第4話「雪の森の暴走」
冷たい夜の森を、ミリアはただひたすらに走っていた。
吐く息は白く、足先の感覚はとうに失われている。
しかし彼女を急き立てる恐怖と絶望は、寒さなど問題にならないほど強烈だった。
(王都研究塔には行きたくない。誰もいないところへ行かなきゃ)
彼女が足を踏み出すたびに、周囲の木々に霜が這い上がり、パキパキと音を立てて凍りついていく。
普段なら無意識に抑え込もうとする魔力が、今は完全にタガが外れ、止めどなく溢れ出していた。
悲しみと恐怖がそのまま物理的な冷気となって、世界を侵食していく。
「グルァァァ……」
不意に、暗闇の中から低く唸るような声が響いた。
ミリアが足を止めると、木々の隙間から三つの赤い眼光が浮かび上がった。
辺境の森に生息する凶暴な夜行性魔獣、ブラッドウルフだ。
王都の人間が『魔獣の巣』と恐れるこの森には、人間を餌と見なす怪物たちが徘徊している。
飢えた魔獣たちが獲物を見つけた歓喜と共に涎を垂らし、一斉にミリアへと飛びかかってきた。
「いやっ……!」
ミリアは思わず両腕で顔を覆い、悲鳴を上げた。
その瞬間だった。
彼女の絶望に呼応するように、足元から爆発的な冷気が全方位へと吹き荒れた。
ドゴォォォンッ!という轟音と共に、地面から巨大な氷柱が次々と突き出し、空中の水分が一瞬にして凍結する。
「ギャンッ!?」
飛びかかってきた三匹のブラッドウルフは、ミリアに触れるよりも早く空中で完全に氷漬けにされた。
重い氷の塊となった魔獣たちが地面に落下し、鈍い音を立てて転がる。
分厚い氷の中で赤い眼光だけが消えていく。
生きているのか、もう死んでいるのか。
ミリアにはそれすら確かめる勇気がなかった。
ミリアは震える目を開け、その凄惨な光景を目の当たりにした。
自分がやったのだ。
触れるまでもなく、ただ恐怖を感じただけで、命あるものを一瞬で凍らせてしまった。
(ああ……私は、やっぱり化け物なんだ)
ロベルトが言っていた通りだ。
自分は存在しているだけで誰かを傷つけ、命を奪ってしまう。
いずれ災害の種になるという言葉に、嘘はなかった。
「う、ああぁぁぁぁっ……!」
ミリアの口から張り裂けるような慟哭が漏れた。
彼女の感情が限界を超えた瞬間、森の中心で局地的な大吹雪が発生した。
凄まじい風と雪が渦を巻き、ミリアを中心に巨大な氷のドームが形成されていく。
誰にも近づかれたくない。
誰も傷つけたくない。
その願いは、祈りではなく分厚い氷の壁となって森を閉ざした。
同じ頃。
辺境学院の本校舎の窓から、森の上空に渦巻く異常な雪雲を見つめる男がいた。
王都教育局の査察官、ロベルト・グライスだ。
ロベルトは王都への報告書をまとめるため、まだ本校舎に残っていた。
「……やはり、私の目に狂いはなかったようですね」
彼は忌々しげに舌打ちをしつつも、その口元には冷たい笑みが浮かんでいた。
背後から、エリスが血相を変えて駆け込んでくる。
「ロベルト査察官!裏の森の異常な冷気は、まさか……!」
「ええ、彼女の魔力暴走です。エリス先生、これでご理解いただけたでしょう。あれはもはや生徒ではない。放置すればこの学院どころか、周辺の村まで凍りつく災厄ですよ」
ロベルトは懐から通信用の魔導具を取り出した。
ロベルトの中で、ミリア・フロストレインの扱いはこの瞬間に切り替わっていた。
教育不能な生徒でも、移送すべき研究対象でもない。
被害が出る前に処理すべき、災害そのものだ。
「王都へ緊急連絡を入れます。対象は完全暴走。教育の範疇を逸脱。これより『処分対象』として、王都騎士団の討伐部隊派遣を要請します」
「討伐!?移送ではなくですか!?」
エリスは息を呑み、信じられないという顔でロベルトを睨みつけた。
「あれだけ大規模な暴走を起こせば、生け捕りなど不可能です。被害が拡大する前に、対象を排除するしかありません」
「待ってください!まだレオン先生が彼女を連れ戻すために森へ向かっています!討伐部隊など呼べば、先生まで巻き込まれます!」
エリスの必死の抗議を、ロベルトは鼻で笑って切り捨てた。
「元勇者とはいえ、教育の素人に何ができるというのです。あの異常な冷気の中に入れば、彼とて凍死するだけでしょう。自業自得ですよ」
ロベルトは冷酷な目で森を見据える。
災害の芽は早めに摘むに限る。
それが王都の平和を守る官僚としての、正しい判断なのだ。
猛吹雪が吹き荒れる暗い森の中を、レオンは一人で歩いていた。
一歩足を踏み出すごとに、膝まである雪が足に絡みつく。
木々は完全に白く凍りつき、まるで氷の彫刻のように立ち尽くしている。
吹き付ける風は刃物のように鋭く、普通の人間であれば数分と持たずに体温を奪われ命を落とすだろう。
だがレオンは腰に提げた剣の柄に手を添えたまま、平然と歩みを進めていた。
(……魔王軍の氷の魔将が使っていた吹雪に比べれば、まだ生ぬるいな)
レオンは戦場での過酷な記憶を呼び起こしながら、冷静に周囲の状況を分析していた。
この吹雪には明確な殺意がない。
ただひたすらに「近づかないでくれ」という怯えと拒絶が渦巻いているだけだ。
歩き進めるうちに、レオンは氷漬けになった魔獣の残骸を見つけた。
ブラッドウルフだ。
「ミリアの奴、よほど怖かったんだろうな」
レオンはぽつりとこぼした。
王都の人間が見ればこの凄まじい破壊力に震え上がり、彼女を化け物と呼ぶだろう。
だがレオンの目には違って見えた。
これは攻撃魔法ではない。
ただの不器用で巨大すぎる自己防衛だ。
怯えきった子供が、泣きながら毛布を被って丸まっているのと同じだ。
ただその毛布が、世界を凍らせるほどの冷気だったというだけの話。
やがてレオンの視界に、巨大な氷のドームが映し出された。
木々を飲み込み、周囲の地形すら作り変えるほどに分厚く強固な氷の結界。
その中心にミリアがいるのは明白だった。
ドームの表面からは絶対零度に近い冷気が発せられており、周囲の空気が白く凍りついて視界を遮っている。
レオンは躊躇うことなく氷のドームに近づいた。
彼が手を伸ばした瞬間、氷の表面から鋭い棘が無数に突き出し、レオンの腕を貫こうとする。
防衛本能による自動迎撃だ。
「悪いが、少し荒療治になるぞ」
レオンは腰の剣を抜き放ち、突き出された氷の棘を剣の腹で受け流す。
そしてそのまま力任せに叩き折り、流れのまま魔力を込めた剣で一撃を氷の壁に叩き込む。
ガァァァンッ!!
鼓膜を破るような轟音が森に響き渡り、分厚い氷のドームに巨大な亀裂が走った。
レオンは間髪入れずに二撃、三撃と剣を振り下ろし、強引に氷の壁を粉砕していく。
飛び散る氷の破片を顔に浴びながら、レオンはドームの内部へと足を踏み入れた。
ドームの中は、外の吹雪が嘘のように静まり返っていた。
月明かりが氷に反射し、青白く幻想的な空間を作り出している。
その中心で、ミリアは両膝を抱えてうずくまっていた。
氷が砕ける音に驚き、彼女は弾かれたように顔を上げる。
「……っ!?」
そこには、全身に雪と氷の破片を浴びたレオンの姿があった。
ミリアは信じられないものを見るように目を大きく見開いた。
「先生……?どうして……」
「出欠を取った時に言っただろう。ホームルームが終わったら、まっすぐ寮に帰れと」
レオンは剣を鞘に収め、いつものように気だるげな声で言った。
「寄り道が過ぎるぞ、ミリア。風邪を引く前に帰るぞ」
レオンが彼女に向けて一歩足を踏み出す。
その瞬間ミリアの顔が恐怖に引きつり、彼女の足元から激しい冷気が渦を巻いた。
「来ないで!」
ミリアの悲痛な叫び声が、氷のドーム内に木霊する。
「私に近づかないでください!私は……私は、人間じゃないんです!」
彼女はボロボロと涙をこぼしながら、後ずさりをした。
「査察官の言う通りです。私は災害の種になる化け物です!ここに来る途中で、魔獣を……命あるものを、一瞬で凍らせてしまいました!」
ミリアの震える声は、罪悪感と自己嫌悪で押し潰されそうになっていた。
「私がここにいれば、いつか必ず先生やエリス先生のことも凍らせてしまいます。私は誰にも触れちゃいけない。誰とも関わっちゃいけないんです!」
ミリアの感情が高ぶるにつれて、ドーム内の温度がさらに急降下していく。
レオンのコートに霜が張り付き、彼の吐く息すら空中で凍りついて落ちていく。
普通の人間なら、もう立っていることすら不可能な極寒の領域だ。
だがレオンはミリアの悲痛な叫びを聞いても、決して足を止めなかった。
彼は氷の床を真っ直ぐに踏みしめ、ゆっくりと彼女との距離を詰めていく。
「来ないでって言ってるのに……!先生まで凍らせたくない!」
ミリアが目を閉じ、両手で顔を覆って叫んだ。
彼女の周囲の空気が限界まで凍てつき、レオンの体を白く包み込んでいく。
吹雪が視界を遮り、彼女の嗚咽だけが冷たい空間に響いていた。




