉しかった。
これまでの冷たくて痛いだけの人生で、初めて自分が「ここにいてもいい」と許されたような気がした。
だがその幸福感は、同時に彼女の胸の奥に強烈な恐怖と罪悪感を呼び起こしていた。
(私は、本当にここにいてもいいのかな……)
ミリアは両手を強く握りしめ、目を閉じた。
瞼の裏に鮮明に蘇るのは、彼女がまだ五歳だった頃の記憶だ。
名門フロストレイン伯爵家の広大な屋敷。
ミリアは幼い頃、優しく微笑みかけてくれる母親のことが大好きだった。
ある冬の日、庭で遊んでいたミリアに向けて、母親が両手を広げて微笑みかけてくれた。
『おいで、ミリア』
その優しい声が嬉しくて、ミリアは満面の笑みで母親の胸に飛び込んだのだ。
だがその直後だった。
嬉しさで極限まで高ぶったミリアの感情に呼応して、彼女の小さな体から制御しきれない爆発的な冷気が溢れ出した。
『きゃあああぁぁぁっ!?』
鼓膜を突き破るような母親の悲鳴。
ミリアが目を開けると、自分を抱きしめていた母親の美しい両腕が、真っ白に凍りついていた。
重度の凍傷。
痛みにのたうち回り、恐怖に顔を引きつらせる母親の姿。
駆けつけてきた父親と使用人たちが、ミリアをまるで汚らわしい化け物を見るような目で睨みつけた。
『なんてことだ!この子は化け物だ!』
『奥様に近づけるな!地下の冷室へ閉じ込めろ!』
それから王都学院へ放逐されるまでの数年間、ミリアは日光の当たらない地下の冷たい部屋で一人きりで過ごした。
食事は一日一回、扉の隙間から冷え切ったパンと冷たいスープが置かれるだけ。
誰の声も聞こえず、誰の温もりにも触れられない孤独な日々。
自分が人を傷つけた罰なのだと、幼いミリアは泣きながらそれを受け入れるしかなかった。
(私は、お母様を壊してしまった。なのに、ここで温かいご飯を食べて、笑っていてもいいの?)
幸せを感じれば感じるほど、それを再び自分の氷で壊してしまうことが怖かった。
もしまた感情が暴走して、今度はレオンやエリス、クラスメイトたちを凍らせてしまったら。
そう想像するだけでミリアの呼吸は浅くなり、彼女の足元から白い霜がじわじわと広がり始めた。
机の脚が凍りつき、周囲の空気が急速に真冬のそれに変わっていく。
「こんなところで油を売ってると、夕飯食い損ねるぞ」
不意に、教室の入り口から気だるげな声が響いた。
ミリアがハッとして振り返ると、レオンが扉の枠に寄りかかり腕を組んでこちらを見ていた。
足元の霜がピタリと止まる。
「先生……」
「帰らないのかとエリス先生が心配していた。飯が冷める前に寮に戻れ」
「……先生。私は、本当にここにいてもいいのでしょうか」
ミリアの口から、無意識のうちに痛切な本音がこぼれ落ちていた。
レオンは眉を少しだけ動かし、ゆっくりとミリアの机の前まで歩いてきた。
彼は何も言わず、ミリアの次の言葉を待つように視線を促す。
ミリアは震える手を見つめたまま、ずっと誰にも言えなかった過去の罪を懺悔するように話し始めた。
「先生は知らないから、私に優しくしてくれるんです。私は……私は昔、お母様を……大好きだった人を、この手で凍らせて壊してしまったんです。私が嬉しくて抱きついたせいで、お母様の腕は真っ白になって……」
ミリアの声は嗚咽に震え、大粒の涙が机に落ちて小さな氷の粒になった。
「今日、温かいポトフを食べられました。ガルドくんの炎も防げました。……でも、嬉しいと思えば思うほど、怖いんです。もしまた私が暴走したら、今度は先生やエリス先生、クラスの皆を傷つけてしまうかもしれない。それなら、やっぱり私は一人で……暗くて冷たい地下の部屋にいた方がいいんです。それが、お母様を傷つけた私の罰だから……!」
泣き崩れるミリアを前にして、レオンは黙って彼女の話を聞いていた。
彼は「お前は悪くない」などという安っぽい同情の言葉は口にしなかった。
傷つけた過去は消えない。
魔王討伐の旅の途中で、レオン自身も多くの命を救えず、時には戦いの中で無関係な者を巻き込んでしまった罪悪感を背負っている。
過去の罪がどれほど心を苛むか、彼は誰よりも知っていた。
だからこそレオンは静かに、しかし力強い声で告げた。
「過去に人を傷つけた。それがお前の罰だというなら、一生背負っていけ」
残酷な事実を否定しないその言葉に、ミリアはビクッと肩を震わせた。
だがレオンの言葉はそこで終わりではなかった。
「だがなミリア。過去の罪を言い訳にして、これから出会う人間まで遠ざけるのはただの逃げだ」
「逃げ……?」
「そうだ。お前はもう、一人で凍りつくことを選ばなくていい。傷つけた過去があるなら、これ以上誰も傷つけないために、力を制御する方法を学べばいいだけだ。そのために俺がここにいる」
レオンは懐から、エリスから受け取ったばかりの小包を取り出し、ミリアの机の上に置いた。
「開けてみろ」
ミリアは涙を拭い、おずおずと小包の包み紙を開いた。
中に入っていたのは、黒く鈍い光沢を放つ一対の革手袋だった。
小さく、ミリアの手にぴったり合うサイズで作られている。
「それは特注の魔獣革で作った手袋だ。防寒効果があって、お前の冷気を通しにくい。さらに魔力抑制の術式も編み込まれている。もっとも、暴走そのものを完全に止める道具じゃない。あくまでお前が自分の力を扱うための補助具だ」
「手袋……これを、私に?」
「明日、これをつけて授業に来い。握手の練習をする」
握手。
その響きにミリアは目を丸くした。
誰かと手を繋ぐなど、母親を傷つけたあの日以来、一度もしたことがなかったからだ。
「握手……ですか?」
「そうだ。人を遠ざけるためじゃない。誰かの手を取るための練習だ」
ミリアは手袋を見つめ、恐る恐る口を開いた。
「でも……手袋越しでも、もし私が暴走して、先生を凍らせてしまったら……」
「言っただろう。俺は勇者だ。お前の氷くらいで死んだりしない」
レオンはミリアの頭に手を伸ばし、その白銀の髪をそっと撫でた。
ミリアの肩は小さく跳ねた。
けれど、今度は逃げなかった。
レオンの手も、凍らなかった。
「何度凍らされても、何度でもお前の手を取ってやる。だからもう、自分がここにいていいかなんてくだらないことで悩むな」
ミリアは両手で黒い手袋を胸に強く抱きしめた。
目から再び涙が溢れ出す。
だがそれはもう、孤独と恐怖の涙ではなかった。
自分の過去の罪ごと受け止め、未来へ引っ張り上げてくれる大人がここにいる。
その絶対的な安心感が、彼女の心を覆っていた分厚い氷を完全に溶かしてくれたのだ。
ミリアの震えていた唇が少しずつ緩み、ふわりと春の雪解けのような小さな笑みが浮かんだ。
彼女がこの学院に来てから、いや、あの冷たい地下室に閉じ込められてから、初めて見せた心からの笑顔だった。
「はい……っ、先生」
夕日に照らされた教室の空気が、少しだけ温かくなった。
世界を拒絶し孤独に凍りついていた少女は、ついに自分が守るべき温かい居場所を不器用な大人の手によって見つけ出したのだった。




