第65話「勇者の空白」
ユリウス・クラウンの最も古い記憶は、白く無機質な部屋の断片から始まる。
母親の温もりも、父親の顔も知らない。
ただ、自分の名を呼ぶ声ではなく、『勇者』と呼ぶ声だけが、いつも耳に残っていた。
物心ついた頃から、彼は王都の教育局が用意した特殊な施設で、ただ一人の勇者となるためだけに育てられてきた。
剣術、魔術、戦術、礼儀作法、そして王国の歴史と教義。
それらを完璧に叩き込まれる日々。
周囲にいるのは、彼を冷徹に評価し、正しい勇者の形へ整えようとする魔術師や教育官たちだけだった。
彼らがユリウスに求めたのは、ただ一つ。
王国を象徴する絶対的な光であり、敵を討ち滅ぼす無敵の剣であること。
『あなたは王国の勇者です。王国の平和を乱す悪を討ち果たすこと。それがあなたの唯一の存在意義です』
その教えを、ユリウスは疑ったことがなかった。
そもそも疑うという感情自体が、彼の中では育まれていなかったのだ。
自分が何をしたいか。
自分が誰を守りたいか。
自分がどう生きたいか。
そんな個人的な感情や願いは勇者には不要なものだとされ、徹底的に排除されてきた。
彼はただ与えられた命令を完璧にこなし、民衆の前で作り物の笑顔を浮かべる美しい偶像としての役割だけを果たすように育てられてきた。
だがその完璧に作られたはずの彼の内側で、今まで存在しなかったざわめきが渦巻いていた。
魔獣ブラッドボアの群れによる襲撃から一夜明けた、ルミナス村の早朝。
村の広場では、魔獣によって破壊された家屋の瓦礫が片付けられ、生き残った村人たちのために温かい炊き出しが行われていた。
辺境学院の隔離クラスの生徒たちは、泥だらけの服のまま村人たちに混じって忙しく動き回っている。
ミリアが氷の魔法で冷やした水や保存食を運び、ガルドが黒炎で焚き火の火加減を的確に調整して巨大な鍋でスープを煮込んでいる。
ノアは怪我人の包帯を取り替え、リュカは村の子供たちと一緒にパンを運んでいた。
セレスもまた、貴族令嬢のドレスの裾が汚れるのも構わず、村長と共に物資の配分を的確に指揮している。
「本当に、ありがとうございます。あなたたちのおかげで、村は全滅せずに済みました」
「さあ、温かいスープですよ。こういう時こそ、しっかりと食べてくださいね」
村人たちが口々に隔離クラスの生徒たちに感謝の言葉をかけ、笑顔でスープの器を受け取っている。
辺境の荒くれ者、災厄候補と呼ばれた彼らが、今は村人たちから本物の英雄のように扱われていた。
彼らは村人たちと一緒に同じ鍋からよそわれたスープを飲み、一つの大きな食卓を囲んでいた。
ユリウスは広場の端から、その光景をただじっと見つめていた。
彼の純白と黄金の、いかにも特注と分かる鎧には汚れ一つついていない。
昨日彼は魔獣の群れを圧倒的な破壊力で一掃した。
王国の光としての役割を完璧に果たしたはずだ。
それなのに、村人たちは自分に感謝するどころか、遠巻きに畏怖と非難の目を向けるだけだ。
自分と彼らの間には、目に見えない絶対的な壁が存在していた。
「……理解できません」
ユリウスの口から、乾いた呟きが漏れた。
自分は敵を倒した。
彼らは敵を倒していない。ただ瓦礫をどかし、傷を塞いだだけだ。
それなのに、なぜ彼らがあんなにも感謝され、温かい輪の中にいるのか。
なぜ、自分はあの中に混ざることができないのか。
「お前が、そこにいる人間を見ていないからだ」
不意に隣から気だるげな声がした。
ユリウスがハッとして振り返ると、黒いコートを着たレオン・グランヴァルトが、マグカップに注がれたスープをすすりながら立っていた。
レオンはいつもの眠そうな目で、焚き火を囲む生徒たちを見つめている。
「元勇者殿……。彼らのやっていることは、勇者の役割ではありません。勇者は敵を討ち、王国の脅威を排除する存在です。事後処理など、我々の仕事ではないはずです」
ユリウスは自分に刻み込まれた教義を、必死に確認するように口にした。
だがレオンはスープを飲み込むと、呆れたように小さく息を吐いた。
「お前は敵を斬る方法しか教えられていない。だから魔獣という『敵』しか見えていないんだ。敵を倒せばそれで任務完了だと思っている」
レオンはユリウスの方へ向き直り、真っ直ぐに彼のガラス玉のような瞳を見据えた。
「昨日、お前の足元で泣いていた村人の顔を、お前は覚えているか?」
「……それは……」
ユリウスは言葉に詰まった。
昨日の光景が、まざまざと脳裏に蘇った。
光の波で魔獣の群れを叩き伏せた後、村人が自分の馬の前にすがりついて泣き叫んでいた。
家が壊された、どうやって生きていけばいいのかと。
だがユリウスは、それに何も感じなかった。
特務役人が冷酷に蹴り飛ばしたのを見ても、何も思わなかった。
彼にとって、彼らはただの『守るべき王国の民』という抽象的な概念でしかなく、一人一人の痛みや悲しみを持つ血の通った人間として認識していなかったのだ。
「お前は『敵を斬る』ことしか教えられてこなかった。
だが教えられなかったからといって、目の前で泣いている人間が見えないままでいい理由にはならない」
レオンの言葉が、再びユリウスの胸の奥底を鋭く抉った。
教えられなかった。
だが自分自身はどうするのか。
ユリウスは自分の意志で何かを選んだことなど一度もない。
「お前自身は、どうしたいんだ?」
レオンの低い声が冬の冷たい風に混じって響いた。
ユリウスはハッとしてレオンを見た。
「お前は誰を守りたくて、何のためにその剣を振るう?」
その問いに、ユリウスの完璧に構築された思考が完全に停止した。
誰を守りたいか。
何のために戦うか。
そんなことは彼を造り上げた王国教育局の上層部からは一度も教えられていなかった。
彼はただ『勇者であれ』という役割だけを与えられた空っぽの器だった。
今までそのことに疑問を持ったことすら一度もなかったのだ。
「私は……王国の勇者です。王国の平和を……」
「そういう、王都の上の連中が書いた綺麗な台本を聞きたいんじゃない」
レオンは容赦なく、ユリウスの定型文を切り捨てた。
「お前の中には自分の意志がない。誰かのために怒ることも、誰かのために泣くこともない。ただ命令で振るわれるだけの剣と何が違うんだ」
ただ命令で振るわれるだけの剣。
その言葉が、ユリウスの空虚な心に深く冷たく突き刺さった。
王都でどんなに厳しい訓練を受けても、どれほど強大な魔獣と戦っても、ここまでの痛みを感じたことはなかった。
レオンは空になったマグカップを軽く振り、再び焚き火の方へと歩き出した。
その途中でまだ手をつけていないスープの入った木椀を一つ、ユリウスの近くの切り株に置く。
「お前が本当に王国の光になりたいなら、まず自分が誰を守りたいのか、自分の頭で考えろ。それができない限り、お前は一生、ただの作られた偶像だ」
レオンは振り返ることなく、生徒たちの輪の中へと戻っていった。
「先生、おかわりありますよ!」とミリアが笑顔で駆け寄り、ガルドが「俺が火加減を調整したスープだ、残すんじゃねえぞ!」と笑う。
レオンは気だるげに笑いながら、その温かい輪の中に自然と溶け込んでいった。
ユリウスは一人、冷たい風の吹く広場の端に立ち尽くしていた。
切り株に置かれた木椀からは、白い湯気がほのかに立ち上っている。
胸の奥にぽっかりと巨大な穴が空いていることに、彼は生まれて初めて気がついた。
勇者の空白。
自分には、何もない。
守りたい顔も、帰りたい場所も、共に食卓を囲む仲間も。
ただ与えられた剣と、作り物の笑顔があるだけ。
辺境の隔離教室で食べた素朴で温かい給食の記憶が不意に蘇る。
彼らはあんなにも温かいものを持っているのに、自分はひどく冷たくて空虚だった。
「私は……誰を、守りたいんだ」
ユリウスが震える声で呟いたその時だった。
背後から足音が近づいてきた。
昨日、王都教育局の使い魔から新たな指示を受け取った特務役人だ。
彼の顔には底意地の悪い笑みが張り付いていた。
「ユリウス様。こんなところにいらしたのですね。王都の民があなたの帰還を待ちわびております。さあ、野蛮人どもの相手は終わりにして、王都へ戻りましょう」
「……王都へ」
「ええ。あなたには次なる任務が用意されております。王国の光たるあなたにふさわしい、大切なお役目です」
特務役人は、レオンたちの方を一瞥し、冷酷に目を細めた。
「あのような危険な災厄候補どもには、王都の正義を知らしめる必要がありますからね」
その言葉の裏に隠されたどす黒い悪意に、ユリウスは気づいていた。
昨日までの彼なら、何も疑問を持たずに頷き馬車に乗り込んでいただろう。
王国の命令は絶対であり、それに従うことこそが自分の存在意義だったからだ。
だが今のユリウスの足は鉛のように重かった。
彼の目は、切り株の上のスープと泥だらけになりながら村人たちと笑い合う隔離クラスの生徒たちから、どうしても離すことができなかった。
「……分かりました。出発の準備をします」
ユリウスは感情を押し殺し、いつも通りの完璧な笑顔を作って役人に答えた。
だが彼の中で今まで絶対だったはずの何かが、確実に音を立てて崩れ始めていた。
彼の手は、腰の聖剣の柄を痛いほど強く握りしめていた。
自分が何のためにこの剣を振るうのか。
誰を守るべきなのか。
その答えを見つけるための苦悩が、作られた英雄の心に初めて宿った瞬間だった。
王都が用意した新たな悪意の舞台が、すぐそこまで迫っていた。




