第56話「第五試合、銀狼の守護」
大闘技場は、異様なほどの熱狂と静寂が入り混じる奇妙な空気に包まれていた。
第一試合の防衛、第二試合の攻防、第三試合の探索、そして第四試合の集団戦。
王都の特権階級たちが『辺境の野蛮な落ちこぼれの公開処刑』になると信じて疑わなかったこの交流戦は、蓋を開けてみれば辺境学院の隔離クラスによる四戦全勝という、王都にとって信じがたい大屈辱の展開となっていたのだ。
観客席の貴族たちはプライドを粉々に砕かれ、沈黙するしかない者と、信じられない現実を受け入れられずに青ざめる者に分かれていた。
「つ、次はいよいよ最終第五試合!種目は『護衛競技』となります!」
実況の教師が、半ば自暴自棄になったような上擦った声で魔導拡声器に向かって叫んだ。
「この競技は、攻撃側と防衛側に分かれて行う一本勝負!防衛側は制限時間内に護衛対象を守り抜けば勝利、攻撃側は制限時間内に護衛対象に攻撃を当てるか、防衛側を完全に制圧すれば勝利となります!なお、護衛対象は競技運営側が用意する中立役として、本校初等部の生徒がボランティア参加しています!抽選の結果、攻撃側は王都学院代表、防衛側は辺境学院代表となりました!まずは王都学院代表、前へ!」
実況のコールと共に、王都側の陣営から重武装の魔術騎士の格好をした大柄な生徒が進み出た。
彼は王都でも有数の武門の出身であり、対人戦闘に特化したエリートだった。
アリーナの中央には模擬の市街地セットが組まれており、そこには競技運営側が用意した中立の護衛対象役として、王都学院初等部の制服の上から防護術式の施された簡易ベストを身につけた、まだ十歳にも満たない幼い少年が不安げに立っていた。
殺伐とした大闘技場の空気に当てられ、少年はすでに泣き出しそうな顔で肩を震わせている。
「後攻、辺境学院代表、リュカ・ウォルフ!前へ!」
その名前が呼ばれた瞬間、観客席の一部からあからさまな嫌悪と侮蔑のどよめきが起きた。
「次はあの獣人か……!」
「よりにもよって護衛競技に、あんな獣臭い化け物を出すのか!」
「どうせまともな理性などないだろう!護衛対象の子供に牙を剥くのではないか!?」
王都に深く根付く獣人への差別意識。
それは心ない野次となって、遠慮なくアリーナへと投げ下ろされた。
だが辺境学院の陣営から歩み出た銀髪の少女は、そんな人間の言葉など気にも留めない様子で、背筋を伸ばしたまま堂々とアリーナの中央へと進んでいった。
「リュカさん、頑張ってください!あの子を守ってあげてください!」
「てめえ、絶対に負けんじゃねえぞ!足元すくわれんなよ!」
「風の匂いに気をつけて。相手は重装備だ」
「野蛮な輩には、あなたのその圧倒的な速度を存分に見せつけてやりなさいな」
背後からミリア、ガルド、ノア、セレスの声援が飛ぶ。
リュカは振り返らずに、銀色の尻尾をパタパタと大きく揺らして応えた。
レオンは壁に寄りかかったまま、いつもの眠そうな目で彼女の背中を見守っている。
リュカが市街地セットの中央に到着すると、護衛対象の少年はリュカの獣の耳と鋭い爪を見て「ひっ」と短く悲鳴を上げ、さらに怯えて身を縮こまらせた。
王都の大人たちから「獣人は危険な化け物だ」と教え込まれて育ってきた彼にとって、リュカは守り手ではなく恐怖の対象でしかなかったのだ。
「おい、化け物」
対峙した王都学院代表の男が、剣を抜き放ちながら下劣な笑みを浮かべてリュカを挑発した。
「お前のような下等な獣に、王都の誇り高き人間の護衛が務まるのか?どうせ本能のままに暴れ回って、その子供ごと引き裂くのがオチだろう。さっさと尻尾を巻いて檻に帰るんだな」
リュカの喉の奥から、グルルル……と低い唸り声が漏れた。
瞳孔が縦に細く裂け、銀色の髪が僅かに逆立つ。
かつての彼女なら、この明確な侮蔑と敵意を向けられた瞬間に怒りで我を忘れて半獣化し、相手の喉笛に食らいついていただろう。
やられる前に殺す。それが迫害され続けた彼女の唯一の防衛本能だったからだ。
だが今のリュカは、すぐに飛び出そうとはしなかった。
彼女の鼻は、目の前の男から発せられる嫌な匂いを正確に嗅ぎ取っていた。
驕り、見下し、そして弱い者を痛めつけることを楽しむような、腐った嘘つきの匂い。
それと同時に背後から、微かに震える小さな匂いが届いていた。
護衛対象の少年だ。
彼は会場の殺気と、目の前で繰り広げられる暴力の気配に、ただ怯えきっている。
(この小さな人間……群れを奪われた時のリュカと、同じ匂い)
恐怖で震え、誰にも助けてもらえない絶望。
リュカはかつて自分を檻に入れた王都の大人たちを激しく憎んでいる。
だがこの背後にいる小さな子供は自分を迫害した大人たちとは違う。
ただの、守られるべき弱い存在だ。
『その怒りを、誰に向けるかは選べ』
あの夜、レオンが土の上に座り込んで自分に言ってくれた言葉がリュカの心に静かに響いた。
手当たり次第に牙を剥くのは化け物だ。
群れを守るために敵を追い払うのが、誇り高き銀狼だ。
「……リュカは、化け物じゃない」
リュカは鋭い牙を隠し、背後の少年をかばうように一歩前へ出た。
そして王都代表の男を真っ直ぐに見据え、言い放った。
「弱い者いじめする奴、大嫌い。お前、ここから先には一歩も通さない」
「ほざけ、獣風情が!騎士の真似事などできるものか!」
審判の開始の合図が鳴り響いた瞬間。
男はリュカを完全に無視し、彼女の背後にいる初等部の少年の足元を狙って、強力な風の刃の魔術を容赦なく放ったのだ。
護衛対象を直接狙うことでリュカの動揺を誘い、獣の本能を暴走させて失格に追い込もうという極めて卑劣な戦術だった。
「うわあああっ!」
風の刃が地面を抉りながら迫るのを見て、少年は両手で頭を抱えて悲鳴を上げた。
観客席からも「子供を狙うなんて!」と悲鳴が上がる。
だが風の刃が少年に届くよりも早く、銀色の残像が少年の目の前に立ち塞がった。
「リュカは……群れを守る!」
リュカは両腕に銀色の魔力を纏わせ、凄まじい風の刃をクロスした腕で正面から無造作に弾き飛ばした。
バギィッ!という硬質な音が響き、風の刃は空の彼方へ霧散する。
リュカの腕には傷一つついていない。
彼女は自分の身を守るためではなく、背後の少年を守るためだけに、その圧倒的な身体能力を完璧に制御してみせたのだ。
「なっ……!私の魔術を素手で弾いただと!?」
男が驚愕に目を見張った、その隙をリュカは絶対に見逃さなかった。
地面を蹴る音がしたかと思えば、リュカの姿はすでに男の視界から完全に消え去っていた。
「どこへ消えた!?」
男が慌てて周囲を見回した時には、リュカはすでに彼の死角である真後ろへ回り込み、低い姿勢のまま足元まで潜り込んでいた。
かつてのリュカなら、ここで鋭い爪を立てて相手を切り裂いていただろう。
だが今の彼女は爪を一切立てず、脚に銀色の魔力を集中させた。
「嘘つきの匂い、引っ込んでろ」
リュカが地面を蹴って身を低く沈めると、銀色の魔力を纏った脚で男の足元を正確に払った。重装備の体勢が一瞬で崩れ、男は背中から地面に叩きつけられる。
「がはっ……!」
鈍い衝撃音が会場に響く。
男はそれきり声を上げることもなく白目を剥き、重い鎧の音を鳴らしてその場に崩れ落ちた。
完全に動きを止める、一撃制圧の無力化。
殺すことなく、過剰な傷も負わせず、ただ敵としての無力化だけを果たす洗練された一撃だった。
開始からわずか数秒の出来事に、会場は水を打ったように静まり返った。
リュカは倒れた男を一瞥すると、すぐに踵を返して初等部の少年の元へと小走りで戻った。
少年はまだ頭を抱えて震えていたが、足音に気づいて恐る恐る顔を上げた。
「……終わった。もう、怖くない。大丈夫」
リュカがしゃがみ込み、不器用にそう声をかける。
少年は自分を守るために風の刃を弾き、一瞬で敵を倒してくれた銀髪の少女を見つめた。
そこにいたのは、大人たちが言っていたような恐ろしい化け物などではない。
自分を命懸けで守ってくれた、とても強くて優しいお姉ちゃんだった。
少年は目に大粒の涙を浮かべながら、リュカの制服の裾を小さな手でぎゅっと掴んだ。
「あ、ありがとう……お姉ちゃん。すっごく、すっごくかっこよかった……!」
その純粋な感謝の言葉に、リュカは目を丸くしてパチパチと瞬きをした。
人間はみんな嘘つきで、自分を迫害する生き物だと思っていた。
だがこの小さな子供の目には、自分を化け物として恐れる色は微塵もなかった。
あるのは純粋な憧れと、心からの感謝の匂いだけだった。
「……ん」
リュカは戸惑いながらも、どうしていいか分からず、ただ無意識のうちに背中の銀色の尻尾をパタパタと激しく揺らしていた。
それは彼女が、人間の中にも守るべき価値のある温かい存在がいると、本能で理解した瞬間だった。
「だ、第五試合!勝者、辺境学院代表、リュカ・ウォルフ!!」
審判の震えるコールが響き渡ると、遅れて会場全体から割れんばかりの大歓声と拍手が沸き起こった。
それは辺境の落ちこぼれに対する野次ではなく、見事な護衛と圧倒的な実力を見せたリュカへの純粋な賞賛の拍手だった。
これで辺境学院は全五試合を完全制覇。
王都学院の五戦全敗という、歴史的な大番狂わせが確定したのだ。
バルコニー席で、ロベルト・グライス査察官は完全に言葉を失っていた。
彼の手から、書きかけの報告書がはらりと床に滑り落ちる。
もはや言い訳も、虚偽の報告も不可能だった。
辺境の災厄候補と呼ばれた子供たちは、王都が誇るあらゆる分野のエリートを、完膚なきまでに圧倒してみせたのだ。
「よくやったぞ、リュカ。見事な守りだった」
辺境学院の陣営に戻ってきたリュカの頭を、レオンが大きな手でぽんぽんと撫でる。
「リュカ、速かった!人間、守った!夜、みんなでお肉食べる!」
リュカは誇らしげに胸を張り、レオンの手にすり寄るようにして笑った。
ガルドも「へっ、まあまあな動きだったぜ」と笑い、ミリアは「リュカさん、本当にかっこよかったです!」と手を取り合った。
彼らはもはや、王都の偏見など微塵も気にしていない、最強の仲間たちだった。
だがその歓喜の空気は、バルコニー席から響き渡った低く威圧的な声によって切り裂かれた。
「——待て。まだ交流戦は終わっていない」
歓声がピタリと止む。
立ち上がったのは、第一魔術学院の学院長であり、王国教育局の重鎮でもある白髪の老貴族だった。
彼は屈辱に顔を歪めながらも、手すりからアリーナを見下ろして宣言した。
「五試合の結果は確かに辺境学院の勝利だ。だが、これはあくまで予備戦に過ぎん。真の交流戦には、我が校が誇る『最高峰』との手合わせをもって締めくくらせてもらう。これより、我が校の『首席チーム』との特別試合を執り行う!」
その宣言に、観客席がどよめいた。
王都学院の首席チーム。
それは単なる優秀な生徒の集まりではない。
王国が総力を挙げて育成している『正統な勇者候補』と呼ばれる、別格の存在たちだ。
アリーナの反対側のゲートが重々しい音を立てて開き、純白と金色の装飾が施された特注の制服に身を包んだ五人の少年少女が静かに姿を現した。
彼らの纏う魔力は、これまでの王都の生徒たちとは次元が違った。
(勇者候補、か。俺の時代には、そんなものはなかった)
レオンはかつて、王都学院で磨き上げられた英雄ではない。
戦場を這いずり回り、仲間を失い、泥と血の中で剣を振るい続けた末に、勇者と呼ばれるようになっただけの男だ。
だからこそ分かる。
目の前の少年少女たちの魔力は、ただ鍛え上げられたものではない。
(……ただの生徒の魔力じゃない。誰かに作られた、人工的な気配が混じっているな)
レオンはいつもの眠そうな表情を消し去り、壁から背中を離して鋭く目を細めた。
王都学院が用意した真の切り札。
災厄候補と呼ばれた問題児たちと、王都に作られた英雄たちとの、本当の総力戦が幕を開けようとしていた。




