第6話「氷壁の授業」
雪の森での魔力暴走から一夜明けた、辺境学院の旧校舎。
『特別隔離教室』の中には、いつもと少しだけ違う空気が流れていた。
相変わらずガルドは机の上に足を乗せて指先から黒い炎を明滅させ、ノアは机の下で骨の鳥を歩かせて古書を読んでいる。
セレスは優雅にクラスメイトを見ながらノートを記録し、リュカは窓際の床で丸まって寝息を立てていた。
一見すれば昨日と変わらない混沌とした問題児たちの日常だ。
だが一番窓際の席に座るミリア・フロストレインの周囲だけは、明らかな変化があった。
昨日までは彼女が教室にいるだけで季節が真冬に逆戻りし、窓ガラスは分厚く凍りつき、机には真っ白な霜が降りていた。
しかし今日の彼女の周囲は少しばかりひやりとする程度で、息が白く濁るような極寒の領域は形成されていなかった。
ミリアは自分の両手をじっと見つめている。
昨夜、雪の森でレオンを守るために作り出した、あの美しく透明な氷の壁の感触が、まだ手のひらに残っていたのだ。
(私が、先生を守った。私の氷で……)
人を遠ざけ、傷つけ、孤独にするだけの呪われた力だと思っていた。
それが使い方一つで誰かを守る盾になるという事実が、ミリアの心に小さな、しかし確かな光を灯していた。
「よし、出欠は全員いるな」
教卓に立ったレオンが、出席簿を閉じて口を開いた。
彼の黒いコートには昨夜の猛吹雪の痕跡など微塵も残っていない。
「今日は机に向かっての魔法理論の授業はやめだ。全員、グラウンドに出ろ。実戦授業を行う」
レオンの言葉に、ガルドがピクリと眉を動かして面白そうに笑った。
リュカの耳がパタパタと動き、セレスは小さく溜息をついてノートを閉じる。
ミリアは不安と期待が入り交じったような目でレオンを見つめた。
辺境学院のグラウンドは、王都の華やかな演習場とは程遠い。
所々ひび割れた魔獣除けの古い結界が張り巡らされ、地面は荒れて雑草がまばらに生えている。
レオンは五人の生徒たちを適当な間隔で並ばせると、真っ直ぐにミリアを指名した。
「ミリア、前に出ろ。それとガルド、お前もだ」
「俺と氷女か?一体何をやらせる気だ、元勇者」
ガルドがポケットに両手を突っ込んだまま、だるそうに前に進み出る。
ミリアは不安げに身を縮めながら、おずおずとレオンのそばへと歩み寄った。
レオンは二人が向き合うように立たせると、平然とした声でとんでもない指示を出した。
「ガルド、お前の黒炎でミリアを攻撃しろ」
その一言に、グラウンドの空気が凍りついた。
グラウンドの端で様子を見守りに来ていたエリスが、血相を変えて叫ぶ。
「レオン先生!何を考えているのですか!?生徒同士に魔法で攻撃させるなど……ミリアさんが、また昨夜のように怯えてしまったらどうするのですか!」
「心配するな、エリス先生。俺の授業で生徒に怪我はさせない」
レオンはエリスを手で制し、再び二人に向き直った。
ガルドは呆れたように舌打ちをする。
「おいおい正気か?俺の炎は加減が利かねえんだぞ。この氷女、一瞬で丸焦げになっちまうぜ」
「構わん。本気で撃て。お前のその自慢の火力を、ここで出し惜しみするな」
挑発的なレオンの言葉に、ガルドの瞳に好戦的な光が宿った。
彼の右手から、ボワッと禍々しい黒い炎が立ち上る。
それは、触れたものをただ焼き尽くす、純粋な破壊の炎だった。
ミリアは黒炎の熱気を肌で感じ、恐怖で肩を震わせた。
過去の記憶が蘇る。
怖い。
自分がまた制御を失って、今度はガルドや先生を傷つけてしまうかもしれない。
「先生……無理です。私、また暴走して、皆を凍らせちゃうかも……!」
ミリアが後ずさりしようとした時、レオンの手が、彼女の肩にそっと置かれた。
「大丈夫だ、ミリア。お前はもうただ逃げて凍らせるだけの子供じゃない」
「でも……っ!」
「昨日の夜、お前は魔獣の群れから俺を守っただろう。あの時の氷の壁を、もう一度ここに出せ。俺が後ろにいる。絶対に暴走させないから、お前はただ守ることだけを考えろ」
レオンの真っ直ぐな言葉が、ミリアの心に沁み込んでいく。
恐怖で冷え切っていた体が、内側から少しずつ温かさを取り戻していくのを感じた。
(先生が、私を信じてくれている。なら、私も……!)
ミリアは小さく頷くと、ガルドに向き直り、両手を前へと突き出した。彼女の瞳から迷いが消える。
「へっ、後悔しても遅えぞ!」
ガルドが叫び、右腕を大きく振り抜いた。
彼の腕から放たれた巨大な黒炎の塊が、空気を焼き焦がしながら真っ直ぐにミリアへと迫る。
圧倒的な火力と突破力。
まともに食らえば、一瞬で灰と化す凶悪な一撃だ。
「人を遠ざける氷じゃない。守るための氷……!」
ミリアは強く念じた。
直後、彼女の足元の地面から分厚く透明な氷の壁が凄まじい速度でせり上がった。
昨夜、レオンを守ったあの美しい盾だ。
ガァァァァンッ!!
ガルドの放った黒炎が、ミリアの展開した氷壁に激突する。
すさまじい蒸気が上がり、熱波と冷気がグラウンドの中央で激しくぶつかり合う。
黒炎は氷壁を溶かして突き破ろうと荒れ狂うが、ミリアの魔力によって極限まで密度を高められた氷は、そう簡単には崩れない。
数秒間の拮抗の後、ピキッ……と氷壁に大きな亀裂が走った。
そしてパリンッと甲高い音を立てて氷壁が砕け散るのと同時に、ガルドの黒炎も完全に勢いを失い、蒸気とともに霧散した。
静寂が降りたグラウンドに、氷の破片だけがキラキラと日の光を反射して舞い落ちる。
ミリアは両手を突き出した姿勢のまま、荒い息を吐いていた。
彼女の体は、火傷一つ負っていない。
「マジかよ……」
ガルドが信じられないものを見るように、自分の右手とミリアを交互に見つめた。
今の自分が制御して放てる最大の火力を、この臆病な氷女が完全に防ぎきったのだ。
いつもなら怯えて無差別に周囲を凍らせるだけの存在だったのに、今の氷は明確な意志を持って彼の一撃を相殺した。
驚愕していたのはガルドだけではない。
グラウンドの端で見ていたセレスは扇子を落としそうになり、ノアは本から完全に目を離し、リュカは目を丸くして尻尾をピンと立てていた。
エリスに至っては、信じられない魔法の制御を目の当たりにして言葉を失っている。
誰もがミリアに向けているのは「化け物」を見る恐怖の視線ではない。
圧倒的な防御力に対する「驚き」と「感嘆」の入り混じった視線だった。
ミリアは自分の両手を見つめ、それからそっと振り返った。
レオンが腕を組み、満足そうに頷いている。
「よくやった、ミリア。見事な防壁だ」
その一言が、ミリアの胸の奥を温かく満たしていった。
私はもう、ただ暴走するだけの化け物じゃない。
だが同じ瞬間。
辺境学院の本校舎の窓からグラウンドの光景を見下ろしていた王都教育局の査察官ロベルト・グライスは、一人で忌々しげに顔を歪めていた。
彼は手に持っていた視察用の書類を、くしゃりと強く握りしめる。
「馬鹿な……。昨夜あのような大規模な暴走を起こしたというのに、あの化け物、魔力を完全に制御して防御に転用したというのか?」
ロベルトの目には、ミリアの変化が「更生」や「成長」などという美しいものには少しも映っていなかった。
「無差別に冷気を撒き散らすだけなら、まだ対処のしようもあった。だがあの高密度の氷壁で黒炎を受け止めたとなれば話は別だ。討伐部隊を送っても、どれほどの被害が出るか分からない。危険度はむしろ跳ね上がったと言うべきだ。……早急に、あの危険因子を処分する手立てを講じねば」
彼は冷酷な瞳でレオンと生徒たちを睨みつけ、王都への報告書に新たな警告を書き加えるべく執務室の奥へと消えていった。
実戦授業が終わった後の昼休み。
旧校舎の特別隔離教室では、いつものように給食の準備が進められていた。
エリスが手配してくれたワゴンから、レオンが一人ひとりの机に配膳をしていく。
今日のメニューは、大きく切られた野菜と肉が煮込まれた温かいポトフと、少し固めのパンだ。
ミリアは自分の席にちょこんと座り、手持ち無沙汰に両手を膝の上で組んでいた。
いつもなら、彼女の周囲は極寒であり、誰一人として近づこうとはしない。
だが今日、その絶対的な距離感が少しだけ崩れた。
ガルドが自分の机と椅子をズルズルと引きずり、ミリアからほんの少しだけ近い位置に移動させたのだ。ミリアが驚いてビクッと肩を震わせる。
「おい、氷女」
「ひゃ、はい……!」
「……さっきの氷の壁、悪くなかったぜ。俺の本気の炎を正面から防ぎきった奴なんて、王都の学院にもいなかったからな。まあ、次は絶対に焼き尽くしてやるけどな」
ガルドはぶっきらぼうにそれだけ言い捨てると、そっぽを向いてポトフの肉を乱暴に口に運び始めた。
彼の顔が少しだけ赤いのは、おそらく黒炎の熱のせいだけではないだろう。
セレスも自分の席から優雅に微笑みかける。
「魔力制御の精度、見事でしたわ。これまでの周囲を巻き込むような迷惑な暴走が、嘘のようですわね」
相変わらず棘のある言い方だが、彼女なりにミリアの実力を認めた言葉だった。
ノアは無言のまま小さく頷き、机の下の骨の鳥がミリアの方を向いて小さく嘴を鳴らした。
リュカは鼻をひくひくさせながらポトフの匂いを嗅いでいる。
ミリアは目を丸くしてパチパチと瞬きを繰り返した。
クラスメイトたちが、自分に話しかけてくれている。
「近づくな」と石を投げられるのではなく、自分の魔法を見て言葉をかけてくれている。
ミリアはそっと、自分の机に置かれたポトフの器に手を伸ばした。
指先が器に触れた瞬間、ピキッと微かに氷の鳴る音がした。
だがそれ以上の冷気は広がらず、器から氷が這い上がってくることはなかった。
ポトフは凍ることなく、美味しそうな温かい湯気を立てたままだ。
ミリアは震える手でスプーンを持ち、スープをすくって口に運んだ。
じんわりとした温かさが、喉から胃の奥へと広がっていく。
美味しい。
初めて誰にも気兼ねすることなく、温かいものを温かいまま食べることができた。
「いただきます」
ミリアは誰にともなく小さな声で呟き、夢中でポトフを口に運んだ。
レオンは自分の教卓でパンをかじりながら、その光景を見て静かに笑う。
「飯は温かい方が美味いだろう」
外はまだ冷たい冬の風が吹いていたが、特別隔離教室の中だけは確かに温かな空気が満ち始めていた。




