第67話「本物は誰を守る」
ルミナス村の広場は、荒れ狂う魔力の嵐によって悲鳴と轟音に包まれていた。
王国教育局の特務役人が仕掛けた模造魔導具は完全に制御を失い、禍々しい漆黒の炎と白い吹雪となって村を呑み込もうとしている。
それを必死に食い止めているのは、辺境学院の隔離クラスの生徒たちだった。
ミリアが鏡面化した氷壁で黒炎の熱を前方へ返し、ガルドがその熱を押し込む。
だが制御を失った模造魔導具の出力は、それでもじりじりと二人の連携を押し返していた。
リュカとノア、セレスが逃げ遅れた村人たちを安全な場所へ避難させているが、暴走の規模はすでに彼らの限界に近づきつつあった。
その絶体絶命の状況の中で、新勇者ユリウス・クラウンは聖剣を握ったまま立ち尽くしていた。
彼の心は、今まで経験したことのない激しい葛藤に引き裂かれていた。
ユリウスが自分の意志で発した問いに、特務役人は顔を真っ赤にして激昂した。
「正義だと?王都が下した決定こそが絶対の正義です!あの化け物どもを生かしておけば、いずれ王国に牙を剥く!ここで村人ごと消し去ることこそが、真の平和に繋がるのです!」
役人の叫びに呼応するように、村外れに仕掛けられた模造魔導具が不気味に脈動した。
もはや誰の制御も受け付けない魔力の奔流が膨れ上がり、黒炎と吹雪の嵐が一気に勢いを増す。
ドゴォォォォンッ!!
「ぐあぁっ……!出力が上がりやがった!」
「ミリアさん、ガルド君、耐えてください!もう少しで村人の避難が終わりますわ!」
ガルドが歯を食いしばり、セレスが声を張り上げる。
彼らは自分の命を懸けて、無関係な村人たちを守ろうとしていた。
王国の陰謀で濡れ衣を着せられようとしているというのに、彼らの瞳には怯えも迷いもなかった。
ユリウスの手が震える。
命令に従えば、村人は死ぬ。
命令に背けば、自分は勇者ではなくなる。
幼い頃から、白く無機質な部屋で『王国の剣であれ』とだけ教え込まれてきた。
敵を倒すこと。
命令を完璧にこなすこと。
それが自分のすべてだった。
だが今、目の前で泥だらけになりながら命を守ろうとしている彼らを見殺しにして、何が王国の光だというのか。
(私は……どう動けばいい?命令がなければ、私は……)
完璧だったはずのユリウスの理屈が崩れ落ち、彼はただ迷いの中で凍りついていた。
その時、隣から静かで、しかし確かな重みを持った声が響いた。
「迷っている暇はないぞ、作られた英雄」
ユリウスがハッとして横を見ると、黒いコートのレオン・グランヴァルトが剣の柄に手をかけたまま彼を見据えていた。
「元勇者殿……私は、どうすればいいのですか。王国の正義が彼らを見捨てることだと言うのなら、私は何のためにこの剣を……」
「称号じゃない」
レオンの言葉が、ユリウスの心臓を鋭く貫いた。
「誰から与えられた称号か、誰からの命令か。そんなものはどうでもいい。お前が今、目の前の誰を守るかで決めろ」
目の前の、誰を守るか。
ユリウスは顔を上げた。
泣き叫ぶ村人の子供がいる。
必死に氷壁を支えるミリアがいる。
自分を犠牲にして盾となるガルドがいる。
彼らは自分たちを陥れた世界の中で、それでも誰かを守ることを選んでいる。
(私には、守りたい顔も帰りたい場所もなかった。だけど……)
胸の奥に空いていた巨大な穴に、熱を持った明確な意志が流れ込んでくる。
王国の命令でもなく、教え込まれた教義でもない。
ユリウス・クラウンという一人の人間としての、初めての感情だった。
ミシリ、と氷壁の奥で不吉な音が鳴った。
次の瞬間、
バキィィィンッ!!
模造魔導具の制御不能な出力はさらに上がり、ついにミリアの氷壁が限界を迎え、砕け散った。
漆黒の炎と白い吹雪が、無防備になった生徒たちと村人たちを呑み込もうと牙を剥く。
「しまっ……!」
ガルドが絶望の声を上げた、その瞬間だった。
純白と黄金の鎧が、猛烈な速度で彼らの前へと飛び出した。
「ユ、ユリウス様!?」
特務役人が驚愕の声を上げる。
ユリウスはガルドとミリアを背後に庇うように立ち塞がり、聖剣を天へと高く掲げた。
「退いてください!ここは私が!」
ユリウスの全身から、膨大な光の魔力が立ち上る。
だがそれは前日のように周囲を無差別に吹き飛ばす、破壊のための魔法ではなかった。
「私は……無抵抗な民を見捨てるために、この剣を振るうのではない!」
ユリウスが聖剣を真っ直ぐに振り下ろした。
昨日までの彼なら、力を全方位に解き放つことしか知らなかった。
だが今は違う。
守るべきものがあるなら、力の使い方も変わる。
ユリウスは初めて、聖剣の魔力を一点に絞り込んだ。
眩い光の刃は細く鋭い槍となり、暴走する魔力の嵐を切り裂いて、魔導具の核である魔石だけを撃ち抜いた。
キィンッ――パァァァンッ!!
甲高い破砕音とともに魔石が砕け、破壊の嵐が嘘のように静まり、温かい光の粒子となって村の広場に降り注いだ。
「……終わった」
ユリウスは荒い息を吐きながら、聖剣をゆっくりと下げた。
自分の意志で剣を振るった。
命令ではなく、誰かを守るために。
その確かな感触が、彼の手のひらに残っていた。
背後から、恐る恐る近づいてくる足音がした。
「あ、ありがとうございます……ユリウスさん」
ミリアがへたり込みながら、心からの感謝を込めて言った。
「へっ。お前、案外まともな顔で剣振れるんじゃねえか」
ガルドが額の汗を拭いながら、不敵に笑う。
そして、逃げ惑っていた村人たちが、静まった広場を見渡し、やがて歓声を上げた。
「勇者様!ありがとうございます!」
「辺境の生徒さんたちも、本当にありがとう!あなたたちのおかげで、子供が助かった!」
村人たちが口々に感謝の言葉を叫ぶ。
それは昨日、ただ魔獣を吹き飛ばした時に向けられた畏怖の視線ではない。
泥だらけになって自分たちを支えてくれた辺境の生徒たちと、今度こそ命を救ってくれたユリウスに対する、本物の温かい感謝だった。
ユリウスは信じられない思いで、自分の両手を見つめた。
(これが……守るということ……)
今まで浴びてきたどんな大歓声よりも、この小さな村の人々の声が彼の心を震わせていた。
だがその静かな感動を、特務役人の金切り声が引き裂いた。
「な、なんということを……!ユリウス様、あなたは自分が何をしたのか分かっているのですか!」
役人が顔を真っ赤にして、ずかずかと歩み寄ってくる。
「王都の決定を覆し、あの落ちこぼれ共を助けるなど!あなたは王国の勇者なのですよ!命令に背くことの意味が分かって……」
「ええ。私は王国の勇者です」
ユリウスはゆっくりと振り返り、役人を真っ直ぐに見据えた。
そのガラス玉のようだった瞳には、もう王都の命令に盲従する操り人形の虚無はない。
一人の人間としての、確かな怒りと意志が宿っていた。
「ですが、今この場で民を切り捨てる命令には……従えません」
静かで、しかし絶対的な重みを持った宣言だった。
「なっ……!き、貴様、正気か!」
役人が恐怖と混乱に顔を引きつらせ、後ずさる。
今までどんな理不尽な命令にも完璧に従ってきた人形が、初めて自分の意志でその場から動くことを拒絶したのだ。
理解が追いつくはずもなかった。
レオンは少し離れた場所で腰の剣から手を離し、満足そうに口角を上げた。
作られた偽物の英雄が、初めて自分の意志で『守るべきもの』を選び取った瞬間だった。
空っぽだった器の奥で、確かに一つの答えが灯り始めていた。




