第69話「勇者とは称号ではない」
王都の心臓部、王国教育局の最上階に位置する大議事室。
豪華なシャンデリアが冷たい光を落とす円卓の前に、純白と黄金の鎧に身を包んだ新勇者ユリウス・クラウンは一人立っていた。
彼の周囲には、王国教育局の局長をはじめとする特権貴族たちが円座し、冷ややかな視線を投げかけている。
ルミナス村での一件から王都へ帰還したユリウスは、この場で自らの目で見てきた事実を報告していた。
「……以上が、ルミナス村で起きた魔獣襲撃事件の全容です。あれは自然発生したものではなく、何者かが意図的に魔獣を誘導し、民を危険に晒した人為的な事件でした。さらに、過去に辺境学院で起きたとされる隔離クラスの暴走事件も、王都の特務機関が用意した模造魔導具による偽装であったと推測されます」
ユリウスの声は静かだが、一片の迷いもなく大議事室に響き渡った。
彼は真っ直ぐに教育局長を見据え、言葉を継ぐ。
「民の命を演出の道具にし、罪のない生徒たちを危険な反逆者に仕立て上げる。そのような行いが、王国の正義であるはずがありません。私は王国の勇者として、この陰謀の首謀者を徹底的に調査し、真実を公表すべきだと具申いたします」
それは、かつて「王国の命令」だけを絶対の真理として受け入れてきた彼が、初めて自分の意志で放った告発だった。
レオンに言われた『内側からこの目で見届ける』という決意の通り、彼は真実を確かめ、正そうとしたのだ。
だが彼の言葉を聞いた教育局長や貴族たちは、動揺するどころか、ただ薄気味悪い沈黙を保っていた。
やがて教育局長が重々しい溜息をつき、手元の葉巻を灰皿に押し付けた。
「……やはり、報告通りか。辺境の野蛮な空気に当てられ、精神の均衡を崩してしまったようだな」
「精神の均衡、ですか?」
ユリウスが眉をひそめる。
「ええ。あなたは疲れているのですよ、ユリウス様。民を救うという重責が、あなたの心に幻覚を見せている」
局長はまるで壊れた玩具を見るような目で、ユリウスを見下した。
「魔獣を誘導しただの、隔離クラスの暴走が偽装だの、すべてはあの辺境の落ちこぼれ共が自分たちの罪を逃れるために吹き込んだ妄言です。あなたは彼らの卑劣な言葉に惑わされ、王国の正義を疑うように洗脳されているのですよ」
「洗脳ではありません!僕は自分の目で、この耳で確かめました!彼らは民を犠牲になどしていません!命懸けで村人たちを守っていました!」
ユリウスが声を荒らげる。
彼がこれほどまでに感情を露わにするのは、これが初めてだった。
だが局長は冷酷に鼻を鳴らした。
「どうでもいいことです」
「……何?」
「彼らが民を守ったかどうかなど、些末な問題だと言っているのです。王国が彼らを『災厄候補』と定めた以上、彼らは危険な反逆者でなければならない。王国の秩序を保ち、民衆を一つにまとめるためには、分かりやすい『敵』と『英雄』が必要なのです。そのために多少の犠牲が出たところで、王国の輝かしい未来のための必要経費に過ぎません」
局長の口から発せられたのは、特務役人が口にしていたのと同じ、どこまでも冷酷で腐りきった論理だった。
民の命はただの数字。
正義は権力を維持するための道具。
「あなたはただ、我々が用意した舞台で、美しく剣を振るっていればよかったのです。余計な自我など必要なかった。……残念ですよ、最高傑作だと思っていたのですがね」
局長が指を鳴らした。
重い扉が開き、王都騎士団の精鋭たちが十数人、一斉に大議事室へと雪崩れ込んできた。
彼らはユリウスを取り囲み、剣や槍の穂先を容赦なく彼へ向ける。
「なっ……!」
「新勇者ユリウス・クラウンは、辺境の反逆者レオン・グランヴァルトとその生徒たちによって精神を汚染され、王国への謀反を企てた。直ちに拘束し、思想を正すための特別な指導を行え!」
局長の無慈悲な命令が下される。
ユリウスは目を見開き、迫り来る騎士たちを見た。
自分が信じていた世界が、完全に崩れ去る音がした。
王国は、真実など最初から求めていなかった。
自分が何を感じ、何を正しいと思うかなど、彼らには少しの価値もない。
自分はただの、都合のいい偶像でしかなかったのだ。
「そして、元勇者レオンと隔離クラスの生徒たちは、王国の英雄を洗脳した大逆罪に問う。彼らを正式な『災厄討伐対象』に指定し、直ちに大規模な討伐部隊を辺境へ派遣せよ。一人残らず、灰にしろ」
その言葉が、ユリウスの心臓を鋭く貫いた。
(僕のせいで……彼らが、討伐される?)
自分が王都に戻って告発したことで、王国は隔離クラスを排除する計画を早めてしまった。
正しいことをしようとしたはずなのに、結果として彼らを危険に晒してしまったのだ。
泥だらけになって村人を助けていたミリア。
不敵に笑って盾となったガルド。
静かに死者を弔ったノア。
真剣に全体を指揮したセレス。
野生のままに駆け回ったリュカ。
そして、自分に『自分で選べ』と教えてくれた不器用な元勇者。
あの温かい給食を囲んでいた彼らが、王国の軍勢に蹂躙される。
自分が、彼らの日常を壊してしまったのだ。
「……させない」
ユリウスの口から、低く震える声が漏れた。
彼は腰の聖剣をゆっくりと抜き放った。
その瞬間、彼を囲んでいた騎士たちが一斉に殺気立ち、武器を突き出してくる。
「抵抗する気か、ユリウス!お前は自分が何をしているのか分かっているのか!王国に刃を向ければ、お前は英雄ではなく、ただの反逆者として歴史に名を残すことになるのだぞ!」
局長が怒号を上げる。
だがユリウスの瞳には、かつての空虚なガラス玉のような色はもうなかった。
そこにあったのは、一人の人間としての確かな怒りと、絶対的な決意の光だった。
「ええ。僕は、もう王国の勇者ではありません」
ユリウスは聖剣を構え、真っ直ぐに局長を睨み据えた。
「作られた称号も、偽物の英雄の座も、もういりません。僕は……僕自身が守りたいと思う人たちのために、この剣を振るう!」
ユリウスの全身から、膨大な光の魔力が立ち上った。
だがそれは前日のように周囲を無差別に吹き飛ばす、破壊のための魔法ではなかった。
一点に集束し、自分の道を切り開くためだけに研ぎ澄まされた、鋭く澄んだ光の刃だった。
「捕らえろ!足を切り落としてでも逃がすな!」
騎士たちが一斉に斬りかかってくる。
ユリウスは床を蹴り、光の軌跡を残して騎士たちの包囲網を突破した。
彼は誰も殺さない。
刃ではなく剣の腹と光の衝撃波だけを使い、襲いかかってくる騎士たちを次々と無力化していく。
彼はただ一直線に、窓へ向かって突き進んだ。
ガシャァァァンッ!!
巨大なガラス窓を突き破り、ユリウスは王都の夜空へと身を躍らせた。
背後から怒号と魔法の光が飛んでくるが、彼の圧倒的な魔力と身体能力には届かない。
彼は王都の屋根を蹴り、夜の闇に紛れて一直線に王都の城門を目指した。
(急がなければ。討伐部隊が辺境に届く前に、彼らに知らせなければ!)
自分はもう、帰る場所を失った。
反逆者として追われる身となり、王国中から命を狙われるだろう。
それでも彼の心には、不思議と後悔はなかった。
『お前が何のために剣を振るい、どんな勇者になるのかは、これからお前自身が決めればいいんだよ』
レオンの言葉が、夜風の中で胸を温かくする。
僕は、僕の意志で、彼らを守る。
その確かな思いだけが、傷だらけになりながら王都を脱出するユリウスの足を前へと進めていた。
数日後。
王都の討伐部隊が大規模編成のために足を止めている隙を縫い、ほとんど休まず馬を乗り継いだユリウスは、冬の冷たい風が吹き抜ける辺境学院の旧校舎へと辿り着いていた。
特別隔離教室には、いつものように穏やかな時間が流れていた。
昼休みの鐘が鳴り、エリスが給食のワゴンを運び込んでくる。
今日のメニューは、ゴロゴロと野菜の入った温かいクリームシチューと、焼きたての白パンだ。
「よし、飯にするぞ。お前ら、早く席につけ」
教卓からレオンが気だるげに声をかけると、ガルドが「おう!」と真っ先にパンを手に取った。
ミリアが手際よくシチューをよそい、リュカが「肉の匂いはしないけど、いい匂いがする」と鼻を小さく動かしている。
ノアは静かに本を閉じ、セレスは「もう少しお上品に配膳できませんの」と優雅に微笑んでいた。
誰もが温かい食事を前にして、日常の平穏を噛み締めている。
だがその時だった。
ドンッ!
教室の扉が乱暴に開き、何かが倒れ込んでくるような重い音が響いた。
全員の視線が一斉に扉へ向かう。
そこに立っていたのは、息も絶え絶えに肩で息をする一人の若者だった。
「……はぁっ……はぁっ……」
純白と黄金だったはずの鎧はひどく汚れ、所々に亀裂が入り血の跡が滲んでいる。
金色の髪は泥と汗にまみれ、顔には無数の擦り傷が刻まれていた。
かつての完璧な美しさを誇った新勇者、ユリウス・クラウン。
その惨めな姿に、教室の空気が一瞬で凍りついた。
「おい……お前、なんでここに……」
ガルドが信じられないというように目を見開く。
ミリアが息を呑み、セレスは扇子を落としそうになった。
レオンは日誌を置き、ゆっくりと教卓から歩み出た。
ユリウスは教室にいる彼らの顔を順番に見つめた。
自分を冷たく突き放してもおかしくない相手だ。
自分は王国の命令に従い、知らぬ間に彼らを陥れる計画へ加担していたのだから。
だがユリウスは、もう迷わなかった。
彼は泥だらけの膝を、冷たい教室の床に力強く突いた。
ガチャン、と鎧が重い音を立てる。
そして彼は、かつて自分が見下していた辺境の隔離クラスの生徒たちと、気だるげな元勇者に向けて、深く、深く頭を下げたのだ。
「……申し訳ありませんでした」
血を吐くような、痛切な声だった。
「僕が王都で告発したことで……王国は計画を早め、あなたたちを正式な災厄討伐対象に指定しました。結果として、大規模な討伐部隊をこちらへ向かわせてしまった……。僕は、あなたたちをさらに大きな危険へ追い込んでしまいました……!」
ユリウスは床に額を擦りつけるようにして、懺悔の言葉を紡いだ。
「僕は、勇者ではありませんでした。誰を守るかも知らず、ただ命令で剣を振るうだけの空っぽな人形でした。……王国の正義は、間違っていた。民を犠牲にし、あなたたちを迫害する世界を、僕はもう許せない」
教室は静まり返っていた。
誰も言葉を発せず、ただ地に這いつくばるかつての英雄を見つめている。
「僕は、あなたたちを守りたい。この温かい場所を、王都の悪意から守り抜きたい」
ユリウスはゆっくりと顔を上げた。
泥だらけの顔。だがその瞳は、もうガラス玉ではない。
熱を持った、一人の人間としての切実な涙が浮かんでいた。
「でも、僕は……まだ、誰かを守るということが、何なのかよく分からないんです。剣を振るう以外に、何ができるのかも」
ユリウスは、震える両手を強く握りしめた。
そして、かつての災厄候補たちに向かって、魂の底からの願いを口にした。
「どうか……僕に、守り方を教えてください」
それは、すべてを失った若者が、初めて自分の意志で乞うた教えだった。
プライドも、称号も、すべてを捨てて、ただ大切なものを守るためだけに。
ガルドは目を丸くし、やがて気まずそうに頭を掻きながらフッと笑った。
ミリアは優しく微笑み、ノアは静かに頷き、セレスは扇子を拾い上げて優雅に口元を隠した。
リュカはパタパタと尻尾を振って、ユリウスの泥だらけの匂いを嗅いでいる。
レオンは気だるげに首の後ろを掻きながら、ユリウスの前に立った。
終末視は、相変わらずユリウスの頭上に何の赤い称号も映し出していない。
だが今のレオンには、その沈黙が以前とは違って感じられた。
少なくとも自分の意志で誰かを守ろうとしている今のユリウスからは、破滅へ向かう未来の兆しは見えなかった。
「……頭を上げろ、ユリウス」
レオンは大きな手を差し出し、ユリウスの肩を力強く掴んで立たせた。
「お前はもう、作られた人形じゃない。自分の足でここまで来て、自分の頭で誰を守るか決めたんだろうが」
レオンはユリウスの泥だらけの顔を見て、満足そうに笑った。
「守り方なら、こいつらがいくらでも教えてくれる。だがその前に、まずは飯だ」
「え……?」
「腹が減ってちゃ、誰も守れねえからな。エリス先生、こいつにもシチューをよそってやってくれ」
エリスが涙ぐみながら「はい!」と力強く頷く。
ミリアが器にたっぷりとシチューをよそい、ユリウスの手にそっと持たせた。
「さあ、冷めないうちにどうぞ、ユリウスさん」
ユリウスは、その温かい器を両手で受け取った。
自分のせいで討伐部隊が迫っているというのに、誰も自分を責めない。
ただ当たり前のように、温かい食事を分けてくれる。
その優しさに、ユリウスの瞳から堪えきれない涙が溢れ出した。
「……ありがとうございます。本当に、ありがとうございます……」
ユリウスは泣きながら、シチューを一口飲んだ。
王都のどんな豪華な食事よりも、それは熱く、胸の奥底まで染み渡る味がした。
称号を捨てた新勇者は、ついに本物の心を手に入れた。
王都の討伐部隊が迫る中、辺境学院の教室は、かつてないほど強固な絆で結ばれようとしていた。
第7章「新勇者編」はここで一区切りです。
勇者とは称号なのか、それとも何を守るかで決まるのか。
ユリウスもまた、自分の未来を選び始めました。
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次章、王国上層部編に入ります。




