第48話「銀狼の守護獣」
冷たい冬の夜風が吹き荒れる辺境学院のグラウンド。
数十人の武装した狩人たちが、一斉に殺声を上げて特別隔離クラスの生徒たちへと襲いかかってきた。
その先頭に立つのは、王都の貴族から獣人の生け捕りを命じられた、左目に眼帯をした本隊のリーダーだ。
だが彼らを迎え撃つのは、もはやただの寄せ集めの問題児たちではなかった。
「リュカさん、前衛をお願いしますわ!ガルド君は網を焼き払い、ミリアさんは足止めを。ノア君は視界妨害です!」
セレス・ヴァーミリオンの凛とした声がグラウンドに響き渡る。
セレスは狩人たちの装備と陣形を一瞥しただけで、即座に役割を割り振っていた。
補給倉庫襲撃以来、彼女は隔離クラス全員の能力と弱点を頭に叩き込んでいる。
だからこそ、最適な配置は一瞬で弾き出せたのだ。
彼女の的確な指示を受け、銀色の魔力を纏ったリュカ・ウォルフが弾丸のような速度で狩人の集団へと突っ込んでいった。
「チィッ!ちょこまかと動き回りやがって!網を張れ、一網打尽にしてやる!」
リーダーの怒号と共に、数人の狩人が特殊な魔力を帯びた重い鉄の網を投げ放とうとする。
だがその網が広がるよりも早く。
「てめえらの汚え網なんか、俺の炎で燃えカスにしてやるよ!」
ガルド・バルガが両手に圧縮した黒炎を放ち、空中に広がろうとした網を一瞬にして焼き尽くした。
さらに網を失って動揺した狩人たちの足元に、ミリア・フロストレインが展開した氷の枷が絡みつき、彼らの足を地面に固定する。
「ひっ!足が凍って動けねえ!」
「ノア君、視界を奪ってくださいませ」
セレスの扇子が翻ると同時に、ノア・レイスが操る無数の骨の鳥が狩人たちの顔の周りを飛び回り、彼らの視界を完全に奪った。
完璧な連携だった。
誰もが自分の弱さを知っているからこそ、仲間の強さを信じて背中を預けている。
そしてその仲間たちが作ってくれた道を通って、リュカが敵陣のど真ん中へと躍り出た。
「ガァァァァッ!!」
リュカの獣の咆哮が夜空を震わせる。
半獣化状態にある彼女の身体能力は、王都の精鋭騎士すら凌駕する。
彼女の銀色の爪が月明かりを反射して鋭く閃いた。
ガキィンッ!
「ぎゃああっ!」
先頭にいた狩人が悲鳴を上げて吹き飛んだ。
だがリュカの爪は、彼の喉笛を切り裂いてはいなかった。
鋭利な爪は狩人が構えていた鉄の槍を真っ二つにへし折り、その衝撃で相手の身体を弾き飛ばしただけだ。
次々と襲いかかってくる傭兵たちの剣や斧をリュカは圧倒的な速度で躱し、または爪で砕き割り、彼らの手首や膝の裏に強烈な打撃を叩き込んで無力化していく。
殺さない。
少し前までのリュカなら自分を傷つけようとする人間はすべて敵と見なし、本能のままに喉を掻き切っていただろう。
やられる前に殺す。
それが残酷な世界で彼女が学んだ唯一の防衛手段だったからだ。
だが今の彼女は違う。
彼女の背後には、自分を信じて力を貸してくれる仲間たちがいる。
自分の怒りを聞いてくれた大人がいる。
自分はもう一人ぼっちで檻に入れられる惨めな獣ではない。
だからもう過剰な暴力で自分を守る必要はないのだ。
「ふざけるな!ただのガキども相手に何を手こずっている!相手は獣だ、殺しても構わん!」
リーダーの男が血走った目で叫び、懐から禍々しい光を放つ短剣を取り出した。
麻痺毒が塗られた、獣人狩り特有の非道な武器だ。
彼は乱戦の隙を突き、リュカの背後から音もなく忍び寄ってその短剣を振り下ろそうとした。
「リュカ、後ろ!」
ノアの警告の声が響く。
だがリュカは振り返るまでもなく、野生の直感でその殺気を察知していた。
彼女は身体を低く沈めて短剣の軌道を躱すと同時に、地面を蹴って身を捻り、銀色の尻尾で男の腕を力強く打ち据えた。
「ぐはっ!?」
短剣が手からすっぽ抜け、地面に転がる。
体勢を崩したリーダーの胸ぐらを、リュカは小さな両手でがっしりと掴み、そのまま圧倒的な力で地面へと押し倒した。
ドスンッ!という重い音と共に、リーダーの男は背中を強打して息を詰まらせた。
「……っ、この化け物め……!」
男は恐怖に顔を引きつらせながらも、リュカを罵倒した。
化け物。
その言葉が、リュカの心の一番深い傷を抉った。
村を焼いた人間たちも、王都の研究者たちも、みんな同じ目で自分を見た。
獣人ではなく、子供でもなく、ただ檻に入れるべき化け物として。
リュカは男の胸の上に馬乗りになり、右手の鋭い爪を男の喉元に突きつけた。
爪の先が皮膚に触れ、一筋の血がツーッと流れる。
「ひぃっ……!」
男の喉から情けない悲鳴が漏れた。
リュカの瞳孔が縦に細く収縮し、獣の怒りが彼女の心の中で渦を巻く。
この男は自分を檻に入れ、王都の研究塔へ売り飛ばそうとした。
かつて自分の群れを騙し、焼き払い、すべてを奪っていった人間たちと同じ、醜く強欲な嘘つきだ。
ここでこの爪を少しだけ深く突き立てれば、この男は死ぬ。
恐怖に歪む男の顔を見下ろしながら、リュカの脳裏に檻の中で泣いていた過去の自分の姿がフラッシュバックした。
自分を傷つける人間を許してはいけない。
殺さなければ、またいつか自分が傷つけられる。
そんな暗い復讐の囁きが、彼女の耳元で響いた。
だが。
『その怒りを、誰に向けるかは選べ』
リュカの耳に、レオンの静かな声が蘇った。
もしここでこの男を殺せば、自分は本当にただの怒り狂う化け物になってしまう。
それは群れの大人たちが命懸けで守ってくれた自分の誇りを、自分自身で汚すことと同じだ。
リュカはゆっくりと顔を上げ、背後を振り返った。
ガルドが両手に黒炎を灯し、荒い息を吐きながらもニヤリと笑っている。
ミリアが両手を胸の前で組み、祈るようにリュカを見つめている。
ノアが骨の鳥と共に、静かな信頼の眼差しを向けている。
セレスが扇子を下ろし、リュカの決断を待っている。
そして彼らの一番後ろで、黒いコートの男が気だるげに、だが絶対的な安心感を持って立っていた。
みんな、リュカを見ている。
化け物として恐れる目ではない。
仲間として、群れの一員として、リュカを信じて見守ってくれているのだ。
リュカは深く息を吸い込み、再び男を見下ろした。
彼女の瞳から殺意で濁った赤黒い色が完全に消え去り、知性と誇りに満ちた本来の黄金色の輝きが戻っていた。
「……リュカは、化け物じゃない」
リュカは静かに、けれど明確な意志を持った声で告げた。
「リュカは、こいつらとは違う。お前たちみたいに、弱い者から奪うだけの嘘つきじゃない。リュカは、群れを守る銀狼だ」
リュカが右腕を振り上げた。
直後、鋭い爪が男の喉元へ向かって一直線に走る。
男の顔から血の気が引く。
だが次の瞬間、リュカは寸前で爪を止めた。
殺すための爪ではない。
もう、人間を憎むためだけに振るう爪でもない。
「……リュカ、人間の嘘、嫌い。でも」
リュカは低く唸りながら、爪を引っ込めた。
そして、その手をぎゅっと握り締める。
群れを守るための拳だ。
ゴッ!
鈍い音が夜のグラウンドに響いた。
リュカの拳が、男の頭に叩き込まれる。
男の後頭部が地面にめり込むように沈み、白目を剥いたまま完全に気を失った。
殺してはいない。
しかし二度と軽々しく獣人を狩りの獲物などと呼べない程度には、しっかりと痛みを刻み込ませていた。
周囲にいた残りの狩人たちも、リーダーが倒されたこととリュカの放つ気高い銀狼の威圧感の前に完全に戦意を喪失し、次々と武器を投げ出して地面に膝をついた。
戦いは終わったのだ。
レオンは少し離れた場所から、その光景を静かに見届けていた。
彼の視界の端で、リュカの頭上に浮かんでいた禍々しい赤い文字がこれまでになく激しく明滅している。
『【未来の獣神災厄】破壊都市、二十三。破滅原因:迫害、言葉の断絶、群れの喪失』
人間への不信と憎悪の象徴であったその赤い文字に、ついに無数の亀裂が走った。
亀裂の隙間から、これまで何度もかすかに滲んでいた銀色の光が一気に溢れ出した。
それは、リュカが怒りに呑まれず群れを守ろうとするたびに育っていた光だった。
そしてパリンッというガラスの割れるような澄んだ音と共に、赤い文字は完全に砕け散り銀色の光の粒子となって夜空へと溶けていった。
代わりに美しく気高い銀色の輝きを放つ新しい文字が、リュカの頭上に静かに浮かび上がった。
『【銀狼の守護獣】』
破壊都市の数も、破滅原因も、そこにはもう何も書かれていない。
未来が変わった。
人間に絶望しすべてを滅ぼす災厄の獣となるはずだった少女は今、新しい群れを守るための誇り高き守護獣としてその大いなる力を使う道を選んだのだ。
「……よくやったリュカ。お前は、自分の怒りを選べたな」
レオンは満足そうに口元を緩め、小さく息を吐いた。
「終わりましたわね」
セレスが安堵の息を漏らし、扇子をパチンと閉じた。
ガルドも黒炎を収め、ドカッと地面に座り込む。
「たくっ、世話焼かせやがって。だがまあ、一人も逃さず制圧できたな」
「リュカさん、怪我はありませんか?」
ミリアが駆け寄り、リュカの身体を心配そうに確かめる。
リュカは半獣化の魔力をスゥッと霧散させ、元の小さな少女の姿に戻った。
彼女は自分の両手を見つめ、それからミリアに向かってパタパタと尻尾を振った。
「ん。怪我ない。リュカ、誰のことも殺さなかった」
「はい。リュカさんは、とっても強くて優しいです」
ミリアが微笑むと、リュカは少しだけ照れくさそうに耳を伏せた。
そこへエリスが数人の辺境警備隊の隊員たちを連れてグラウンドへと駆けつけてきた。
「皆様、ご無事ですか!警備隊の方々が到着しました!」
エリスの指示で、警備隊員たちが気絶している狩人たちを次々と魔法の縄で縛り上げ、身柄を確保していく。
「セレスさん。彼らが王都の貴族と繋がっている証拠は、あの書類で間違いありませんね?」
「ええ。野営地の記録と合わせれば、言い逃れは不可能ですわ。王都の特権階級が違法な狩人を雇い、さらには学院の生徒を危険指定しようと企てた明確な証拠。これさえあれば、教育局も下手な真似はできなくなりますわ」
セレスが自信に満ちた声で答える。
エリスは力強く頷き、警備隊の隊長と何事か話し合いを始めた。
これで王都の闇がリュカに牙を剥くことは当分ないだろう。
レオンがゆっくりとした足取りで、リュカの前に歩み寄ってきた。
リュカはレオンを見上げ、胸を張って言った。
「先生。リュカ、化け物にならなかった。みんなのこと、守った」
誇らしげなその言葉に、レオンはフッと笑みをこぼした。
そして彼は大きな手を伸ばし、リュカの銀色の髪を無造作に撫でた。
あの夜血を流しながら彼女の頭を撫でた時と同じ、分厚くて温かい手だった。
「ああ。お前は立派な銀狼だ。俺の自慢の生徒だよ」
レオンの言葉に、リュカの背中の尻尾がちぎれんばかりに激しく左右に揺れた。
彼女はもう、レオンの手から逃げようとはしなかった。
人間の言葉は嘘かもしれない。
だがこの手から伝わる温もりと言葉ではなく行動で示してくれた信頼だけは、絶対に嘘ではないと彼女の本能が理解していたからだ。
「よし、お前ら。怪我がないならさっさと帰れ。こんな夜更けまで起きてたら、明日の朝飯の時に眠くなるぞ」
レオンの号令に、生徒たちが文句を言いながらも立ち上がる。
ガルドが背伸びをし、ノアが骨の鳥を懐にしまい、セレスがドレスの埃を払い、ミリアがリュカの手を引いた。
「行くよ、リュカさん」
「ん。帰る」
リュカはミリアに手を引かれながら、クラスメイトたちの輪の中へと自然に入っていった。
冷たい冬の風が吹き抜ける辺境学院のグラウンド。
だがそこには、かつて世界を滅ぼすはずだった子供たちが、確かな絆で結ばれた新しい『群れ』の姿があった。
深い夜の空の下、銀狼の少女はもう二度と檻に怯えることはない。
彼女は自分の居場所を見つけ、そしてそれを守り抜く強さを手に入れたのだ




