第45話「檻の中の獣ではない」
辺境の森の暗闇を、銀色の閃光が切り裂いた。
王都の嘘つきな大人への怒りと、二度と檻に入れられたくないという果てしない絶望。
それらが混ざり合い獣神災厄へと続く闘争本能に完全に呑まれかけていたリュカ・ウォルフの巨大な爪が、無関係なエリス・アークライトの首筋へと容赦なく振り下ろされた。
やられる前に、殺す。
それが世界に裏切られ続けた少女の、唯一の防衛本能だった。
だがその致死の一撃がエリスに届くよりも早く、凄まじい神速で二人の間に割り込んだ影があった。
黒いコートの元勇者、レオン・グランヴァルト。
彼は腰の剣を抜くことも、防御の魔力を纏うこともなく、ただ分厚い壁のように両腕を広げてリュカの前に立ち塞がった。
ザシュッ!!
鈍く、重い肉を裂く音が夜の森に響き渡った。
「レオン先生!」
エリスの悲鳴が夜気を震わせる。
リュカの鋭く巨大な半獣の爪はレオンの黒いコートを容易く切り裂き、その下の胸部から肩にかけて深い裂傷を刻んでいた。
鮮血が空中に舞い、冷たい冬の地面に赤い斑点を作って落ちる。
並の人間であれば衝撃で膝を折り、痛みに動けなくなってしまうほどの一撃。
だがレオンは顔を微かにしかめただけで、一歩も後ろへ退くことはなかった。
彼は血を流したまま、ただ静かに真っ直ぐにリュカの獣の瞳を見下ろしていた。
「……あ」
リュカは爪を振り抜いた姿勢のまま、ピタリと動きを止めた。
彼女の極限まで収縮していた縦長の瞳孔が、驚愕と混乱に激しく揺れ動く。
リュカの爪からは、生温かい人間の血が滴り落ちていた。
自分が人間を引き裂いた。
なら次に起こるのは、圧倒的な力による反撃と非情な拘束のはずだ。
王都の大人たちはいつもそうだった。
獣人が少しでも牙を剥けば「危険な化け物だ」と叫び、容赦なく魔法を叩き込み、痛めつけ、冷たく重い鉄の鎖で縛り上げた。
それが人間の世界の『正解』だと、彼女は骨の髄まで学習させられてきたのだ。
だが目の前の男は違う。
武器を持たず、防御すらせず、ただ無防備に自分の爪を受け入れた。
彼からは一切の殺気が感じられない。
鼻を突く血の匂いに混じって、この黒いコートの男から漂う『嘘のない』匂いがリュカの野生の勘を激しく混乱させていた。
「なんで……」
リュカの喉の奥から、獣の唸り声ではない掠れた小さな声が漏れた。
「なんで、避けない。なんで、魔法でリュカを縛らない……!」
リュカが後ずさりしながら、震える声で叫ぶ。
自分が化け物にならないと、また檻に入れられてしまう。
それなのにこの男は、自分を化け物として扱おうとしない。
レオンは傷口から血を流しながらも、いつものような気だるげな声で平然と答えた。
「避ける必要がないからだ。お前は俺の敵じゃない」
「嘘だ!人間はみんな嘘つきだ!リュカを檻に入れる敵だ!」
「俺は、お前を檻には入れない」
レオンの言葉は、冬の冷たい風の中でも決して揺らぐことのない鋼のような重みを持っていた。
彼は真っ直ぐにリュカの獣の瞳を見据え、はっきりと言い切った。
「お前は檻に入れる獣じゃない。俺の生徒だ」
『生徒』。
それは危険な化け物でも、研究用の検体でもない。
守られ、導かれるべき子供に対する当たり前の呼び方。
王都の大人たちが決してリュカに向けようとしなかったその言葉が、リュカの胸の最も柔らかい部分を鋭く抉った。
だがリュカにとって、その言葉はあまりにも遅すぎた。
「……っ、なら!」
リュカの目から、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちた。
怒りではない。
ずっとずっと心の奥底に押し殺してきた、純粋で圧倒的な理不尽に対する悲しみが、ついに決壊したのだ。
「なら、なんで誰も助けなかった!」
彼女の口から飛び出したのは獣の咆哮ではなく、傷だらけの子供の悲痛な叫びだった。
「群れが奪われた時!大人たちが目の前から消えた時!リュカが冷たい首輪をはめられて、暗い檻の中でずっと泣いてた時!ずっと、ずっと誰かが来てくれるって信じてた!でも、誰も来なかった!!」
夜の森に、リュカの慟哭が響き渡る。
人間の言葉は嘘だ。
『守る』と言っても、誰も守ってくれなかったではないか。
だから誰も信じない。
誰も信じられないから、一人で戦って、一人で化け物になるしかない。
そうやって生きるしかなかった少女の、本当の絶望がそこにあった。
エリスは両手で口を覆い、とめどなく涙を流した。
王都の人間がこの小さな少女に強いてきた理不尽の重さに、胸が張り裂けそうだった。
エリスは王都で獣人差別を見て見ぬふりをしてきた大人たちと同罪だ。
だからこそ、彼女の叫びが痛いほどに突き刺さる。
レオンは黙ってリュカの叫びを聞いていた。
そしてゆっくりと、血を流したままの体で彼女の前に歩み寄った。
リュカは牙を剥くが、もう先ほどのような明確な殺意はなかった。
レオンはリュカの目の前で、ドカッとあぐらをかいて座り込んだ。
彼女と完全に目線を合わせるために。
「ああ、ひどい話だ。お前を一人で檻の中で泣かせた大人たちは、本当にどうしようもないクソ野郎だ」
レオンの言葉に、リュカは目を丸くした。
大人たちはいつも言い訳をする。
「仕方がなかった」「お前たちが危険だからだ」「王国のルールだからだ」と。
だがこの男は、大人が間違っていたと、何の誤魔化しもなく言い切ったのだ。
「俺は、お前の過去を変えてやることはできない」
レオンは静かに、残酷な事実を告げる。
「あの日、お前の群れを助けに行けなかったことも、お前を檻から出してやれなかったことも、どうにもならない。俺もお前を助けなかった大人の一人だ」
その正直すぎる言葉に、リュカのピンと張り詰めていた銀色の尻尾が力なく垂れ下がった。
慰めの嘘を吐かない。
過去の痛みを無かったことにはしない。
だからこそ、彼の言葉には絶対的な信頼が宿る。
「だがな、リュカ」
レオンは真っ直ぐに彼女の濡れた瞳を見つめた。
「過去は変えられないが、今は違う。今、ここから先は……俺が絶対にお前を見捨てない」
レオンの言葉には、一片の嘘もなかった。
リュカの鋭い嗅覚がそれを完璧に証明している。
血の匂いと混ざり合う、不器用で、真っ直ぐで、分厚い壁のような大人の匂い。
「誰がなんと言おうと、俺がお前を檻から守り抜く。だからもう、一人で化け物になる必要はない」
リュカの視界が涙で歪む。
ずっと誰かに言ってほしかった言葉だった。
化け物にならなくてもいい。
一人で戦わなくてもいい。
その言葉を血を流しながら、決して自分から逃げない大人が言ってくれたのだ。
リュカの身体を覆っていた半獣化の異常な魔力が、シュゥゥッと音を立てて霧散していく。
細い身体に浮かび上がっていた銀色の獣の毛が薄れ、魔力によって形作られた銀狼の爪が消え、元の小さな少女の華奢な手へと戻っていく。
彼女は自分の手についたレオンの血を見て、ガタガタと震え出した。
「あ……ああ……」
自分が、この嘘をつかない人間を傷つけてしまった。
その事実が、急激に彼女の心を締め付ける。
狩人への憎しみよりも、自分の暴走がもたらした結果に対する後悔が勝ったのだ。
「せん、せい……ごめんなさい……リュカ、先生を……」
リュカは崩れ落ちるように地面に膝をつき、声を上げて泣きじゃくった。
暴走していた獣の本能はようやく静まり、そこにはただの傷ついた子供がいるだけだった。
レオンはゆっくりと手を伸ばした。
リュカの銀色の髪のすぐ手前で、その手が一度止まる。
触れていいか、無言で問うように。
リュカは涙で濡れた目でレオンを見上げ、小さく頷いた。
それからレオンは、彼女の銀色の髪をそっと撫でた。
今度は、リュカは逃げなかった。
拒絶の唸り声も上げなかった。
ただレオンの大きな手の温もりを感じながら、子供のように泣き続けた。
レオンは痛む胸部をかばいながらも、何度も彼女の頭を優しく撫で続けた。
エリスはそっと涙を拭うと、気絶している狩人たちを見下ろす前に震える手でレオンの傷口に応急の止血布を押し当てた。
「……彼らは、私が辺境警備隊に引き渡します」
エリスの声にはかつてないほどの静かな怒りと、学院長代理としての確固たる覚悟が宿っていた。
「王都の貴族が関与している証拠も、野営地の記録もすべて洗い出してみせます。王都が揉み消そうとしても、私の権限で出せる証拠は全部揃えます。それでも足りない分は、辺境警備隊と協力します。それが、私が今できる責任の取り方です」
エリスの力強い言葉に、レオンは満足そうに頷いた。
「頼む。俺の生徒に手を出した落とし前は、きっちりつけてもらわないとな」
レオンの視界の端で、リュカの頭上に浮かんでいた禍々しい文字が激しく揺らいでいた。
『【未来の獣神災厄】破壊都市、二十三。破滅原因:迫害、言葉の断絶、群れの喪失』
その赤い文字は、まだ完全には消えていない。
人間への根本的な不信感が完全に払拭されたわけではないからだ。
だが文字の輪郭は確実にひび割れ、その奥から銀色の温かな光が漏れ出し始めていた。
世界を滅ぼす災厄への扉は、まだ閉じきってはいない。
だが少なくとも今この瞬間、リュカはその向こう側へ踏み越えずに済んだのだ。
「立てるか、リュカ」
レオンが声をかけると、リュカは涙を拭って小さく頷いた。
「よし。じゃあ帰るぞ。みんなのところへ戻る」
「……ん。帰る」
リュカは立ち上がるとレオンのコートの裾をちょこんと掴み、その背中に隠れるようにして歩き出した。
冷たい冬の森に、もう獣の咆哮は響かない。
言葉を信じなかった銀狼の少女は、行動で示してくれた不器用な大人の背中を、今はしっかりと握りしめていた。




