第52話「第一試合、氷壁対王都魔術」
王都の中心にそびえ立つ、巨大な円形の大闘技場。
本来であれば王都騎士団の演習や国家規模の武術大会に使用されるその壮麗な舞台が、今日はただ一つの目的のために貸し切られていた。
『王国立第一魔術学院・特別交流戦』。主催は、通称・王都学院と呼ばれる王国最高の教育機関だった。
観客席には豪奢なドレスや礼服に身を包んだ王都貴族たち、そして王国教育局の重鎮たちがズラリと並び、ワイングラスを傾けながら優雅に歓談している。
さらにその周囲には、王都学院の生徒や教師、招待された保護者、物珍しさに集まった王都の市民たちの姿もあった。
辺境から来た『災厄候補』がどれほど危険で、どれほどみじめに敗北するのか。
王都側はそれを、多くの目の前で見せつけるつもりなのだ。
その中には、先日辺境学院から逃げ帰ったロベルト・グライス査察官の姿もあった。
彼らの多くは、辺境の掃き溜めに集められた『災厄候補』と呼ばれる落ちこぼれたちが、王都の誇るエリート生徒たちに無惨に叩きのめされる姿を見るために集まっていた。
完全な見世物であり、公開処刑の場だった。
「……人が、いっぱいです」
闘技場の選手控室から続く薄暗い通路を歩きながら、ミリア・フロストレインは不安げに先生がくれた黒い手袋を両手でぎゅっと握りしめた。
観客席から響いてくるざわめきには、明確な悪意と見下すような嘲笑が混じっている。
ガルドが舌打ちをし、リュカが耳を伏せて不快そうに鼻を鳴らした。
ノアは無表情のまま歩を進め、セレスは扇子で口元を隠しつつも赤い瞳に鋭い光を宿している。
「気にするな、ミリア。周りで騒いでいる連中はただの石っころだと思え」
先頭を歩くレオン・グランヴァルトが、少し困ったような声で振り返った。
その大きく頼もしい背中を見ると、ミリアは少しだけ呼吸が楽になるのを感じた。
「皆様、胸を張ってください。彼らの悪意など、今のあなたたちには届きませんわ」
エリス・アークライトが学院長代理として、そして彼らを引率する教師として、凛とした声で励ます。
やがて彼らが闘技場のアリーナへと足を踏み入れた瞬間だった。
「見ろ、辺境の田舎者たちだ」
「あれが噂の災厄候補か。薄汚い服を着て、まるで浮浪者じゃないか」
「あんな野蛮な連中が、我が王都の誇るエリートに勝てるわけがないだろう」
観客席から一斉に下劣な野次と嘲笑の嵐が降り注いだ。
だがレオンは顔色一つ変えず、眠そうに首の後ろを掻きながら闘技場の中央へと進み出た。
五人の生徒たちもレオンに続き、堂々と顔を上げて歩く。
その姿には、王都の連中が期待していたような『怯え』や『卑屈さ』は微塵もなかった。
「静粛に!これより、王国立第一魔術学院、通称・王都学院と、辺境学院による特別交流戦、第一試合を開始する!」
闘技場に設置された魔導拡声器から、審判を務める王都の教師の声が響き渡った。
「第一試合の種目は『防御魔術競技』。審判団が放つ規定の攻撃魔法に対し、防壁の強度、魔力制御の精度、展開の安定性を総合して競うものとする!先攻、王都学院代表、アルベルト・フォン・シュタイン!」
観客席から割れんばかりの歓声と拍手が沸き起こった。
王都側の陣営から、純白の洗練された制服に身を包んだ金髪の少年が、優雅な足取りで進み出る。
彼は観客席に向かって大げさな一礼をして見せた。
「アルベルト選手、防壁展開用意!」
アルベルトが杖を構え、流麗な呪文を詠唱する。
彼の目の前に、黄金色に輝く幾何学模様の魔法陣が何重にも重なり合い、ステンドグラスのように美しい多重結界が展開された。
観客から「おおっ」と感嘆の溜息が漏れる。
「攻撃開始!」
審判団の一人が、杖から中級の炎魔法を放った。
燃え盛る火球がアルベルトの結界に直撃する。
パァンッ!と軽快な音が響き、炎は結界の表面で美しく散らされ、火の粉となって消滅した。
結界には微かなひびが入ったものの、アルベルトは涼しい顔で立っていた。
「見事だ!これぞ王都の洗練された防御魔術!」
「ただ防ぐだけではない、あの美しさこそが貴族の魔法よ!」
観客席から万雷の拍手が送られる。
アルベルトは誇らしげに胸を張り、辺境学院の陣営を見下ろすように冷笑を向けた。
「後攻、辺境学院代表、ミリア・フロストレイン!前へ!」
審判の声に、ミリアはビクッと肩を震わせた。
彼女が前へ歩み出ようとした瞬間、観客席から一際大きな野次が飛んだ。
「おい見ろ、あの白髪の小娘だぞ!」
「母親を凍傷にさせた氷の化け物じゃないか!」
「暴走して味方ごと凍らせるのがオチだ!引っ込め、災厄候補!」
過去の傷を容赦なく抉る残酷な言葉の数々。
ミリアの足がピタリと止まり、彼女の瞳が恐怖に大きく見開かれた。
『化け物』『近づくな』『お前がいなければ』。
幼い頃から浴びせられ続けた呪いの言葉が、耳の奥でガンガンと反響する。
足元から無意識のうちに白い霜が広がりかけ、ミリアは震える両手で胸元を強く握りしめた。
(怖い……。また、私が暴走したらどうしよう。もし、コントロールできずに観客席まで凍らせてしまったら……)
ミリアの呼吸が浅くなり、視界が白く霞んでいく。
王都の観客たちは、彼女が怯えて震える姿を見て、さらに嘲笑の声を高くした。
アルベルトが鼻で笑い、挑発的な言葉を投げる。
「どうした、氷獄魔女。怖いなら棄権してもいいんだぞ。資料で読んだよ、フロストレイン嬢。母君の腕を凍らせたそうだね。今回は背後の仲間まで凍らせないよう、せいぜい気をつけたまえ」
その言葉に、ミリアの心が完全に折れそうになった時だった。
「おい氷女!何ビビってんだ!」
背後から、ガルドの乱暴な怒鳴り声が響いた。
ミリアがハッとして振り返ると、ガルドが闘技場の壁に寄りかかりながら、不敵な笑みを浮かべていた。
「てめえの氷は、俺の全力の黒炎を正面から受け止めた盾だろうが!あんなチャラチャラした王都のお坊ちゃんのガラス細工なんかに負けるわけねえだろ!さっさと見せつけてこい!」
「ミリアさん。あなたの防衛力は私が保証しますわ。いつも通り、冷静に壁を張りなさいな」
セレスが扇子を開き、優雅に頷く。
「ミリアの氷は、味方を凍らせない。あたしは、知ってる」
リュカが尻尾を振りながら言う。
「ミリアが守ってくれるから、僕たちは前を向ける。……大丈夫だよ」
ノアが静かな瞳で励ます。
そして彼らの一番後ろで、レオンが少し眠そうな目で、しかし真っ直ぐにミリアを見据えていた。
「お前の氷はなんだ、ミリア」
レオンの問いかけに、ミリアの瞳から恐怖の濁りがスッと消え去った。
雪の森で、魔獣の群れから先生を守った夜。
教室で、初めて『守るための氷壁』を張ったあの日。
その記憶が、ミリアの胸に静かに戻ってくる。
「……私の氷は、みんなを守る盾です」
ミリアは震える声で、けれどはっきりと答えた。
「そうだ。なら遠慮はいらん。お前がどれだけ強くなったか、王都の連中に教えてやれ」
レオンの言葉に、ミリアは深く息を吸い込み、しっかりと大地を踏みしめて前へ進み出た。
彼女は両手にはめていた黒い手袋を、ゆっくりと外した。
道具に頼るためではなく、自分の意志で氷と向き合うために。
「辺境学院代表、ミリア・フロストレイン。防壁展開用意!」
審判の声が響く。
ミリアはすっと息を吸い、両手を前へと突き出した。
「攻撃開始!」
王都側の審判団の一人が、規定上限ぎりぎりの魔力を練り上げた。
形式上は競技用の攻撃魔法。
だがその威力は先ほどアルベルトに向けられたものとは比べ物にならない。
彼らは、ミリアが恐怖で防壁を崩すか、制御を失って暴走することを期待しているのだ。
轟音と共に、闘技場の空気を焼き焦がしながら巨大な火柱がミリアへと向かって放たれた。
だがミリアは一歩も引かなかった。
彼女の瞳がカッと見開かれ、真っ直ぐに迫り来る炎を見据える。
(私はもう、逃げない。私の氷で、みんなを守る!)
ミリアの足元から、澄んだ冷気が静かに広がった。
音もなく、けれど圧倒的な密度で、透明な氷の城壁がせり上がっていく。
王都の生徒が見せたような、華麗で複雑な魔法陣はない。
ただ純粋に、一切の熱を通さない絶対的な物理の壁。
ミリアの目の前だけではない。
氷壁は扇状に広がり、辺境学院側の陣営にいるレオン、エリス、そして四人の仲間たちの前まで伸びていった。
それは競技用の防壁ではなく、「背後の誰一人として傷つけさせない」というミリアの意志そのものだった。
ドガァンッ!!
審判の放った上限ぎりぎりの炎魔法が、ミリアの展開した氷壁に激突した。
闘技場全体が激しく揺れ、膨大な水蒸気が視界を覆い尽くす。
観客たちは息を呑み、白い蒸気が晴れるのを待った。
氷の化け物は、炎に焼き尽くされたか、あるいは恐怖で魔力を暴走させて自滅したに違いない。
誰もがそう思っていた。
だが。
蒸気が晴れた闘技場の中央に、ミリアは無傷で立っていた。
彼女が展開した巨大な氷壁は、炎の直撃を受けたにもかかわらず、ひび一つ、傷一つ入っていなかったのだ。
それどころか激突した炎の熱量は、氷壁の絶対的な冷気によって一瞬にして奪い去られ、完全に相殺されていた。
「な……なんだ、あの硬さは……!」
アルベルトが顔を青ざめさせ、呆然と呟いた。
彼が展開したステンドグラスのような結界は、確かに美しかった。
だがミリアの氷壁は、そんな見世物用の華麗さなど微塵も持ち合わせていない。
ただ戦場で『絶対に背後の味方を死なせない』という、すさまじいまでの執念と実戦的な防衛力だけで構築された、本物の城壁だったのだ。
闘技場が、水を打ったように静まり返った。
先ほどまでミリアを嘲笑っていた王都貴族たちも、教育局の重鎮たちも、そしてロベルト査察官も、目の前にある圧倒的な現実を前に言葉を失っていた。
「……審判団!氷壁の強度測定を!」
静寂を破り、実況の教師が上擦った声で叫んだ。
魔導具による測定が行われ、その数値が表示された瞬間、審判団の顔が信じられないというように歪んだ。
「防壁強度、および魔力密度……王都学院代表の数値を、遥かに凌駕しています……!」
測定係の報告に、観戦していた王都の魔術教師の一人が思わず立ち上がり、叫んだ。
「ば、馬鹿な!あれほどの冷気を放ちながら、周囲に一切の被害を出さず、ただ壁の形成だけに魔力を完全に制御しているだと!?」
王都の魔術師たちが戦慄する。
彼らが『制御不能の暴走魔術師』『氷獄魔女』と呼んで忌み嫌っていた少女は、今や王都の誰よりも高度で精密な魔力制御を身につけ、最強の盾としてそこに立っていたのだ。
「勝者、辺境学院代表、ミリア・フロストレイン!」
審判の震える声が闘技場に響き渡った。
一瞬、観客席は静まり返った。
最初に手を叩いたのは、貴族席の者ではなかった。
一般観覧席の端にいた、王都学院の下級生だった。
恐る恐る鳴らされた小さな拍手が、隣へ、さらにその隣へと広がっていく。
やがてそれはパラパラとした拍手となり、次の瞬間、地鳴りのような大拍手となって闘技場を揺らした。
それは辺境の田舎者への拍手ではない。
純粋な、圧倒的な力と技量に対する感嘆の拍手だった。
ミリアは両手を下ろし、そっと振り返った。
彼女の瞳から、恐怖の色は完全に消え去っている。
「へっ、当たり前だろ!俺の黒炎を正面から防ぐ盾が、あんなチャチな炎で溶けるわけがねえんだよ!」
ガルドが自分のことのように胸を張り、大声で笑う。
「見事な防衛戦でしたわ、ミリアさん。私たちの陣は、あなたの盾がある限り崩れませんわ」
セレスが優雅に扇子を揺らし、ノアとリュカも嬉しそうに頷いている。
エリスは涙を拭い、満面の笑みでミリアに拍手を送っていた。
そしてレオンは、いつもの少し眠そうな目で、けれど嬉しそうに口角を上げた。
「よくやった、ミリア。完璧な盾だったぞ」
その一言がどんな観客の歓声よりも、ミリアの胸を温かく満たしてくれた。
ミリアは花が咲いたような心からの笑顔を浮かべ、大きく頷いた。
「はいっ、先生!」
王都の嘲笑と偏見に満ちた公開処刑の場。
かつて誰にも触れられなかった少女の氷は、いま、誰よりも多くを守る壁になっていた。
そしてその壁の後ろから、次に踏み出す者がいる。
第二試合。
次に踏み出すのは、黒炎の番長だった。




