第76話「紅蓮の宰相、銀狼の守護獣」
王都の市街地を舐めるように荒れ狂っていた魔導具の暴走は、ミリアの氷壁、ガルドの黒炎、そしてノアの魂送りによって、最悪の事態への進行を辛うじて食い止められていた。
だが彼らが前線で戦い続けるためには、後方の完璧な支援と情報統括が不可欠だった。
セレス・ヴァーミリオンは市街地を一望できる高台の神殿跡地に本陣を構え、赤い扇子を片手に絶え間なく指示を飛ばしていた。
彼女の足元には、ノアが救護の合間に放った小さな骨の鳥たちが何羽も並んでいる。
死者の声を聞き取る術は、生者同士の言葉を運ぶ術にもなる。
ノアはセレスの求めに応じて、王都の各所へ即席の伝令網を組み上げていたのだ。
それぞれの骨の鳥は、ミリア、ガルド、レオン、ユリウス、そして各避難拠点へと繋がる伝令役だった。
セレスが指示を告げるたび、骨の鳥たちはカタカタと嘴を鳴らして飛び立ち、王都の各所へ命令を届けていく。
もはやそれは、ただの死霊術ではなかった。
紅蓮の宰相の采配を王都全域へ行き渡らせる、即席の伝令網だった。
「第三区画の避難民は、中央広場へ誘導なさい!そこへはガルド君が避難路を確保済みですわ!負傷者は西の救護拠点へ!動ける者は瓦礫の撤去と物資の運搬を手伝いなさい!」
彼女の赤い瞳は王都全体の被害状況、魔力の流れ、民衆の動きを完全に把握し、巨大な盤面として処理していた。
かつての彼女なら人々をチェスの駒のように冷酷に扱い、切り捨てる者と生かす者を計算していただろう。
だが今の彼女が構築しているのは『誰一人として見捨てない』ための陣形だった。
セレスの声を写し取った骨の鳥たちが崩れた街路や屋根の上を飛び、各所でカタカタと嘴を鳴らす。
その伝令は混乱する避難民だけでなく、指揮系統を失った王都騎士団の生き残りたちの耳にも届いていた。
伝令が届くまでに、ほんのわずかな時差はある。
それでも完全に指揮系統を失っていた王都にとっては、十分すぎるほどの秩序だった。
「騎士団の皆さん。あなた方の役目は民を守ることでしょう?今は王都の威信など忘れて、目の前の命を救うために働きなさい!」
骨の鳥の嘴から響いた凛とした令嬢の叱咤に、騎士たちは我に返った。
逃げ惑うだけだった彼らは互いに顔を見合わせると、やがて避難誘導と瓦礫の撤去に走り出す。
紅蓮の宰相の采配は、混乱する王都に確かな秩序をもたらしていた。
一方、西の救護拠点。
エリスとメルディアが立ち上げた野戦病院のようなその場所には、次々と重傷者が運び込まれていた。
「エリス先生、止血の布が足りません。あちらの箱から補充を」
「はい、メルディア先生!」
メルディアは血まみれの白衣のまま、淡々と、しかし慈愛に満ちた手つきで次々と治癒魔法を施していた。
彼女の指先から放たれる温かな魔力が、瀕死の重傷者たちの傷を塞ぎ、命を繋ぎ止めていく。
その神業のような治癒魔法を見ていた王都の古参の騎士が、ハッとして息を呑んだ。
「その術式の展開……そして、特有の魔力波長……。まさかお前、魔王軍の……!」
騎士の叫びに、周囲の空気が一瞬だけ凍りついた。
魔王軍。
それは三年前まで人類を絶望の淵に追いやっていた、絶対的な敵の代名詞だ。
その生き残りが王都の真ん中にいる。
怯えと敵意の視線がメルディアに向けられる。
だがメルディアは治療の手を止めることなく、静かに顔を上げた。
「ええ。私はあの戦争の中で、魔王軍に身を置く治癒術師として戦場に立っていました。今は敵味方を問わず、傷ついた者を治す者として、ここにいます」
堂々たる告白に、怪我人たちが息を呑む。
騎士が剣の柄に手をかけようとした、その時だった。
メルディアが治療していた怪我人の母親が、メルディアの手を両手でぎゅっと握りしめたのだ。
「魔王軍でも、なんでもいい……!あなたが、私の子の命を救ってくれた。あなたは私たちの恩人です!」
母親の涙ながらの言葉に、周囲の民衆も次々と頷き始めた。
「そうだ!王国上層部は私たちを見捨てて逃げたじゃないか!」
「敵だったとしても、今私たちを治してくれているのはこの人だ!」
民衆の言葉に騎士も剣から手を離し、気まずそうに俯いた。
メルディアは少しだけ目を丸くし、それからいつもの穏やかな微笑みを浮かべた。
「……魔王軍も、人間も関係ありません。傷ついた者を治す手は、同じです。さあ、次の怪我人をこちらへ」
彼女の言葉に、救護拠点は深い感謝と温かな空気に包まれた。
王国の正義が作り出した兵器によって傷ついた民を、元魔王軍の治癒術師が救う。
その皮肉な現実が王都の民衆の心にあった偏見の壁を、音を立てて崩していった。
そして崩壊する王都の街路を、一筋の銀色の閃光が駆け抜けていた。
リュカ・ウォルフだ。
彼女は半獣化の力を解放し、銀狼の守護獣としての真の姿で炎と瓦礫の海を跳躍していた。
「きゃあああ!お婆ちゃんが、まだあの中に!」
燃え盛る家屋の前で泣き叫ぶ少女。
リュカは一切の躊躇なく、炎の中へと飛び込んだ。
彼女の銀色の毛皮は、並の炎や衝撃を完全に弾き返す。
数秒後、リュカは炎の中から老婆を背負って飛び出してきた。
「お婆ちゃん!」
「無事。怪我ない。早く逃げて」
リュカがそっけなく言うと、少女はリュカの銀色の尻尾にぎゅっと抱きついた。
「わんわん、ありがとう!」
「……わんわんじゃない。銀狼。でも、どういたしまして」
リュカは耳をパタパタと動かし、まんざらでもない様子で尻尾を揺らした。
かつてリュカは人間を嘘つきだと憎み、王都の大人たちを自分を檻に入れる敵だと激しく拒絶していた。
『やられる前に殺す』。それが彼女の防衛本能だった。
だが今の彼女は自分の圧倒的な速度と力を、弱い人間たちを安全な場所へ運ぶために使っている。
彼女が守っているのは、辺境の隔離クラスの仲間だけではない。
助けを求めるこの人間たちもまた、彼女が守るべき『群れ』の一部になっていたのだ。
リュカは煙に混じる匂いを探るように、鼻を小さく動かした。
「……変な匂い」
彼女の鋭い野生の嗅覚が煙と血の匂いの中に混じる、人工的で嫌な悪臭を捉えた。
それは王都教育局の地下で嗅いだ、あの腐った大人たちの嘘の匂いと同じだった。
「嘘つきの匂い、あっちからする。一番くさいところ……あそこが、大元!」
近くの屋根に止まっていた骨の鳥が、その声を写し取るようにカタリと嘴を鳴らし、高台の本陣へ向けて飛び立った。
だがリュカは骨の鳥に任せきりにはしなかった。次の戦いの前に、自分の足でセレスと合流する。
彼女は匂いの源である王都の深部を睨みつけ、高台で指揮を執るセレスの元へ一直線に駆け出した。
「セレス!嘘つきの匂い、あっちからする。一番くさいところ!」
リュカの言葉を聞いた瞬間、セレスの赤い瞳が鋭く細められた。
彼女は王都全域の避難経路と魔力流の分布を頭の中で重ね合わせ、扇子で一点を示す。
「なるほど。避難民の流れを不自然に避けている空白地帯……そこが暴走魔導具の中枢ですわね。リュカさん、見事な索敵ですわ」
「ん。あそこ、くさい。血の匂いじゃない。鉄と、古い魔力と、嘘つきの匂い」
リュカが牙を剥き、王都の奥に広がる不自然な空白地帯を睨み据える。
その瞬間、背後の屋根に黒いコートが降り立った。
「やっぱり見つけていたか」
レオンだった。
セレスは振り返り、当然のように微笑む。
「ええ、先生。王都を壊している暴走魔導具の中枢、ようやく尻尾を掴みましたわ」
「ん。あっち。奥に行くほど、くさい。罠の匂いも混じってる」
リュカが王都の奥に広がる不自然な空白地帯を睨み据え、低く唸る。
レオンはセレスが示した地図と、リュカが指し示す方角を見比べ、短く頷いた。
「なら、授業の続きだな。案内しろ」
「承知しましたわ」
「リュカ、先に走る。罠、嗅ぎ分ける」
紅蓮の宰相と銀狼の守護獣が示した道筋を辿り、レオンたちは王都深部に隠された暴走魔導具の中枢へと突入した。
避難民の流れを避けるように配置された地下施設。
そこには、王都全域へ魔力を流し込む巨大な魔石炉が、禍々しい光を放っていた。
「正面の術式は囮ですわ。右側の魔力流に、ほんの僅かな乱れがあります。そこが防衛陣の継ぎ目です」
「ん。左、鉄の匂い。床、罠ある。踏んだら駄目」
セレスが防衛術式の隙間を読み、リュカが罠の匂いを嗅ぎ分ける。
二人の声に従って、レオンは迷いなく地下施設を駆け抜けた。
暴走する魔力が牙を剥き、幾重もの防衛術式が襲いかかる。
だがセレスが道を読み、リュカが危険を嗅ぎ分ける限り、レオンの足は一度も止まらなかった。
そして最後の中枢部。
巨大な魔石炉の中心で、黒く濁った魔石が脈打つように光っていた。
「あれが核ですわ!」
「先生、今!」
リュカの叫びと同時に、レオンが剣を抜き放つ。
眩い光の刃が地下施設を一閃し、暴走魔導具の核だけを正確に断ち割った。
轟音。
「……終わりましたわね」
「ん。くさいの、消えた」
セレスが小さく息を吐き、リュカがぴんと立てていた耳をゆっくり下ろす。
レオンは砕け散った魔石炉を一瞥し、すぐに王城の方角へ視線を向けた。
セレスが小さく息を吐き、リュカがぴんと立てていた耳をゆっくり下ろす。
レオンは砕け散った魔石炉を一瞥し、すぐに王城の方角へ視線を向けた。
「よし。次は、こんなもんを作らせた連中に授業をしてやる番だ」
王都各地に仕掛けられた模造魔導具への魔力供給は、紅蓮の宰相と銀狼の守護獣が示した道筋を辿り、元勇者の一撃によって断ち切られた。
だが王城の奥には、模造魔導具とは異なる、さらに禍々しい魔力の気配が残されていた。
王都救援戦は、いよいよ最終攻略の局面へ移ろうとしていた。




