第68話「新勇者の反逆」
ルミナス村を襲った禍々しい魔力の暴走は、新勇者ユリウス・クラウンの放った一筋の光の刃によって完全に断ち切られた。
王都の特務役人が仕掛けた模造魔導具は完全に破壊され、魔力の嵐が収まると、村の広場には嘘のように澄み切った青空が広がっていた。
先ほどまで絶望と悲鳴に包まれていた村には今、信じられないほど穏やかな空気が戻り始めていた。
「本当に、ありがとうございます!」
「勇者様!辺境の生徒さんたちも!あなたたちのおかげで、村は助かりました!」
村人たちは涙を浮かべながら、ユリウスと隔離クラスの生徒たちに何度も頭を下げていた。
ガルド・バルガは照れ隠しに鼻を鳴らし、ミリア・フロストレインは怪我人の手当てを手伝い、セレス・ヴァーミリオンは村長と復旧の段取りを確認している。
ノア・レイスとリュカ・ウォルフもまた、それぞれのやり方で村人たちを支えていた。
ユリウスはその光景の中心で、自分の両手を見つめていた。
(これが……自分の意志で誰かを守るということ)
彼が今まで王都で受けてきた大歓声は、すべて作られた演出の上に成り立つ虚像だった。
だが今、目の前にいる村人たちの涙と笑顔は、紛れもない本物だ。
ユリウスの口元には作られた完璧な笑顔ではなく、自然とこぼれ落ちる静かな安堵の笑みが浮かんでいた。
だがその温かい時間は、王国教育局の特務役人の怒号によって無惨に引き裂かれた。
「ユリウス様!こちらへ来なさい!」
役人は顔を真っ赤にしてユリウスの腕を乱暴に掴み、村人たちから見えない豪華な馬車の裏手へと強引に連れ込んだ。
村人たちの目が届かないことを確認すると、役人は声を押し殺しながらも激しい怒りを爆発させた。
「あなたという人は、なんてことをしてくれたのですか!なぜあのまま村ごと吹き飛ばさなかったのですか!」
「……なぜ、ですか?」
ユリウスは静かに問い返した。
その声には、以前のような盲目的な服従の色はなかった。
「私は王国の勇者として、民の命を守るために剣を振るいました。魔力の暴走を止め、犠牲者を最小限に抑えた。それがなぜ責められなければならないのですか」
「愚かな!民の命などどうでもよかったのです!」
役人は苛立たしげに地団駄を踏み、憎々しげに吐き捨てた。
「あれは王都が周到に用意した完璧な筋書きだったのですよ!あのまま暴走が拡大し村が消滅すれば、あの忌まわしい災厄候補どもの仕業として処理できた!数人の薄汚い村人など、王国の輝かしい未来と正義のための安い犠牲だったというのに!」
その言葉に、ユリウスは息を呑んだ。
王国の正義。
彼が幼い頃から、白く無機質な部屋で教え込まれてきた絶対的な真理。
『あなたは王国の勇者です。王国の平和を乱す悪を討ち果たすこと。それがあなたの唯一の存在意義です』
だがその「平和」とは、民を守ることではなく、一部の上層部が権力を盤石にするためのただの都合のいい建前に過ぎなかったのだ。
「……犠牲、ですか」
ユリウスの声が低く震えた。
彼の手は、腰の聖剣の柄を強く握りしめていた。
「民を守ることが、王国の正義ではなかったのですか。彼らには帰る家があり、愛する家族がいる。それを意図的に奪うことが、王国の意志だとでも言うのですか」
「そうです!王国の繁栄こそが絶対の正義!そのための犠牲を厭うなど、人形の分際で生意気な!」
役人はユリウスを冷酷な目で見下した。
「あなたはただ、我々の命令通りに剣を振るっていればいいのです!自らの意志など不要!……王都に戻り次第、あなたには改めて勇者としての教育を受け直していただきます。少し辺境の毒気に当てられすぎたようですね」
役人はそう吐き捨てると、出発の準備を急がせるために馬車の方へと去っていった。
ユリウスは一人、冷たい風の吹く馬車の裏手で立ち尽くしていた。
(私は……ずっと、こんな歪んだ正義のために剣を振るってきたのか)
これまでは何も疑問を持たなかった。
王国の命令に従うことだけが自分の存在価値だと信じていたからだ。
だが辺境に来て、隔離クラスの生徒たちに出会い、レオンの言葉を聞き、そして自分の意志で剣を振るったことで、彼の中の何かが完全に変わってしまった。
泥だらけになって笑い合う村人たちと生徒たちの姿が、脳裏に焼き付いている。
あれを「安い犠牲」と切り捨てる王国を、彼はどうしても許すことができなかった。
完璧だったはずの勇者の理屈が音を立てて崩れ落ち、彼の足元には深い虚無と暗闇が広がっていた。
「こっぴどく絞られていたな」
不意に気だるげな声がして、ユリウスがハッとして振り返ると、黒いコートを着たレオン・グランヴァルトが壁に寄りかかっていた。
「……レオン殿」
ユリウスの表情には、もう完璧な作り物の笑顔はなかった。
そこにあったのは、苦悩に満ちた等身大の若者の顔だった。
レオンはいつもの眠そうな目でユリウスを見据える。
「お前が命令に背いたせいで、王都の上の連中の筋書きは台無しになったらしいな。大丈夫か、作られた英雄」
ユリウスはゆっくりと首を横に振った。
「私は……幼い頃から、勇者になるためだけに育てられました。王国の命令が絶対であり、それが民を救う唯一の道だと教え込まれてきました。ですが……」
ユリウスは震える声で言葉を紡ぐ。
「彼らは、民の命をただの駒としか見ていなかった。王国の正義とは、彼ら自身の権力を守るためのまやかしだった。私は、そんな彼らの都合のいい操り人形に過ぎなかった」
自分が信じてきた世界のすべてが崩れ去る絶望感。
だが不思議と、ユリウスの胸の奥にあった空虚な穴は、かつてないほどの熱で満たされていた。
彼はもう、ただ与えられた命令をこなすだけの器ではない。
ユリウスはレオンを真っ直ぐに見つめた。
王都の規律で叩き込まれた直立不動の姿勢を崩し、ただの一人の若者として、泥臭く、必死な眼差しで。
「元勇者殿……僕は、勇者なのでしょうか」
切実な問いだった。
「王国の命令に背き、彼らの描いた正義を否定してしまった。自分の意志で剣を振るったけれど、これからどうすればいいのか分からない。こんな僕は、勇者と名乗っていいのでしょうか」
レオンはユリウスの問いを静かに聞き届け、それから気だるげに首の後ろを掻いた。
「これから決めればいい」
「……これから?」
ユリウスが目を丸くする。
「ああ」
レオンは一歩前に歩み寄り、ユリウスのガラス玉のようだった瞳を見据えた。
「王都の連中が勝手に用意した『勇者』という台本は、お前自身がさっき破り捨てたんだろうが。誰かに与えられた称号なんてものは、ただの飾りだ」
レオンの言葉は、冬の冷たい風に混じってユリウスの心に深く響いた。
その言葉が、ユリウスの心を縛り付けていた見えない鎖に、初めて確かな亀裂を入れた。
「お前がさっき、自分の意志で誰かを守った。その事実だけがあればいい。お前が何のために剣を振るい、どんな勇者になるのかは、これからお前自身が決めればいいんだよ」
これから決めればいい。
勇者とは命令でなるものではない。
自分の意志で選び取るものなのだ。
誰に教えられるでもない、自分が本当に守りたいものを守るための力。
「……はい」
ユリウスは顔を上げた。
彼の瞳には、かつてないほどの強い光が宿っていた。
もう誰の操り人形でもない。
一人の人間としての、確かな意志の光だ。
「僕は……王都に戻ります」
ユリウスの言葉に、レオンは静かに耳を傾ける。
「彼らが本当に何を企んでいるのか、内側からこの目で見届けます。そして、もし民を駒として扱う正義しかないのなら、僕はそれに従うつもりはありません」
「それが、お前の選んだ道か」
「はい。誰かに命じられたからではありません。僕自身が、そうしたいと願ったからです」
レオンは満足そうに口元を緩めた。
「いばらの道だぞ。王都の連中が、自分たちの偶像が疑いを抱いたと知れば、お前をただで済ませるはずがない。最悪の場合、お前自身が反逆者として扱われることになる」
「覚悟の上です」
ユリウスは聖剣の柄を力強く握りしめた。
「僕はもう、命令に盲従するだけの人形には戻りませんから」
ユリウスの静かで絶対的な宣言だった。
レオンは「そうか」とだけ言い、それ以上は引き止めなかった。
「なら、行ってこい。お前の戦いは、これからだ」
やがて、王都へ向かう馬車の出発の準備が整った。
特務役人が急かすようにユリウスを呼ぶ。
ユリウスは馬車に乗り込む前、少し離れた場所からこちらを見送っている隔離クラスの生徒たちに向かって、静かに頭を下げた。
それは王国の勇者としての礼ではない。
彼に大切なことを教えてくれた、年下の少年少女たちに対する、心からの敬意だった。
ガルドが鼻で笑って右手を上げ、ミリアが小さく手を振り返す。
セレスが優雅に扇子を傾け、ノアが静かに頷き、リュカが尻尾を揺らした。
彼らもまた、ユリウスがただの王都の人形ではなく、一人の人間として何かを決断したことを感じ取っていた。
馬車の重い扉が閉まり、王都の紋章を掲げた馬車が冬の荒野へと走り出していく。
ユリウスは揺れる車内で、一人静かに目を閉じた。
少なくとも、王都へ戻ることへの迷いはなかった。
自分が何のために剣を振るうのか。
誰を守るべきなのか。
その答えの輪郭を掴み始めた新勇者の奥底で、自分を造り上げた王国の正義に対する静かな反逆の意志が、今、確かに芽生え始めていた。




