第46話「群れを守るということ」
昨夜の凄惨な暴走から一夜明けた、辺境学院のグラウンド。
冷たい冬の風が吹き抜ける中、リュカ・ウォルフはうつむいたまま土の地面をじっと見つめていた。
彼女の銀色の獣の耳は力なく垂れ下がり、尻尾も足の間に巻き込まれるようにして丸まっている。
ザクッ、ザクッと枯れ草を踏む足音が近づいてきた。
リュカが恐る恐る顔を上げると、そこにはいつもの黒いコートを着たレオン・グランヴァルトが気だるげな足取りで歩いてくるところだった。
「……先生」
リュカは小さな声を漏らし、すぐにまた視線をそらした。
レオンの黒いコートの胸元は新しく縫い直されていたが、開いた襟元からは分厚い白い包帯が覗いていた。
昨日、怒りに我を忘れて半獣化したリュカが、その巨大な爪で深く抉ってしまった傷だ。
自分がこの嘘をつかない人間を傷つけた。
その事実が、リュカの心を重く冷たく締め付けていた。
「おはよう、リュカ。朝飯はしっかり食ったか?」
レオンは傷の痛みなど微塵も感じさせない平然とした声で、いつも通りに声をかけてきた。
リュカは両手をぎゅっと握りしめ、震える声で言葉を絞り出した。
「ごめんなさい……。リュカ、先生を傷つけた。また化け物になって、先生から血をいっぱい流させた……」
「気にするな。こんな傷、戦士の勲章みたいなもんだ。お前が無事ならそれでいい」
レオンは無造作に自分の胸の包帯を叩いてみせた。
だがリュカの耳はまだ垂れ下がったままだ。
人間を信じられず、怒りに任せて力を暴走させた自分が恐ろしかった。
また理性を失って、今度は先生やエリス、クラスのみんなを本当に殺してしまうかもしれない。
そう思うと、自分の中に眠る獣の血そのものが恐ろしくてたまらなかった。
「リュカ、もう怒らない。爪も牙も出さない。……大人しくする。だから、見捨てないで」
それは王都の大人たちに力でねじ伏せられ、檻の中で学習させられた悲しい生存戦略だった。
おとなしくしていれば、痛いことはされない。
力を隠せば、化け物と呼ばれない。
だがレオンはリュカのその言葉を聞いて、微かに眉をひそめた。
「馬鹿を言え。俺がいつ、お前に牙を抜けと言った」
「え……?」
「お前は自分の力を『人を傷つけるだけの化け物の力』だと思っているようだが、それは違う」
レオンはリュカの前に立ち、真っ直ぐに彼女の獣の瞳を見据えた。
「お前のその銀狼の力は、人間を無差別に殺すための呪いじゃない。お前の誇り高き群れを守るための、最強の牙だろうが」
群れを守るための牙。
その言葉に、リュカはハッとして顔を上げた。
かつて森で暮らしていた頃、群れの大人たちは強かった。
外敵が来れば鋭い牙と爪で群れの子供たちを守り抜き、決して退くことはなかった。
彼らは化け物ではなく、誇り高き守護者だったのだ。
王都の大人たちが「危険だ」と否定し続けたせいで、リュカは自分自身の獣性をただの悪いものだと思い込まされていた。
「獣性を否定するな、リュカ。力そのものに善悪はない。要は、その力を『何のために使うか』だ」
「何のために……」
「昨日の夜、お前はただ人間が憎くて、自分の身を守るためだけに力を暴走させた。だから周りが見えなくなり、エリス先生や俺を傷つけた。だがな」
レオンは少しだけ口元を緩め、真剣な眼差しを向けた。
「もしその力を、自分自身のためじゃなく『背後の仲間を守るため』に使えばどうなる。お前のその圧倒的な速度と爪は、群れを脅かす外敵を近づけさせない最高の盾になるはずだ」
「リュカの力が、盾……」
「そうだ。今日はお前に、その訓練をしてもらう」
レオンは腰の剣を抜き、グラウンドの地面にスッと一本の線を引いた。
「今日は最後まで暴走させない。まずは爪だけを出して、必要な瞬間に力を引き出し、すぐに収める。全身の半獣化は、その先だ」
「だ、駄目!また暴走して、先生を……!」
「俺を信じろ。俺は死なないと言っただろう」
レオンの揺るぎない声に、リュカはごくりと息を呑んだ。
自分の力が怖い。
だがこの先生は、絶対に自分を見捨てないと言ってくれた。
嘘のない匂いが、背中を押してくれる。
リュカは目を閉じ、深く深呼吸をした。
自分の中に眠る、銀狼の血脈。
それを昨日と同じように呼び覚ます。
だが今回は怒りや憎しみといった負の感情を引き金にはしない。
思い浮かべるのは、昨夜自分の前に立ち塞がり自分の爪をその胸で受け止めてくれたレオンの姿。
自分のために涙を流してくれたエリスの顔。
そして、不器用だけど自分に肉を分けてくれた教室の仲間たちの匂い。
「……リュカは、化け物じゃない。群れを守る、銀狼だ」
リュカが静かに目を開いた瞬間。
銀色の魔力が、彼女の両腕を中心に静かに立ち上った。
髪や身体そのものは少女の姿を保ったまま、両手にだけ魔力で形作られた銀狼の爪が浮かび上がる。
昨夜のような、全身を獣へ近づける半獣化ではない。
それでもリュカは、自分の意思で必要な力だけを引き出していた。
「……先生、見える。先生の匂い、分かる」
リュカの瞳は怒りに濁ることなく、本来の美しい黄金色を保っていた。
彼女は獣の力に呑まれず、最初の一歩を踏みとどまってみせたのだ。
レオンは満足そうに剣を鞘に収めた。
「よくやった。それが、群れを守る獣の本当の姿だ」
レオンの言葉に、リュカは嬉しそうに銀色の尻尾を大きく振った。
自分の力が恐ろしい呪いではなく、誰かを守るためのものだと認められたことがたまらなく嬉しかったのだ。
それから数時間。
リュカはレオンを相手に、銀狼の爪だけを出した状態での戦闘訓練を繰り返した。
全身の半獣化には踏み込まず、必要な瞬間にだけ力を引き出し、すぐに収める訓練だ。
ただ本能のままに飛びかかるのではなく、レオンが投げつける石や魔力弾を『線の後ろに通さない』ための防御的な立ち回りだ。
圧倒的な速度を活かし、リュカはグラウンドを駆け回りながら次々と標的を撃ち落としていく。
保健医メルディアに見つかれば確実に叱られる無茶な訓練だったが、レオンは平然と次の石を拾い上げた。
そして昼休みの鐘が鳴る頃には、リュカはすっかり魔力と体力を使い果たし芝生の上に大の字になってへたり込んでしまった。
「ハァッ……ハァッ……疲れたぁ……」
銀狼の爪を消し、力を収めたリュカは、荒い息を吐きながら空を見上げた。
手足は鉛のように重く、爪を出していた反動で指先が少しだけ擦りむけて赤くなっている。
だがその疲労感は、決して嫌なものではなかった。
「お疲れ様。よく頑張ったね、リュカさん」
不意に、頭上から声がした。
リュカが顔だけを横に向けると、ミリアがちょこんと隣に座っていた。
ミリアはリュカに無理に触れようとはせず、少しだけ距離を開けて座っている。
自分が触れれば凍らせてしまうかもしれないという彼女なりの気遣いだが、その瞳には心からの労りの色が浮かんでいた。
ミリアから漂う、雪のような冷たくて優しい匂い。
以前ならリュカは「近づくな」と威嚇していただろう。
だが今のリュカは、ミリアが隣にいることを自然に受け入れていた。
「……指、擦りむけてる。痛くない?」
今度は反対側から、ノアが静かに歩み寄ってきた。
彼はリュカの擦りむけた指先を見ると、自分の手をそっとかざした。
青白い魔力がふわりと広がり、リュカの指先を優しく包み込む。
死霊術の応用である微弱な生命力の譲渡だ。
魂送りの儀式を経て、ノアが新たに身につけた術だった。
ひんやりとした感覚とともに、指先のヒリヒリとした痛みがスッと引いていく。
「痛いのは、嫌だからね」
ノアは無表情のままそう言い、手当てを終えるとリュカの頭の近くに座り込んだ。
死者の声を聞いてきたノアの目は、最近生者の小さな痛みにも気づくようになっていた。
古い土と死んだものの匂いの中に、今は確かに生者を気遣う温かい匂いが混じっている。
リュカはパタパタと尻尾を動かし、ノアの手当てに無言の感謝を示した。
「あら、ずいぶんと泥だらけですわね。野生動物の訓練とはいえ、もう少し淑女としての身だしなみにも気を使っていただきたいものですわ」
赤い扇子を揺らしながら、セレスが優雅な足取りで近づいてきた。
彼女の手には、分厚い書類の束が握られている。
「セレス、変な紙持ってる。何の匂い?」
「これはエリス先生と共に整理した、王都の貴族とあの狩人たちの繋がりを示す情報ですわ」
セレスはリュカを見下ろし、扇子をパチンと閉じた。
「あなたを狙っていた狩人たちの残党と、背後で糸を引く貴族たちの動きについて、エリス先生と一緒に情報を整理していますの。まだ全容は見えていません。ですが、次に同じ手を使われても、こちらが後手に回らないよう準備していますわ」
セレスは書類をリュカの顔の前に軽く突きつけた。
「ですからあなたはもう、王都の檻に怯える必要はありませんのよ。ゆっくりとグラウンドでお昼寝でもしていなさいな」
香水の香りの奥にある、仲間を守ろうとする真面目で不器用な匂い。
セレスの言葉が、リュカの心の中に残っていた不安を、少しだけ軽くしてくれた。
リュカは大きく欠伸をして、気持ちよさそうに目を細めた。
「おい獣っ娘!いつまで寝てんだ、腹減っただろ!」
乱暴な声と共に、ガルドがドスドスと足音を立ててやってきた。
彼の手には、不格好に焦げた肉串が握られている。
「ほらよ。お前は昨日から走りっぱなしなんだ。俺が自分で焼いたんだ。文句は受け付けねえぞ。しっかり肉食って、早くそのチビな体格をどうにかしろ」
焦げ臭い匂い。
乱暴な口調。
だがそこには、見返りを求めるような打算も相手を騙そうとする嘘も一切ない。
ただ純粋に、お腹を空かせた相手に自分が作ったものを分けてやろうとする真っ直ぐな匂いだった。
ガルドは肉串を乗せた皿を、リュカの手が届く場所にポンと置いた。
リュカは差し出された肉串を両手で掴み、起き上がった。
そして自分の周囲に集まった四人のクラスメイトたちを、一人ひとりじっと見つめた。
ミリアが隣に座り、安心させてくれる。
ノアが怪我を手当てして、痛みを消してくれる。
セレスが情報を集め、外敵から安全を確保してくれる。
ガルドが自分のために、美味しい肉を持ってきてくれる。
それは、かつてリュカが暮らしていた故郷の森で感じていたものに、少しだけ似ていた。
群れの仲間たちはそうやって互いの傷を舐め合い、外敵を見張り、肉を分け合って生きていたのだ。
王都の人間は「守ってやる」と甘い言葉を吐きながら、リュカたちからすべてを奪い、檻に入れた。
だがこの教室の人間たちは、「守る」などという言葉を軽々しく口には出さない。
ただ行動で、匂いで、リュカが安心できる居場所を作ってくれている。
これが獣人にとっての、本物の絆。
「……みんな、嘘つきじゃない」
リュカはもらった肉を大きく一口齧り、口いっぱいに頬張りながら呟いた。
「これ……群れの匂いに、少し似てる」
リュカの背中で、銀色の尻尾がちぎれんばかりに激しく左右に揺れていた。
それは彼女がこのクラスメイトたちを、自分の新しい『群れ』として意識し始めた証だった。
ガルドは「群れだぁ?俺は一匹狼だぜ」とそっぽを向きながらも照れくさそうにし、ミリアは嬉しそうに微笑んでいる。
少し離れた場所で、レオンはその光景を静かに見守っていた。
彼の視界の端で、リュカの頭上に浮かぶ『未来の獣神災厄』という赤い文字。
そのひび割れから漏れ出ていた銀色の光が、今、赤い文字の輪郭に沿って少しずつ広がり始めていた。
「お前はもう、一人じゃない」
レオンは満足そうに呟き、気だるげに首の後ろを掻いた。
人間への絶望からすべてを滅ぼすはずだった銀狼の少女は今、新しい群れの中で確かな温もりを手に入れた。
だが世界はまだ、彼らを完全に放ってはおかない。
狩人たちの背後にいる王都の闇が、やがて本格的な牙を剥いてこの辺境学院を襲う日が近づいていることを、レオンは感じ取っていた。
しかし今の彼らなら、どんな敵が来ても、誰か一人だけを孤立させることはないだろう。
「よし、リュカ。肉を食い終わったら午後の授業だ。お前らも準備しろ。遅れた奴からグラウンド十周だぞ」
レオンの号令に、生徒たちが文句を言いながらも立ち上がる。
リュカは肉を咥えたまま、誰よりも早くレオンの元へと駆け出していった。
冷たい冬の風が吹く辺境学院に、温かい群れの足音が響き渡っていた。




