第62話「勇者とは何か」
辺境学院の旧校舎、特別隔離教室。
普段は五人の問題児たちと一人の気だるげな教師だけが占有しているその空間に、今日はひどく場違いで異質な空気が流れ込んでいた。
教室の後方に急遽用意された来賓用の席。
そこに座っているのは、純白と黄金のいかにも特注と分かる煌びやかな鎧に身を包んだ王国の新たなる光、新勇者ユリウス・クラウンだった。
彼の隣には王国教育局の特務役人がふんぞり返るようにして座り、辺境の生徒たちを値踏みするような嫌悪の目を向けている。
昨日のグラウンドでの視察宣言を受け、王都の視察団は本日から正式に隔離クラスの授業を見学することになったのだ。
だが迎え入れる側の生徒たちに、歓迎の意図など微塵もなかった。
「なんだあの無駄にピカピカした鎧。教室の中でまで着込んでるなんて、頭が湧いてんじゃねえのか」
ガルド・バルガが机に足を乗せたまま、忌々しげに舌打ちをする。
「……息が詰まりますわ。笑顔も姿勢も完璧すぎて、かえって作り物めいて見えますもの」
セレス・ヴァーミリオンが扇子で口元を覆い、露骨に顔をしかめる。
「ん。やっぱり臭い。生きてる匂いがしない」
リュカ・ウォルフが鼻を小さく鳴らし、警戒するように耳を伏せた。
ミリア・フロストレインは不安げに黒い手袋を握りしめ、ノア・レイスは無表情のまま足元の骨の鳥をそっと撫でている。
教室の隅では、学院長代理のエリス・アークライトが胃を痛めそうな顔で視察団の様子を窺っていた。
「よし、全員席につけ。朝のホームルームを終わらせて、一時間目の授業を始めるぞ」
ガラガラッと扉が開き、レオン・グランヴァルトがいつも通り気だるげな足取りで教卓へと向かった。
彼は最後方に座るユリウスを一瞥したが、特に態度を変えることもなく日誌を開いた。
「今日は後ろに王都から立派なお客さんが来ているが、気にするな。いつも通りの授業をする。今日のテーマは……これだ」
レオンはチョークを手に取り、黒板に大きく文字を書き殴った。
『勇者とは何か』
その文字を見て、生徒たちがそれぞれに怪訝な顔をする。
特務役人は鼻で笑い、勝ち誇ったように腕を組んだ。
「ほう。辺境の落ちこぼれどもに、我が王国の光である新勇者様の偉大さを教え込もうというわけですね。元勇者殿にしては、なかなか殊勝な心がけではないですか」
「勘違いするな。俺はただ、生徒たちに考えさせたいだけだ」
レオンは役人の言葉を冷たく切り捨て、チョークを置いた。
「さて、新勇者様。王都の教育局は、お前に『勇者』という存在をどう教え込んだ?模範解答を聞かせてくれ」
レオンの問いかけに、ユリウスは音もなく立ち上がった。
そして誰もが見惚れるような、作り物のように完璧な笑顔を浮かべて、澱みなく答えた。
「勇者とは、王国の光です。悪を討ち果たし、民を正しき道へ導き、絶対的な武力をもって国家の安寧を体現する剣と盾。それが、私の存在意義です」
一切の迷いがない、教科書通りの完璧な答えだった。
特務役人が「素晴らしい!」と拍手をする。
だがレオンは感心するでもなく、ただ眠そうな目でユリウスを見据えた。
「立派な答えだ。だが、それは『倒すべき敵』がいることが前提の言葉だな」
「……?どういう意味でしょうか」
ユリウスが完璧な笑顔のまま、微かに首を傾げる。
「魔王はもういない。巨大な敵がいなくなった平和な世界で、倒す相手がいなければ、お前は勇者ではないのか?敵を斬ることしか教えられていないなら、それは勇者なのか?ただ命令で振るわれるだけの剣と、何が違う?」
その言葉に、特務役人が「無礼な!」と怒鳴り声を上げた。
だがユリウスは反論しなかった。いや、反論できなかったのだ。
彼の瞳の奥で、再び微かな焦点のブレが生じる。
敵がいない世界での勇者の在り方。
そんなものは、彼を造り上げた王都の上層部からは一度も教え込まれていなかった。
彼は『悪を討つ存在』として育てられ、その役割だけを深く刻み込まれてきた存在だからだ。
「……悪が、いない世界。それは……王国の命令に従い、次なる脅威に備えることです」
少しの沈黙の後、ユリウスは絞り出すようにそう答えた。
命令がなければ動けない。敵がいなければ存在できない。
それが彼の限界だった。
「なるほどな。じゃあ、うちの生徒たちの答えも聞いてみるか」
レオンはユリウスから視線を外し、教室の五人を見渡した。
「お前たちはどう思う。敵を倒すだけが、強さの証明か?」
最初に口を開いたのは、窓際に座る白銀の髪の少女だった。
「私は……誰かを、守ることだと思います」
ミリアがおずおずと、けれどはっきりとした声で答えた。
「怖いものを遠ざけるために力を使うんじゃなくて、背中にいる人を安全にするための、透明な盾になること。……誰かを守れた時、初めて自分の力を好きになれたから」
ミリアの言葉に、ガルドがニヤリと笑って机から足を下ろした。
「倒す相手がいねえなら、自分が一番前に立って燃えればいいだけだろ。後ろの奴らが進めるようにな。力を見せつけるんじゃねえ。仲間の前で燃えるんだよ」
「……倒して終わりじゃない。残された人や、死んでしまった魂の声を忘れないこと。痛みを理解して、ちゃんと送ってあげること。それが、本当の強さだと思うよ」
ノアが魔導書をそっと撫でながら、静かに紡ぐ。
「孤高の力だけで世界は救えませんわ。皆の弱さを知り、それを補い合い、支え合うための盤面を作ること。誰一人として孤独にさせない仕組みを作ることこそ、上に立つ者の役割ですのよ」
セレスが扇子を広げ、気高く宣言する。
そしてリュカが、大きく欠伸をしてから尻尾を揺らした。
「あたしは、群れを守る。みんなでご飯を食べて、誰も置いていかない。難しいことは分からないけど、それだけは決めてる」
守ること。前に立つこと。送ること。支えること。群れを守ること。
彼らの言葉はどれも、王都が用意した立派な台本には書かれていない、不格好で泥臭い答えだった。
だがそれは、かつて世界を滅ぼす災厄候補と呼ばれた彼らが、自分の弱さと向き合い、傷つきながらも仲間との絆を通して手に入れた『本物の強さ』の証明だった。
ユリウスは彼らの答えを聞いて、理解できないというように静かに目を伏せた。
弱さを補う?
群れを守る?
彼の完璧な思考回路の中に、そのような概念は存在しない。
彼は最初から完璧な存在として造り上げられ、誰かに背中を預けたことなど一度もなかったからだ。
「……非合理的です。個人の圧倒的な力がなければ、民を導くことなどできないはずです」
ユリウスの呟きは、彼自身の確信というよりも、自分に刻み込まれた教義を必死に確認するような、虚しい響きを持っていた。
レオンは黒板の文字を消しながら、気だるげに言った。
「そう思うなら、もう少しこの教室を見ていくんだな。正解は一つじゃない」
やがて昼休みの鐘が鳴り響いた。
教室の扉が開き、エリスが給食のワゴンを押して入ってくる。
「皆さん、お待ちかねの給食ですよ。今日は根菜と豚肉のスープ煮と、焼き立ての黒パンです」
エリスの声に、リュカが「肉!」と歓声を上げて立ち上がる。
ガルドも「小難しい話より、やっぱり飯だよな」と笑い、ミリアが手際よく器にスープをよそい始めた。
特務役人はその素朴すぎる辺境の給食を見て、顔を真っ赤にして怒り出した。
「な、なんだこの粗末な食事は!王国の光である新勇者様に対し、このような豚の餌のようなものを出すつもりか!今すぐ王都から最高級の料理を取り寄せ……!」
「おやめなさい」
ユリウスが静かに手で制した。
「これも視察の一環です。彼らが普段どのように過ごしているのかを知る必要がありますから、私も同じものをいただきます」
ユリウスはそう言うと、案内された机に座り、ミリアからよそわれたスープの器を受け取った。
彼が王都で与えられていた食事は、魔力向上と肉体維持のために完璧に栄養計算され、毒見が済んだ冷え切った料理だけだった。
誰かと一つのテーブルを囲み、同じ鍋からよそわれた温かいものを、笑い合いながら食べる経験など、彼には一度もなかった。
「いただきます!」
隔離クラスの生徒たちが声を揃え、一斉に食事を始める。
ガルドが黒パンをスープに浸して豪快に齧り、リュカが肉を口いっぱいに頬張る。
ノアは骨の鳥にパン屑を与え、セレスは「もう少しお上品に食べられませんの」と小言を言いながらも楽しそうだ。
ユリウスはその騒がしい光景を見つめながら、木製のスプーンでスープをすくい、ゆっくりと口に運んだ。
根菜の優しい甘みと、豚肉から染み出した脂の旨味が、口の中に広がる。
高級な香辛料も使われていない、どこにでもある庶民の味だ。
だがその温かさが、彼の冷え切った内臓から体全体へと、じんわりと染み渡っていくのを感じた。
「……これは」
ユリウスの感情のないガラス玉のような瞳が、微かに見開かれた。
彼の手がピタリと止まる。
「どうなされました、ユリウス様!何か粗悪なものでも口にされましたか!?」
役人が慌てて駆け寄るが、ユリウスはゆっくりと首を横に振った。
「いいえ……。これは……素朴で、温かいですね」
その呟きは、彼を造り上げた人間たちが用意した台本にはない言葉だった。
王都の命令でもなく、勇者としての建前でもない。
ユリウス・クラウンという一人の人間が、生まれて初めて自分の意思で感じ取り、外の世界へ向けてこぼれ落とした『本当の感想』だった。
レオンは自分の分の黒パンをかじりながら、そのユリウスの微かな変化を絶対に見逃さなかった。
作り物めいた完璧さの奥に、まだ微かな反応が残っている。
温かい飯を食って、温かいと感じるのなら、そこにはまだ人間らしい何かが残っているのだ。
「飯が温かくて美味いと感じるなら、お前はまだ、ただの空っぽの人形じゃない」
レオンが気だるげに言い放つと、ユリウスはハッとしてレオンを見つめた。
彼の中で絶対だと教え込まれてきた『勇者』という定義に、ほんの小さな違和感が生まれた。
倒す相手がいなくても、誰かと温かい食事を囲むだけで満たされる感情がある。
それは彼にとって、あまりにも未知で、恐ろしく、そして甘美な感覚だった。
「……新勇者様!これ以上の視察は無用です!あのような野蛮人どもの毒気に当てられる前に、本日は引き上げましょう!」
ユリウスの微かな異変を危険と察知した特務役人が、慌てて彼を促す。
ユリウスは無言のまま立ち上がり、スプーンを置いた。
彼は教室を出る直前、もう一度だけ、賑やかに笑い合う隔離クラスの生徒たちを振り返った。
その瞳の奥には、彼自身も気づいていない『羨望』という名の小さな種が落ちていた。
本物の絆を手に入れた災厄候補たちと、心を持たない作られた新勇者。
彼らの奇妙な交流は、新勇者の空虚な心に決して消えることのない波紋を広げ始めていた。




