第73話「先生、逃げてください」
王都教育局の地下深くに位置する特別機密保管庫。
入り組んだ石造りの通路に、けたたましい非常警報のベルが鳴り響いていた。
赤く点滅する魔導ランプの光が、証拠となる機密記録の束を手にしたレオン・グランヴァルトと、隔離クラスの生徒たちの顔を緊迫した色に染め上げている。
彼らの背後、そして前方の通路の両端から、地響きのような重い足音と金属の擦れる音が急速に迫ってきていた。
「どうやら、おしゃべりの時間は本当に終わりのようだな」
レオンが気だるげな声を完全に消し去り、腰の剣を静かに抜き放つ。
通路の前方に姿を現したのは、純白と銀色の鎧に身を包んだ王都騎士団の精鋭部隊だった。
その数は数十、いや、背後から迫る部隊も合わせれば百は優に超えているだろう。
彼らは完全に退路を塞ぐように密集した陣形を組み、最前列には対魔法用の魔導盾を構えた重装騎士が隙間なく並んでいた。
そして騎士団の奥から、王国教育局長が忌々しげな顔で進み出てきた。
「まさか最深部の機密保管庫まで破るとはな。予想以上のネズミどもだ。だが貴様らの逃げ場はもうどこにもない」
局長の冷酷な声が、地下通路に響き渡る。
「レオン・グランヴァルト。貴様はその危険な実験体どもに洗脳され、王国への大逆罪を犯した反逆者だ。その手にある資料を大人しく渡し、投降しろ。そうすれば苦しまずに処分してやろう」
「断る。これは王都の腐った盤面をひっくり返すための、大事な切り札なんでな」
レオンが剣の切っ先を局長に向けた時だった。
「……局長」
純白と黄金の鎧を着たユリウス・クラウンが、レオンの隣から一歩前に出た。
彼の瞳には、かつての空虚なガラス玉のような色はなく、確かな怒りと絶望の炎が宿っていた。
「あなた方は……本当に、魔獣を誘導して民を犠牲にし、罪のない子供たちを兵器として扱う実験をしていたのですね。そして僕を、その事実を隠蔽するための飾りの英雄として仕立て上げた。……それが、王国の正義なのですか」
ユリウスの血を吐くような問いかけに、局長は冷たく鼻を鳴らした。
「不要な自我を持ったか、不良品め。正義とは秩序だ。そのためには犠牲も偽悪も不可欠なのだ。民衆は愚かだからこそ、分かりやすい『敵』と『光』を与えてやらねばならない。貴様も失敗作として、ここで廃棄してやる」
局長が非情に右手を振り下ろした。
それを合図に騎士団が一斉に武器を構え、濃密な殺気を放って前進を開始する。
退路はない。正面から突破するにしても、これだけの数と重装備の相手では時間を稼がれ、やがて押し潰されるのは明白だった。
「エリス先生、メルディア。ユリウスと一緒に俺の後ろへ。セレス、お前は証拠を持て。絶対に落とすな。俺が前を開く。お前らは……」
レオンが闘気を極限まで高め、一人で騎士団の海へ飛び込もうとした、その瞬間だった。
黒いコートの前に、赤い髪の少年がドンッと立ち塞がった。
「おい元勇者。てめえはすっこんでろ」
ガルド・バルガが両手に禍々しい黒炎を立ち上がらせ、不敵な笑みを浮かべてレオンを振り返った。
「お前……」
レオンが目を見張る中、続いて白銀の髪の少女がガルドの横に並び立った。
「先生、逃げてください」
ミリア・フロストレインが、真っ直ぐな瞳でレオンを見つめて言った。
「その証拠を外に出して、王都の人たちに真実を伝えるのが先生の一番大事な役目ですよね。もし先生がここで捕まったら、王都の闇は永遠に暴かれません。だから……ここは私たちが、先生を守ります」
「ミリアの言う通りですわ。先生はこれまで、何度も私たちを守ってくださいました。今度は私たちが、先生の背中を押す番ですのよ」
セレス・ヴァーミリオンが扇子を広げ、気高く微笑む。
ノア・レイスが静かに進み出て、地下通路の冷たい石壁にそっと手を当てた。
「……地下の魔力痕跡と、昔ここで死んだ作業員たちの声が聞こえる。この機密保管庫が作られる前、ここは王都の古い下水道の管理区域だったみたいだ。正面の騎士団の奥じゃなく、右の壁の裏に、当時の隠し通路がそのまま残っている。そこからなら王都の郊外へ抜けられる」
「完璧ですわ、ノア君。ならば作戦は決まりましたわね」
セレスが鋭い瞳で戦場を俯瞰し、即座に采配を振るう。
「ノア君は隠し通路の扉を開き、ルートの確保を。ガルド君とミリアさんは正面と後方の足止めをお願いしますわ。決して深追いはせず、私たちが通路に入った瞬間に完全封鎖を。リュカさんは……」
「リュカ、一番速い。前を走る」
リュカ・ウォルフが四つん這いの低い姿勢を取り、鋭い爪を立てた。
彼女の銀色の尻尾が、闘志に満ちて揺れている。
「先生、遅れないで。リュカが道、作る」
かつてはレオンに怯え、あるいは反発し、自分の力に絶望していた問題児たち。
それが今、自分の意志で誰かを守るために、完璧な連携で元勇者の前に立っているのだ。
レオンは彼らの頼もしい背中を見渡し、ふっと口元を緩めた。
「……生意気になったな、お前ら」
レオンは剣を下段に下げ、闘気を静めた。
「分かった。お前らの背中を信じる。行け!」
「オラァッ!!」
ガルドが爆発的な黒炎を両手から放ち、正面から迫る騎士団の魔導盾に叩きつけた。
ドガァァンッ!という轟音と共に、最前列の騎士たちが熱波に吹き飛ばされ、陣形が大きく崩れる。
「ミリアさん、右の壁を!」
「はいっ!」
セレスの指示と同時に、ミリアが右の壁に向かって極低温の冷気を放った。
石壁が急速に凍結し脆くなったところへ、ガルドが黒炎の拳を叩き込む。
壁が粉々に砕け散り、ノアが声を聞き取った通り、暗く古い下水道への隠し通路が姿を現した。
「こっちだ!」
ノアが叫び、自ら先頭を切って隠し通路へ飛び込む。
エリスとメルディア、そしてユリウスがそれに続く。
「逃がすな!追え!」
局長が怒鳴り声を上げ、背後から迫っていた別働隊の騎士たちが一斉に隠し通路へと殺到しようとした。
「通しません!」
ミリアが通路の入り口に両手を突き出し、分厚く強固な氷の城壁を瞬時に展開した。
騎士たちの剣や魔法が氷壁に激突するが、傷一つつけられない。
ガルドが最後尾に残り、氷壁の隙間から黒炎を放って追手を完全に牽制する。
「行くぞ氷女!」
「はい!」
二人は最後に隠し通路へ飛び込み、ミリアが内側からさらに氷壁を何重にも塞いで退路を完全に断ち切った。
暗く湿った下水道の中を、リュカが先導して猛烈な速度で駆け抜けていく。
背後では、ミリアが塞いだ氷壁に魔導槌が打ち込まれる轟音が響いていた。
分厚い氷壁は持ちこたえているが、長くはない。
一行は誰一人として足を止めることなく、暗い水路を駆け抜けた。
暗闇の中でも彼女の野生の視覚と嗅覚は正確に安全な道を嗅ぎ分け、一切の迷いがない。
「こっち!罠の匂いない!」
「右は行き止まりだ。左へ!」
ノアが壁に残る残留思念を読み取り、リュカの直感を補足する。
「エリス先生、遅れないでくださいませ!ユリウスさんも、その重い鎧で足手まといにならないでくださいな!」
セレスが走りながら全体のペースを管理し、後方の安全を確認し続ける。
ユリウスは重い鎧の音を響かせながら走りつつ、目の前で繰り広げられる光景に圧倒されていた。
かつて彼が「辺境の落ちこぼれ」と見下していた子供たち。
彼らが今、元勇者であるレオンを守り、王都の地下という完全な敵地を完璧な連携で切り裂いている。
彼らの動きには一切の迷いがなく、互いへの絶対的な信頼で結ばれていた。
これが、心を通わせた本物の絆の強さなのか。
ユリウスの胸の奥で、空っぽだったはずの心臓が熱く高鳴り始めていた。
「チッ、回り込んできたか!」
下水道の交差点で、別ルートから先回りしていた王都の特務部隊が数人姿を現した。
彼らは即座に魔法を詠唱し、足止めを狙う。
「下がっててください、私が!」
「すっこんでろエリス先生!俺がやる!」
エリスが魔法を撃とうとするのを制し、ガルドが走りながら前方へ飛び出した。
彼は圧縮した黒炎を壁のように広げ、敵の魔法を完全に呑み込んで無力化する。
そこにミリアが冷気を重ね、炎と氷の混合障壁を作り出して特務部隊を完全に封じ込めた。
「出口の匂い!風の匂いする!」
リュカが叫んだ。
前方の暗闇の先に、かすかな月明かりが見える。
王都の郊外へと繋がる、下水道の排出口だ。
リュカが一気に外へ飛び出し、周囲の安全を確認する。
「誰もいない!安全!」
その声に導かれ、一行は次々と下水道から外の荒野へと飛び出した。
冷たい冬の夜風が、火照った彼らの体を心地よく冷やしていく。
背後からの追手の気配は完全に消え去っていた。
無事に王都の最深部から、絶望的な包囲網を突破して脱出したのだ。
レオンは息を切らして膝に手をつく生徒たちを見渡し、心の底から満足げに笑った。
「見事な連携だった。おかげで助かったぞ」
「へっ、当たり前だろ!俺たちがどんだけ特訓したと思ってんだ!」
ガルドが荒い息を吐きながらも、誇らしげに胸を張る。
ミリアが嬉しそうに微笑み、ノアも静かに頷いた。
リュカは「先生、守った!」と尻尾を激しく振っている。
セレスは扇子で口元を隠し、優雅に息を整えた。
「これで決定的な証拠は持ち出せましたわ。あとは、これを王都の民衆の前でどう突きつけるかですわね」
セレスの視線が、自分がしっかりと抱えている機密記録の束へと向けられた。
その時、ユリウスがゆっくりと歩み出て、レオンの前に立った。
彼は泥と汚れにまみれた純白の鎧のまま、真っ直ぐにレオンの目を見つめた。
「……僕が、証言します」
その声には、もう作られた偶像の響きはない。
一人の人間として、自分の意志で立つ者の重みがあった。
彼自身の魂の底から発せられた、確固たる決意の言葉だった。
「僕は王国に作られた、空っぽの偶像でした。ですが、もう彼らの言いなりにはなりません。この証拠と共に、僕が王都の民衆にすべての真実を伝えます。彼らの目を覚まさせることが……僕が自分で選んだ、僕の剣の使い道です」
ユリウスの瞳には、もう迷いはなかった。
レオンはユリウスの顔を見て、小さく頷いた。
「いいツラになったな、ユリウス。……ああ、お前の言葉なら、王都の連中も聞かざるを得ないだろう」
かつてレオンに救われた生徒たちが、今度はレオンを守り抜いた。
そして作られた偽物の勇者は、王国の間違った正義をその手で暴く決意を固めた。
王国の深い闇を暴き、腐った盤面を完全にひっくり返すための最終決戦が、いよいよ始まろうとしていた。




