第5話「孤独を凍らせた少女」
「来ないでって言ってるのに……!先生まで凍らせたくない!」
ミリアの叫びに呼応して、氷のドーム内の吹雪がさらに荒れ狂った。
レオンの黒いコートには分厚い霜が張り付き、動くたびにパリパリと氷が砕ける。
それでも、彼の足は止まらなかった。
一歩。
また一歩。
ミリアだけを見据えて、静かに距離を詰めてくる。
ミリアは両手で顔を覆い、その場にうずくまって震え続けていた。
先生が自分のためにここまで来てくれた。
それは嬉しい。
けれど同時に、何よりも怖かった。
優しい先生を、自分の氷で殺したくない。
だから全力で遠ざけようとしているのに、レオンは一歩、また一歩と躊躇いなく距離を詰めてくる。
「ミリア、顔を上げろ」
レオンの声は、猛吹雪の中でもはっきりとミリアの耳に届いた。
「俺は教室で言ったはずだぞ。お前の氷くらいで俺が死ぬか、とな」
「……っ、でも、私はロベルト査察官が言った通りです!人を傷つけるだけの災害の種なんです!」
ミリアは顔を覆ったまま、泣きじゃくりながら言葉を絞り出した。
『化け物』
『近づくな』
『お前がいなければよかったんだ』
かつて彼女に向けられた無数の冷たい言葉が、呪いとなって彼女を縛り付け、暴走する魔力をさらに増幅させていた。
「私は化け物です……!だから先生、お願いだから逃げて……!」
「逃げる理由がない。俺はお前の担任だ」
レオンがミリアの目の前まで歩み寄り、静かにそう告げた瞬間だった。
「グルルルルル……ッ」
レオンが砕いた氷の亀裂の向こうから、低く濁った唸り声がいくつも響いた。
ミリアはハッとして顔を上げる。
暗闇の向こうから十以上の赤い眼光がぬらぬらと光を放ちながら現れた。
彼らは鋭い爪で氷の床を掻き鳴らし腹の底から響くような声で威嚇してくる。
森に生息する凶暴な夜行性魔獣ブラッドウルフの群れが、異常な魔力の波に引き寄せられ、レオンが砕いた亀裂からドーム内へ侵入してきたのだ。
先ほどミリアが凍らせた三匹は群れからはぐれた斥候に過ぎなかったのだ。
「ヒッ……!」
ミリアは短い悲鳴を上げ後ずさりをした。
明確な死の危機がそこにあった。
飢えた十匹以上の魔獣たちがミリアとレオンを餌と認識し、涎を垂らしながらじりじりと包囲網を狭めていく。
「客が来たか。エリス先生が言っていた通り、この森は夜歩きには向かないらしい」
レオンは全く動じることなく、腰の剣を抜き放った。
そしてミリアと魔獣たちの間に、大木のように力強く立ち塞がった。
「先生……!逃げてください!私のそばにいたら、先生まで魔獣に襲われるし、私の氷で……!」
ミリアのパニックが頂点に達し、ドーム内の吹雪がさらに勢いを増した。
このままでは、また無意識のうちに魔獣もレオンも関係なく、すべてを無差別に凍らせて破壊してしまう。
ミリアは自分の力が暴発するのを恐れ、目をきつく閉じて耳を塞ごうとした。
だがレオンの鋭い声がそれを許さなかった。
「目を逸らすな、ミリア!泣いているだけじゃ、その力はまた勝手に暴れる!」
その強い怒声に、ミリアはビクリと肩を震わせて目を開けた。
レオンは剣を下段に構えたまま、迫り来る魔獣の群れを見据えている。
彼一人であれば、この程度の魔獣の群れなど一瞬で斬り捨てることは造作もない。
だがレオンはあえて自分からは動かず、ミリアに背中を見せたまま言葉を紡いだ。
「お前は自分の力を抑え込もうとして、ただ暴走させているだけだ!抑えるな!」
「でも、私が力を使ったら、全部壊して……!」
「違う!お前の力は人を傷つけるための呪いじゃない!お前が優しいから、誰も近づけないために無意識に壁を作っているだけだ!」
レオンの言葉は、氷のように冷え切っていたミリアの心の奥底に、真っ直ぐに突き刺さった。
「遠ざけるんじゃない!守るために使え!」
その直後三匹のブラッドウルフが群れから飛び出し、一斉にレオンへと襲いかかってきた。
レオンは剣を一閃し、先頭の二匹を刃ではなく剣の腹で打ち据え、強烈に弾き飛ばした。
殺すより生かして散らした方が早いと判断したからだ。
だが残る一匹がレオンの死角である背後に回り込み、鋭い牙を剥き出して跳躍した。
レオンは背後を振り返ることなく、ミリアに向かって叫んだ。
「俺を守れ、ミリア!」
「……っ!」
私なんかが、先生を守れるわけがない。
触れればすべてを凍らせてしまう、呪われた化け物の力なのに。
しかしレオンの『守れ』という言葉が、ミリアの心を強烈に揺さぶった。
目の前で自分を庇ってくれているただ一人の大人を、絶対に死なせたくない。
(誰も傷つけたくない。先生を、守りたい……!)
「人を遠ざける氷じゃない!誰かを守る氷に変えろ!」
ミリアは両手を強く握り締め、目をカッと見開いた。
これまで暴走し全方位に無差別に吹き荒れていた冷気を、彼女は人生で初めて自分の明確な意志で束ねた。
殺すためじゃない。
遠ざけるためじゃない。
ただ、目の前の大切な人を守るために。
「お願い……守って……!」
直後、レオンの背後に迫っていたブラッドウルフの目の前に分厚く透明な氷の壁が凄まじい速度でせり上がった。
ガァァァンッ!
鈍い衝撃音が響き渡り、空中にいたブラッドウルフは透明な氷の壁に激突して無様に弾き飛ばされた。
壁は決して魔獣の命を奪うことも、全身を凍らせて砕くこともしなかった。
ただ強固な物理的な盾として、そこに凛然とそびえ立っていたのだ。
「……え?」
ミリアは自分の震える両手を見つめ、そして目の前に作り出された美しい氷の防壁を見た。
凍結による無差別な破壊ではない。
対象を殺すことなく、ただ防ぐためだけの盾。
自分が作り出したそれは、月明かりを反射して、ステンドグラスのように静かに輝いていた。
「よくやった。完璧なタイミングだ」
レオンが口元に笑みを浮かべ、振り返って言った。
そして残りのブラッドウルフたちに向けて、元勇者としての本気の凄まじい威圧と肌を刺すような鋭い殺気を放った。
それは氷の冷気よりもはるかに恐ろしい、死の気配そのものだった。
ドーム内の空気がビリビリと震え、圧倒的な力の差を本能で悟った魔獣たちは悲鳴を上げ蜘蛛の子を散らすように雪の森の奥へと逃げ去っていった。
あっという間に氷のドーム内には静寂が戻り、吹き荒れていた猛吹雪も嘘のようにぴたりと止んだ。
ミリアは呆然としたままゆっくりと歩み寄り、自分が作り出した透明な氷の壁にそっと触れた。
冷たい。
でも今まで自分が無意識に作り出していた、人を拒絶する痛い氷とは違う。
「私が……先生を、守った……?」
「そうだ」
レオンは剣を鞘に収め、ミリアの正面に立った。
「お前の力は誰かを傷つけ、お前自身を孤独にするための呪いじゃない。使い方次第でこうして誰かを守る立派な盾になるんだ」
ミリアの瞳から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
今度は恐怖や絶望の涙ではない。
自分の存在が初めて肯定された、心からの安堵の涙だった。
自分が生きていてもいいのだと。
この恐ろしいと思っていた力が誰かの役に立つのだと。
目の前の不器用で型破りな大人が、命がけで教えてくれたのだ。
「先生……私、化け物じゃありませんか?」
震える声で問うミリアに、レオンは迷いなく答えた。
「ああ。お前は化け物なんかじゃない。ただの優しすぎる、俺の生徒だ」
ミリアの頬を伝って落ちた涙は、凍ることなく温かいまま氷の床に落ちて滲んだ。
「さあ帰るぞ、ミリア。エリス先生が心配して入り口で待っている」
レオンが歩き出す。
ミリアは手袋をした手でごしごしと涙を拭うと、急いでレオンの大きく頼もしい背中を追った。
「はい……っ、先生」
レオンの歩みに合わせて氷のドームが次第に崩れ落ち、冬の澄んだ月明かりが二人を照らし出す。
ミリアが歩く足元には、もう過剰な霜は降りていなかった。
世界を拒絶し孤独に凍りついていた少女の心が、初めてほんの少しだけ温かい場所に触れた夜だった。
森の入り口へと戻ると、暗闇の中で小さなランプの灯りが揺れていた。
エリスだった。
彼女は寒さに身を縮めながらも、二人の姿を見つけると血相を変えて駆け寄ってきた。
そして冷え切ったミリアの小さな体を、自分の体温で包むようにそっと抱きしめた。
「ミリアさん!無事でよかった……!レオン先生も、お怪我はありませんか!?」
エリスは王都の査察官に処分を要請されていたミリアを咎めることもなく、ただ一人の生徒としてその無事を喜んでいた。
ミリアはエリスのその態度に胸を打たれ、深く頭を下げた。
「ごめんなさい、エリス先生。私……ごめんなさい……」
「いいのです。無事に帰ってきてくれただけで十分です。さあ、早く寮に戻って温まりましょう」
エリスはミリアの背中を優しくさすり、寮へと歩き出した。
レオンはその二人の背中を見送りながら、夜空を見上げた。
彼の視界の端に、ミリアの頭上に浮かんでいたあの赤い文字がちらりと見えた。
『【未来の氷獄魔女】死亡者数、二百万人。破滅原因:孤独』
だがその赤い文字の奥に、別の未来の光が一瞬だけ差した。
まだ、未来が変わったわけではない。
それでも、変えられる可能性は確かに見えた。
レオンは小さく息を吐いてから、二人の後を追って歩き出した。




