幕間5「銀狼は、群れの匂いを覚えた」
リュカ・ウォルフにとって、世界は「匂い」でできている。
草木の甘い匂い、雨の降る前の湿った匂い、魔獣の獣臭い匂い。
そして、人間の放つ「嘘の匂い」。
昔リュカの故郷の森にやってきた人間たちは、とても甘くて優しい匂いをさせていた。
『保護してやる』
『安全な場所へ連れて行く』
彼らの言葉は甘く、笑顔は優しかった。
けれど彼らの腹の底からは、鉄と血と、欲にまみれた腐ったような匂いが微かに漏れ出していた。
幼かったリュカや群れの大人たちは、その微かな悪臭に気づきながらも人間の甘い言葉に縋ってしまった。
その結果が焼けた毛皮の匂いと、冷たく重い鉄の首輪、そして暗い檻の中での絶望だった。
だからリュカは決めたのだ。
人間の「言葉」は絶対に信じない。
言葉はいくらでも嘘をつける。人間は言葉を使って弱い者を騙し、すべてを奪っていく。
信じるのは、自分の鼻が嗅ぎ取った「匂い」と、目の前で起きた「行動」だけだ、と。
辺境学院の特別隔離教室。
窓から差し込む冬の柔らかな日差しの中で、リュカは床に寝そべりながら鼻をヒクヒクと動かしていた。
今日の給食はもう終わった。
お腹はいっぱいだし、日差しはポカポカして気持ちいい。
しかし冷たい檻の中で震えていた記憶は、まだ完全には消えていない。
いつまた嘘つきな大人がやってきて、自分を暗闇に引きずり込むか分からない。
だから常に警戒を怠ることはできなかった。
リュカは完全に眠ってしまうことはなく、薄く目を開けて教室の中を静かに観察していた。
すぐそばの席では、赤髪のガルド・バルガが腕を組んで寝ていた。
ガルドからはいつも焦げ臭い煙の匂いがする。
乱暴で、声が大きくて、すぐ怒る。
『おい獣っ娘!』と乱暴に呼ばれるたびに、リュカは最初は威嚇して牙を剥いていた。
だが彼の匂いには不思議と「嘘」がなかった。
裏で何かを企むような腐った匂いや、リュカを化け物として見下す嫌な匂いが一切しないのだ。
(こいつ、乱暴だけど……嘘はつかない)
この間リュカがお腹を空かせて苛立っていた時、ガルドは『俺の分やる』と言って自分の肉をくれた。
人間が獣人に自分の食べ物を譲るなんて、あり得ないことだ。
王都の人間なら絶対にしない。
でもガルドは本当にくれた。
見返りも求めず、ただ「食え」と言って。
その時の真っ直ぐな匂いが、リュカの鼻の奥にまだ残っている。
ガルドの匂いは焦げ臭いけれど、焚き火のように少しだけ温かい。
不器用で乱暴なだけの、どこか安心できる匂いだ。
少し離れた席では、白銀の髪のミリア・フロストレインが、黒い手袋を膝に置き、素手で本のページをめくっている。
ミリアからは冬の朝のような冷たい雪の匂いがする。
昔のミリアは、その雪の匂いの中にツンとするような強い「恐怖」の匂いを混ぜていた。
自分が誰かを傷つけることを恐れ、誰も近づかないように威嚇する怯えた小動物のような匂いだった。
リュカも人間が怖かったから、その匂いの意味はよく分かった。
だが最近のミリアの匂いは変わった。
冷たい雪の匂いはそのままだが、その奥に春の陽だまりのような優しい匂いが混じるようになったのだ。
『リュカちゃん、指、擦りむけてますよ。絆創膏、貼りますね』
この前訓練で転んだ時、ミリアはおどおどしながらも近づいてきて、そっと指に絆創膏を巻いてくれた。
冷たいけれど、とても優しい匂いだった。
ミリアはもう、一人で震えているだけの弱い生き物ではない。
狩人たちからリュカを守ろうとした時、彼女の匂いからは恐怖が消え、代わりに強い「守る」という意志の匂いがした。
あの時のミリアは、群れを守る強い大人たちと同じ匂いがしたのだ。
小さな身体に秘めたその強さは、リュカにとって心地よいものだった。
教室の隅の席には、ノア・レイスがいる。
ノアからは、古い土の匂いと干からびた骨の匂いがする。
最初は死んだ生き物の匂いが強すぎて、リュカはノアに近づくのが嫌だった。
けれどノアの匂いも少しずつ変わってきた。
『リュカ。痛いのは、嫌だからね』
ノアは無表情のまま、青白い魔法でリュカの傷を治してくれた。
生きた人間には興味がないような顔をしているのに、彼の土の匂いの奥には相手の痛みを気遣う温かい匂いが隠れている。
死んだ骨の匂いだけじゃなく、生きている人間としての温かい血の匂いが最近のノアからは確かに感じられる。
ノアの隣にいると不思議と心が落ち着く。
言葉が少なくても、匂いだけで彼が仲間を大切に思っていることが分かるからだ。
だからリュカは時々、ノアの足元で寝転がるのが好きだった。
そして教卓の一番近くに座っているセレス・ヴァーミリオン。
セレスからはいつも鼻が曲がりそうになるくらい強い香水の匂いがする。
リュカはその匂いが一番苦手だった。
香水の下に、本当の自分の匂いを隠しているからだ。
『リュカさん、私の提案に賛同してくださるなら、このプリンも差し上げますわ』
セレスはいつも、甘い言葉と食べ物でリュカを操ろうとしてきた。
王都の嘘つきな大人たちと同じやり方だ。
だからリュカはセレスから漂う「一人ぼっちで怯えている匂い」を嗅ぎ取って、彼女の誘いを拒絶した。
でもあの後。
自分の弱点ノートがばらまかれて、セレスの香水の匂いが完全に消え去った時。
『どうか……私に、力を貸してください』
頭を下げたセレスからした匂いは、不器用で、震えていて、だけど必死に仲間を守ろうとする初めて嗅ぐ彼女の「本当の匂い」だった。
その匂いを嗅いだ時、リュカは初めてセレスの言葉を信じてみようと思ったのだ。
今のセレスは相変わらず香水をつけているけれど、その下にある匂いはもう冷たくない。
本当は不器用なだけなんだと、リュカの本能が認めたからだ。
だから少しだけなら、近くにいてもいいと思えるようになった。
ガルド。ミリア。ノア。セレス。
彼らの匂いはバラバラで、人間の匂いには違いない。
けれど王都の大人たちのような「嘘の匂い」はしない。
彼らは群れの仲間たちのように、互いの傷の匂いに気づき、足りないものを補い合い、そして誰かが危険な時は絶対に逃げずに戦う。
(これ……群れの匂いだ)
リュカは床に顎を乗せたまま、鼻をヒクヒクと動かした。
かつて奪われ、二度と手に入らないと思っていた群れの温かい匂い。
それが今、この小さな教室の中に確かに存在している。
彼らは人間の言葉で「守る」とは言わない。
ただ行動で、そして嘘のない匂いで、リュカに居場所を作ってくれているのだ。
「おいリュカ。いつまで寝てるんだ。風邪引くぞ」
不意に頭の上から眠そうな声が降ってきた。
リュカが耳をピクッと動かして見上げると、いつもの黒いコートを着たレオン・グランヴァルトが、大きな手でリュカの頭を無造作に撫でてきた。
「……ん」
リュカは逃げずに、その大きな手の感触に目を細めた。
レオンの匂いは、一番強くて一番分厚い壁のような匂いがする。
嘘がない。
媚びがない。
ただ真っ直ぐにそこに立っているだけの匂い。
狩人たちがリュカを捕まえに来たあの夜。
リュカが怒りに呑まれ何もかもを引き裂こうとした時。
レオンは武器も持たず、リュカの巨大な爪をその身で受け止めた。
『お前は檻に入れる獣じゃない。俺の生徒だ』
血の匂いと一緒に届いたその言葉は、リュカの心の奥底にあった氷を完全に溶かしてくれた。
大人はみんな嘘つきで、最後は檻に入れる。
そう信じていたリュカに、レオンは自らの血を流すという行動で絶対に裏切らないという証明をしてくれたのだ。
レオンの手は分厚くて少しごつごつしているけれど、とても温かい。
昔群れの大人たちが頭を撫でてくれた時と同じくらい、安心できる手だ。
(先生の匂い、好き)
……じゃない。
リュカは慌てて頭を振った。
好きじゃない。
ただ、嫌じゃないだけだ。
そう必死に自分に言い聞かせている間にも、彼女の背中にある銀色の尻尾はちぎれんばかりに激しく左右に揺れ続けていた。
「ふふっ。リュカさん、本当にレオン先生によく懐きましたわね」
セレスが扇子で口元を隠しながら、微笑ましそうに声をかけた。
「ああ。最初は俺の顔を見るたびに牙を剥いてたのにな。今じゃすっかり犬みたいだぜ」
ガルドも目を覚まし、大きなあくびをしながらニヤリと笑う。
「リュカちゃん、尻尾がブンブン振れてますよ。すごく嬉しそう」
ミリアがクスクスと笑い、ノアも本から顔を上げて「……本当だ。すごい勢い」と真顔で頷いている。
その言葉に、リュカはハッとして自分の尻尾を振り返った。
ブンブンと激しく揺れている銀色の尻尾。
自分の感情が完全にダダ漏れになっていることに気づき、リュカの顔が一気に熱くなった。
「ち、違う!リュカ、懐いてない!」
リュカは慌てて両手で自分の尻尾を押さえつけ、床に座り直した。
「人間なんか、まだ信じてない!リュカは一匹狼だ!人間の言うことなんか聞かない!」
リュカは必死に威嚇するようにキバを剥いてみせたが、押さえつけている両手の隙間から尻尾がパタパタと嬉しそうに漏れ動いているのは隠しきれなかった。
「はいはい、一匹狼ね。だが一匹狼でも腹は減るだろう」
レオンが眠そうに笑いながら、教卓の下から紙袋を取り出した。
「エリス先生から、おやつのお裾分けだ。干し肉があるぞ。食うか?」
『肉』という言葉を聞いた瞬間、リュカの獣の耳がピンと立ち上がった。
押さえつけていた尻尾が再び解放され、ブンブンと空気を叩き始める。
「……食べる!」
リュカは床から跳ね起き、一直線にレオンの元へと駆け寄った。
レオンから干し肉を受け取ると両手で大事そうに抱え込み、目を輝かせながら匂いを嗅ぐ。
「まったく、素直じゃないですわね。行動と尻尾が完全に矛盾しておりますわよ」
セレスが呆れたようにため息をつく。
「いいじゃねえか。美味そうに食うんだからよ。おい獣っ娘、俺にも一口よこせ」
「ダメ!これはリュカの肉!……でも」
リュカは一瞬だけ迷い、干し肉の端をほんの少しだけちぎって、ガルドに差し出した。
「……これは、群れの分。リュカがあげたいから、あげるだけ」
「はあ?なんだこのちっこい欠片は!食った気しねえだろ!」
「うるさい!これ以上はリュカの!」
「ガルドくん、リュカちゃんのご飯を取っちゃダメです……!」
ガルドが文句を言い、ミリアが慌てて止める。
ノアは「ガルド、大人げない」と冷静にツッコミを入れ、セレスは「騒がしい群れですわね」と優雅に紅茶を飲んでいる。
レオンはそんな騒がしい教室の光景を、教卓に寄りかかりながら満足そうに眺めていた。
リュカは干し肉をかじりながら、クラスメイトたちをちらりと見た。
相変わらずうるさくて、変な匂いが混ざり合っている。
でも嘘の匂いは一つもない。
安心できる、温かい匂い。
(……人間全部を、信じるわけじゃない)
リュカは心の中で、もう一度だけそう強がってみた。
(でも……こいつらは、リュカの群れだ)
干し肉を飲み込み、リュカは大きく口を開けて笑った。
彼女の背中では銀色の尻尾がこれ以上ないほど全力で、ご機嫌なリズムを刻みながら左右に揺れ続けていた。
冷たい冬の風が窓を叩いている。
だがこの特別隔離教室の中だけは、リュカが奪われていたはずの、温かな群れの匂いで満たされていた。




