第47話「獣神災厄の夜」
夜の帳が下りた辺境学院の本校舎。
エリス・アークライトの執務室は、外の暗闇とは対照的に魔導ランプの光で明るく照らされていた。
机の上に、ドンッと重々しい音を立てて分厚い書類の束が置かれる。
「昨夜からエリス先生と整理していた、王都の貴族とあの狩人たちの繋がりを示す証拠ですわ」
セレス・ヴァーミリオンが扇子をパチンと閉じて宣言した。
壁際に寄りかかるようにして立っていたレオン・グランヴァルトは、その書類をパラパラと無造作にめくりながら気だるげに問う。
「ご苦労だったな。で、裏で糸を引いてる黒幕はどこのどいつだ」
「王都の魔導研究機関と、それに資金を援助している一部の特権貴族たちですわ。彼らの目的は、ただの密猟や人身売買ではありません」
セレスは赤い瞳を細め、冷たく言い放った。
エリスが青ざめた顔で言葉を継ぐ。
「……彼らの狙いは、リュカさんを意図的に『暴走』させることです」
「暴走させる?」
レオンが片眉を上げると、セレスがこくりと頷いた。
「ええ。かつて王都の研究所は、リュカさんを制御不能な失敗例としてこの辺境学院へ厄介払いしました。ですが近頃、彼女が辺境学院で人間への警戒を和らげ、獣の力にも制御の兆しを見せているという報告が王都に届いていました。研究機関は、かつて制御不能として手放した彼女が、この学院で兵器として利用できる段階へ近づいているのではないかと考えたのです。」
「彼らは狩人を使い、リュカさんを極限まで追い詰めるつもりです。理性を保てば、制御可能な兵器として回収する。暴走すれば、危険な災害として処理する。どちらに転んでも、彼らにとっては都合がいいのです」
レオンは短く息を吐き、書類を机に放り投げた。
「……暴走すれば正式に『災害指定』を受け、討伐対象になる。それを理由に王都の騎士団が乗り込み、堂々と生け捕りにして研究塔へ連行できるというわけか」
「ええ。正当な手続きで連行できないなら、彼女を危険な化け物に仕立て上げてしまえばいい。それが彼らの残酷なシナリオです」
エリスはギリッと唇を噛み締め、両手でスカートを強く握りしめた。
「子供を実験動物にするために、わざと危険な状況を作って暴走を誘発するなんて……。教育局の風上にも置けません!私は直ちに、この証拠を持って王都へ……」
ズゴォォォォンッ!!
エリスの言葉を遮るように、外から空気を震わせる巨大な爆発音が響き渡った。
執務室の窓ガラスがビリビリと震え、魔導ランプの光が明滅する。
「な、何事ですか!」
エリスが窓際に駆け寄り、外の暗闇を見下ろした。
学院の周囲に張られていた古い魔獣除けの結界が、青白い火花を散らしてパリンッと砕け散っていくのが見えた。
「正門の結界が……外部から破壊されました!何者かが侵入してきます!」
森の暗闇の中から、無数の松明の光がグラウンドへと雪崩れ込んでくる。
その数は数十人。
全員が完全武装の傭兵であり、その後方には魔獣を生け捕りにするための太い鉄格子で作られた巨大な檻を積んだ荷馬車が続いていた。
「噂の狩人集団か。王都の連中も随分と気が短いな」
レオンは気だるげな表情を完全に消し去り、腰の剣の柄に手をかけた。
「セレス、教室に戻れ。お前の指揮が必要になる」
「承知いたしましたわ」
「エリス先生はここで王都へ緊急の通信を繋いでくれ。少しでも証拠を残す」
「はい!レオン先生も、どうかご無事で!」
レオンは黒いコートの裾を翻し、足早に執務室を後にした。
特別隔離教室の扉を蹴り開けると、中はすでに臨戦態勢に入っていた。
ガルド、ミリア、ノアがそれぞれの魔力を練り上げ、セレスは黒板の前で素早く陣形図を描き始めている。
そして一番窓際では、リュカが四つん這いになり、窓の外のグラウンドを鋭く睨みつけていた。
「……鉄の匂い。血の匂い。嘘つきの匂いがいっぱい来る」
リュカの喉の奥から、地鳴りのような唸り声が漏れる。
彼女の銀色の尻尾は極限まで毛を逆立て、瞳孔は針のように細く収縮していた。
「行くぞ、お前ら。夜の課外授業の時間だ」
レオンの号令に、生徒たちが一斉に教室を飛び出していく。
冷たい冬の風が吹き荒れるグラウンドに出ると、そこにはすでに数十人の狩人たちが半円形に陣形を組み、隔離クラスの面々を待ち構えていた。
彼らの手には、鋭い刃のついた槍や強力な魔力拘束具が握られている。
「随分と物騒な夜遊びだな。ここは辺境の落ちこぼれが集まる学校だぞ。金目のものなんて何もない」
レオンが気だるげな声で狩人たちの前に歩み出ると、集団のリーダーらしき左目に眼帯をした大柄な男が、下劣な笑みを浮かべて前に出た。
先日捕らえた一味とは別の、王都から直接送り込まれた本隊の指揮官らしい。
「金目のものなら、そこにあるだろうが」
男は顎でしゃくり、レオンの背後にいるリュカを指差した。
「大人しくその銀狼を渡してもらおうか。我々は王都からの正式な捕獲命令を受けて動いている。その獣は、王都研究塔へ移送されることが決定した危険物だ」
男は懐から一枚の羊皮紙を取り出し、見せびらかすように広げた。
王都の印が押された、偽造された捕獲命令書だ。
「紙切れ一枚で俺の生徒が奪えると思っているなら、随分と頭がハッピーな連中だな」
レオンは鼻で笑い、腰の剣をゆっくりと抜いた。
鋭い刃が月明かりを反射して冷たく光る。
「あの獣はもう人間に牙を剥いた前科がある。引き渡さないなら、お前たちも反逆者として処分するぞ!」
「やれるものならやってみろ」
レオンの圧倒的な殺気に、狩人たちは一瞬怯んだ。
だがリーダーの男は、レオンと戦うことを避けるようにニヤリと笑い、リュカに向かって大声で叫んだのだ。
「おい、化け物!いつまで人間に飼われているつもりだ!お前を『保護する』と言った連中も、最後はお前を檻に入れただろうが!お前が群れだと思ってるその人間どもも、いずれお前を見限るぞ。危険な化け物だと気づいた瞬間に、お前を王都の檻に放り込むんだよ。前の群れも、そうやって奪われただろうが!」
檻。
保護。
その言葉が、リュカの耳の奥でかつて彼女を騙した大人たちの言葉と完全に重なり合った。
『安全な場所へ移住させてやろう』
『耐久実験には、頑丈な獣人が一番だからな』
人間の言葉は嘘だ。
力で奪い、檻に入れ、鎖で縛り付ける。
それが人間の本性だ。
そして今、目の前にいる人間たちもまた、自分を檻に入れようと迫ってきている。
さらに、自分がようやく見つけた新しい群れすらも、いずれ自分を裏切るのだと囁いているのだ。
「ガァァァァァァッ!!」
リュカの口から、悲鳴とも咆哮ともつかない絶叫が夜の空に響き渡った。
その瞬間彼女の小さな身体から、ドゴォォォンッ!という爆発的な魔力の波が全方位へと吹き荒れた。
銀色の髪が輝くように伸び、両手足には魔力によって形作られた鋭い爪が具現化する。
細い身体の表面に銀色の獣の毛が浮かび上がり、理性の光が怒りの奥で今にも消えそうに揺れ始めた。
レオンの視界の端で、リュカの頭上の赤い文字がこれまでで最も激しく明滅を繰り返した。
『【未来の獣神災厄】破壊都市、二十三。破滅原因:迫害、言葉の断絶、群れの喪失』
王都の黒幕のシナリオ通りだ。
狩人たちはわざとリュカのトラウマを抉り、彼女を理性のない化け物へと変貌させようとしている。
ここで彼女が怒りに呑まれ、見境なく暴れ回れば、彼女は正式に『災害』として認定されてしまう。
「殺す……嘘つきの人間、全部、殺す!」
リュカは四つん這いになり、銀色の残像を残して狩人たちの喉笛へと跳躍しようとした。
だが彼女が地面を蹴るよりも早く、黒いコートの男が凄まじい神速で彼女の目の前に立ち塞がった。
「どけ、先生!あいつら、殺す!」
リュカが血走った目で吼える。
だがレオンは剣を下段に下げたまま、一歩も退かずに真っ直ぐにリュカの獣の瞳を見据えた。
「お前は人間を滅ぼしたいのか。それとも仲間を守りたいのか」
その静かで重い問いかけに、リュカはピタリと動きを止めた。
「ただ怒りに任せて暴れれば、お前は本当にただの化け物になる。奴らのシナリオ通りだ。お前はただの、都合のいい実験動物に成り下がる」
レオンは少しだけ視線をリュカの背後へ向けた。
その瞬間、後方に控えていたガルドたちが一斉に前へ出た。
「おい獣っ娘。勝手に一人で突っ走ってんじゃねえ」
ガルドがリュカの左に並び、両手に巨大な黒炎を圧縮する。
ミリアは彼女の背後を覆うように氷壁を展開し、ノアの骨の鳥が周囲へ散って死角を警戒する。
セレスは一歩引いた後方で扇子を開き、戦場全体を冷静に見渡していた。
誰も、リュカを一人で戦わせようとはしていなかった。
誰も、リュカを化け物として恐れてはいなかった。
彼らは皆、リュカを守るために、共に戦うためにそこに立っていたのだ。
「お前がただ暴れるだけの獣になるなら、俺が止める。だが……」
レオンは再びリュカに向き直り、力強く告げた。
「仲間を守るために戦うなら、お前は誇り高き銀狼だ。どうする、リュカ。お前はどっちだ」
リュカの瞳孔が激しく揺れ動いた。
狩人たちへの果てしない憎悪と怒り。
かつて群れを奪われた深い絶望。
だがその横には、自分に肉を分けてくれたガルドがいる。
後ろには心配して声をかけてくれたミリアがいる。
自分を群れの一員として受け入れてくれた、温かい匂いのする仲間たちがいるのだ。
(リュカは、化け物じゃない……!)
リュカは強く目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
彼女の体を包んでいた暴走のオーラが、少しずつ静まっていく。
だが完全な制御にはまだ届いていない。半獣化の力は不安定に揺らぎ、銀色の魔力が荒々しく彼女の周囲で渦巻いている。
それでも、瞳から殺意の濁りは消え、本来の黄金色の輝きが戻っていた。
リュカは、暴走の一歩手前で踏みとどまった。
「……リュカは、群れを守る」
リュカはレオンの横に並び立ち、狩人たちに向かって低く、けれど明確な意志を持った声で言い放った。
「お前たち、群れを傷つけるなら、リュカが全部追い払う!」
狩人たちのリーダーが、舌打ちをして槍を構え直した。
「チッ、暴走しねえなら力ずくで檻に叩き込むまでだ!やれ!」
数十人の狩人たちが、一斉に殺声を上げて隔離クラスの生徒たちへと襲いかかってくる。
だがリュカはもう逃げない。怒りに呑まれることもない。
彼女は仲間たちの前に立ち、群れを守る銀狼として、鋭い爪を月明かりに閃かせた。




