第10話「氷壁の守護者」
あの襲撃事件から数日が経った辺境学院の本校舎。
学院長代理であるエリスの執務室には、王都と繋がる大型の通信魔導具が置かれ、そこからヒステリックな怒声が響き渡っていた。
「私の部下を不当に暴行した元勇者の処分と、氷の化け物の強制移送!この二点は絶対に譲りませんよ、エリス先生!」
通信の向こう側にいるのは、先日の失態から王都へ逃げ帰った王国教育局の査察官ロベルト・グライスだった。
彼は自身の非を一切認めることなく、王都の権威を振りかざしてなおもミリアを危険指定し、王都研究塔へ収容しようと足掻いていたのだ。
エリスは通信魔導具に向かって、一歩も引かずに毅然と言い放った。
「そちらこそ冗談はおやめなさい、ロベルト査察官。ミリアさんは防衛魔法によってクラスの全員を無傷で守り抜きました。彼女は暴走する化け物などではありません。立派に魔力を制御してみせたのです。すでに教育局本部には詳細な報告書と、あなたの規定違反に関する抗議文を提出済みです」
「あんなものはただのまぐれだ!極度のパニックが引き起こした偶然の産物に過ぎない!あの化け物が少しでも機嫌を損ねれば、次は辺境学院のすべてが氷の墓標に変わる!なぜそれが分からないのですか!」
ロベルトが唾を飛ばさんばかりの勢いで喚き散らしたその時だった。
執務室のドアがガチャリと無造作に開けられた。
「朝からやかましいな。王都の役人は声のボリューム調整もできないのか」
呆れたような声と共に部屋に入ってきたのは、黒いコートを着たレオンだった。
そして彼の後ろには、ミリア、ガルド、セレス、ノア、リュカの五人の生徒たちがぞろぞろと続いている。
通信魔導具に映し出されたロベルトの顔が、恐怖と憎悪で露骨に引きつった。
「き、貴様ら……!反逆者の分際で、いけしゃあしゃあと……!」
「反逆者扱いは勝手だが、俺の生徒を化け物呼ばわりするのは聞き捨てならないな。あの氷壁が偶然の産物だと言ったか?」
レオンが促すように視線を向けると、ガルドがポケットに両手を突っ込んだまま前に出た。
「おい役人。寝言は寝てから言えよ。あいつの氷壁は偶然なんかじゃねえ。あの時あいつは、明確に俺たちを庇って氷の壁を張ったんだ。俺の本気の黒炎すら防ぎきった盾だぞ。王都の騎士団が束になって斬りかかったところで、傷一つつけられなかっただろうが」
ガルドのぶっきらぼうだが確信に満ちた言葉に、ロベルトは言葉を詰まらせた。
続いてセレスが優雅に扇子を広げ、通信魔導具に向かって冷ややかに微笑む。
「事実として、私たちは無傷ですわ。王都の精鋭とやらが束になっても防壁一枚破れなかったという無能の証明を、これ以上世間に晒したいのかしら?王都の恥ですわね」
「貴様、名門ヴァーミリオン家の令嬢が、その落ちこぼれたちの肩を持つのか!」
「ええ。今の彼女は、私が背中を預けるに足る優秀な防衛力を持っていますから」
セレスが言い切ると、ノアも静かに口を開いた。
「ミリアは……僕たちを、守った。ただの暴走なら、僕の骨の鳥は一瞬で砕け散っていたはずだ。でも、氷は僕たちを傷つけなかった」
「氷、冷たくなかった。痛くなかった」
リュカも尻尾をパタパタと振りながら、ロベルトに向かって短く言い放つ。
クラスメイト全員からの明確な擁護の証言。
誰もミリアを恐れていない。
誰も彼女を危険物扱いしていない。
ロベルトは顔を真っ赤にして反論しようとしたが、それよりも早く、ミリア本人がレオンの背中から一歩前へと進み出た。
彼女の手には、レオンから渡された黒い魔獣革の手袋がしっかりと嵌められている。
「私は……もう、逃げません」
ミリアの声は少し震えていたが、その瞳にははっきりとした強い意志が宿っていた。
ロベルトの姿を見ても、もう足元から冷気が広がることはない。
「私はずっと、自分が誰かを傷つける化け物だと思っていました。でも、先生が手を取ってくれたから。みんなが私を信じてくれたから。……私は私の氷で、みんなを守ります。だから、もう王都には行きません」
世界を拒絶し、孤独の殻に閉じこもっていた少女の、初めての明確な意思表示だった。
ロベルトはギリッと歯を食い縛り、悔しそうに通信魔導具を睨みつける。
「……後悔することになりますよ。その化け物の本性が現れた時、あなた方は必ず……!」
「用件が済んだなら切るぞ。生徒たちの昼飯の時間が減る」
レオンはロベルトの捨て台詞を最後まで聞くことなく、通信魔導具の電源を容赦なく叩き切った。
光が消え、執務室に静寂が戻る。
「まったく……相変わらず無茶苦茶ですね、あなたたちは」
エリスは小さく溜息をつきながらも、その顔にははっきりとした安堵の笑みが浮かんでいた。
彼女自身も、これまでは王都の顔色をうかがいながら綱渡りで学院を運営してきた身だ。
しかし今は、レオンと生徒たちの確かな絆を目の当たりにして、自分も彼らを守る側に立つ覚悟ができていた。
レオンはミリアを振り返った。その瞬間、レオンの視界が微かに揺れた。ミリアの頭上に浮かんでいた禍々しい血のような赤い文字。
『【未来の氷獄魔女】死亡者数、二百万人。破滅原因:孤独』
その文字がパリンッと音を立てて砕け散り、光の粒子となって消えていく。
そして代わりに、澄んだ氷のように美しく眩い青色の文字が、彼女の頭上に静かに浮かび上がった。
『【氷壁の守護者】』
死者数も、破滅原因も、そこにはもう何も書かれていない。
未来が変わったのだ。
世界を凍らせるはずだった少女は、今、誰かを守るためにここに立っている。
レオンは満足そうに目を細めた。
その変化を知るのは、レオンだけだった。
だがミリアがもう孤独の中にいないことは、ここにいる誰の目にも明らかだった。
レオンはミリアの銀色の髪をぽんぽんと撫でる。
「よくやったな、ミリア」
「……はいっ!」
ミリアは頭上の変化など知らない。
それでも、先生に認められたことが嬉しくて、満面の笑みで頷いた。レオンの大きな手は少しも凍ることはなく、ただ温かい体温だけがそこにあった。
レオンは懐から一枚の羊皮紙を取り出し、エリスの机の上に置いた。
「教育局に提出するミリアの正式な評価報告書の書き直しだ。エリス先生、これを王都に送ってくれ」
エリスがその羊皮紙を手に取り、内容に目を通す。
「……ミリア・フロストレインの再評価。『氷獄魔女候補、改め、氷壁の守護者』……」
エリスは羊皮紙から目を上げ、隣に立つミリアを見つめた。
少なくともレオンが提出する評価報告書の中で、彼女はもう「危険因子」ではなく「守護者」として記されていた。
その一歩が、エリスにはたまらなく誇らしかった。
彼女は堪えきれないように、ふふっと笑い声を漏らした。
「……本当に、あなたという人は教師の書類仕事というものを理解していませんね」
「事実を書いただけだ」
レオンは平然と答え、生徒たちに向き直った。
「よし、それじゃあ食堂に行くぞ。今日の給食は温かいシチューらしい」
「おお!やっとまともな肉が食えるぜ!」
「シチューの肉は少々控えめですわね。せめて一口で満足できる大きさにしていただきたいものですわ」
「骨も……煮込めば、いい出汁が取れると思う」
「肉!早く行く!」
隔離クラスの生徒たちが騒がしく執務室を出ていく。レオンはエリスに軽く手を挙げてから、子供たちの背中を追って歩き出した。
***
同じ頃、王都の教育局本部。
壮麗な大理石の部屋で、ロベルト・グライスは局長である上司の執務机の前に直立不動で立っていた。
彼の顔は屈辱と疲労で酷くやつれ、手には分厚い報告書の束が握られている。
上司はロベルトから提出された報告書をめくり、興味深そうに目を細めた。
「……ほう。危険生徒ミリア・フロストレインが、王都騎士団の攻撃から防壁として氷を制御し、他の生徒たちを守り抜いた。さらに事件後は暴走の兆候が見られず、辺境学院の特別隔離クラスにおいて一定の教育効果を確認した……と」
上司が読み上げるたびに、ロベルトは奥歯をギリギリと噛み締めた。
嘘を書くわけにはいかない。
実際に騎士たちが手も足も出ずに防がれたのは事実であり、エリスからの正式な抗議文と状況証拠がすべて揃ってしまっているのだ。
「申し訳ありません、局長。しかしあれは偶然の……!」
「言い訳はよい」
上司は書類を机に置き、ロベルトを冷ややかに見据えた。
王国上層部にとって、特別隔離クラスの生徒たちは、単なる問題児ではなかった。
将来的に王国の管理下へ置くべき危険な才能。
そのはずだった。
しかしミリア・フロストレインは変わり始めている。
恐怖と孤独によって暴走するはずだった少女が、仲間を守るために力を使った。
それは、王都が想定していた管理計画にとって、明らかな誤算だった。
「つまり……災厄候補の未来が、変化したというのか?」
上司の言葉に、ロベルトは何も言い返せず、ただ深く頭を下げることしかできなかった。
上司は窓の外の王都の街並みを見下ろし、忌々しげに呟いた。
「あの男……元勇者レオン・グランヴァルトの赴任は、我々の予想を超えて成功しているということだな。まさか本当に教師の真似事をやり遂げるとは」
王国が望んだ破滅のシナリオを、あの気だるげな黒衣の男が片っ端から叩き壊そうとしている。
ロベルトは握りしめた拳から血が滲むほどに、深く爪を立てた。
***
だが王都の陰謀など知る由もない辺境学院の食堂では、今日もレオンと五人の生徒たちが、賑やかで温かい給食の時間を過ごしていた。
ミリアは、両手にはめた黒い魔獣革の手袋を見つめた。
先生が何度凍らされても手を取ると言って渡してくれた彼女の大切な宝物。
その手袋を、ミリアはそっと外した。
素手の指先で、温かい器に触れる。
ピキッという音はしなかった。
シチューは、温かいままだった。
ミリアは外した手袋を膝の上に大切に置き、スプーンを口へ運んだ。
じんわりとした温かさが体中に広がっていく。
温かいシチューを温かいまま、誰かと一緒に笑いながら食べることができる。
それがミリアが手に入れた、何よりも大切な日常だった。
第1章「氷獄魔女編」はここで一区切りです。
ミリアが少しでも温かい場所に辿り着けたと感じていただけたなら嬉しいです。
「続きも読みたい」「この教室を見守りたい」と思っていただけましたら、
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明日からは第2章、黒炎の少年ガルドの物語が始まります。




