第44話「銀狼の暴走」
辺境学院から少し離れた、冬の夜の森。
冷たい風が木々を揺らす暗闇の中、重々しい金属音と下劣な足音がじりじりと近づいてきていた。
王都の特権階級の貴族が裏で糸を引く、違法な獣人狩りの一味。
彼らは辺境の森に逃げ込んだ獣人を捕らえ、王都の裏社会へ流すために、最新の魔導具や残虐な罠で武装したプロの傭兵集団だった。
「先生、止めないで!」
リュカ・ウォルフの叫び声が、冷たい空気を切り裂いた。
彼女の銀色の尻尾は極限まで毛を逆立て、瞳は獣特有の縦長の瞳孔に収縮し、純粋な殺意でぎらついている。
先ほどまでレオン・グランヴァルトに対して見せていた、泣きじゃくる子供のような弱さはもうどこにもない。
あるのは自分の群れを奪い自分を檻に入れようとする明確な敵に対する、野生の防衛本能だった。
「リュカさん、いけません!相手は武装したプロです!」
エリス・アークライトが悲鳴のような声を上げるが、リュカは聞く耳を持たず、弾丸のような速度で暗闇の森へと飛び出していった。
レオンは腰の剣に手を添えたまま、エリスを背後に庇ってその後を追う。
「レオン先生!なぜ止めてくださらないのですか!」
「あいつは今、初めて自分の意思で敵を定めた。俺が無理やり止めても、あいつの心にある人間への怒りは消えない。だがもしその怒りに呑まれ、目の前の敵だけでなく世界すべてを憎む獣に成り果ててしまえば……」
レオンの視界の端で、赤い文字が不吉な明滅を繰り返している。
『【未来の獣神災厄】破壊都市、二十三。破滅原因:迫害、言葉の断絶、群れの喪失』
怒りの矛先を選ぶこと。
それができれば、リュカは過去の呪縛から解放される。
「少しでも歯車が狂えば、俺が止める。エリス先生は、足元に気を付けて後から来い」
レオンは鋭い眼光で森の奥を睨みつけ、神速の踏み込みでリュカの背中を追った。
暗い森の中の広場のような開けた場所で、リュカは急ブレーキをかけた。
彼女の周囲を、十数人の武装した男たちが半円形に取り囲んでいた。
彼らの手には、鋭い刃のついた槍や、強力な魔力拘束具、そして太い鉄の鎖が握られている。
「おいおい、なんだこのチビは。こっちから探す手間が省けたぜ」
集団のリーダーらしき顔に傷のある大柄な男が、下劣な笑みを浮かべてリュカを見下ろした。
「極上の銀狼だって聞いてたが、ただの汚えガキじゃねえか。まあいい、王都の貴族様はこういう獣臭いペットがお好きなんだとよ。生け捕りにして、高く売り飛ばしてやる」
「……人間、殺す」
リュカの喉の奥から、地鳴りのような唸り声が漏れる。
男たちはリュカの殺気に怯えるどころか、下品な笑い声を上げた。
「ハッ!獣風情が人間様に逆らう気か?大人しく尻尾を振って檻に入れば、少しは飯を食わせてやるよ。抵抗するなら、足を一本くらい折っても構わん。どうせ研究塔の実験体にされりゃあ、無傷で帰してもらえる獣人なんていねえからな!」
『檻』『研究塔』『実験体』。
狩人たちが吐き捨てる獣人差別の言葉が、リュカの耳の奥でかつて彼女を騙した大人たちの言葉と完全に重なり合った。
『安全な場所へ移住させてやろう』
『耐久実験には、頑丈な獣人が一番だからな』
人間の言葉は嘘だ。
力で奪い、檻に入れ、鎖で縛り付ける。
それが人間の本性だ。
「ガァァァァッ!!」
リュカは四つん這いになり、銀色の残像を残してリーダーの男へと跳躍した。
小さな身体からは想像もつかないほどの圧倒的な速度と跳躍力。
鋭い爪が男の喉笛を切り裂こうとした、その瞬間だった。
「かかったな、馬鹿な獣め!」
男がニヤリと笑い、手元の魔導具のスイッチを押し込んだ。
バチィィッ!!という激しい放電音と共に、広場の地面に隠されていた魔力網が勢いよく跳ね上がり、空中にいたリュカの身体を完全に包み込んだのだ。
それは魔獣を生け捕りにするための、高圧の雷魔力を帯びた特殊な鉄の網だった。
「ああっ……!?」
リュカは空中で全身に激しい電撃を浴び、地面に叩きつけられた。
銀色の髪が焦げ、全身の筋肉が痺れて思うように動かない。
「ハハハ!どんなにすばしっこくても、罠にかかりゃあただの獣だ!おい、今のうちに拘束用の鎖を首に巻きつけろ!」
男の命令で、数人の狩人たちが太い鉄の鎖を持ってリュカに近づいてくる。
冷たい鉄の鳴る音。
それは、リュカが暗い地下室で首にはめられた、あの忌まわしい首輪の音と全く同じだった。
「やめろ……くるな……!」
リュカは痺れる身体を引きずり、後ずさりしようとする。
だが網の雷魔力が彼女の自由を奪い、男たちの薄汚い手が彼女の首元へ伸びてくる。
「大人しくしろよ、化け物。お前は一生、人間の檻の中で生きていくんだからな!」
「……っ!」
化け物。
檻。
鎖。
そのすべてが、リュカの心の中にあった最後の理性の堰を容赦なく粉々に打ち砕いた。
自分が弱いから、群れを奪われた。
自分が無力だから、また檻に入れられる。
ならどうする。
弱くないと証明するしかない。
世界中の人間が自分を恐れ、誰も近づけないほどの、本物の化け物になればいいのだ。
「……あ、アァァァァァァァッ!!」
リュカの口から、悲鳴とも咆哮ともつかない絶叫が夜の森に響き渡った。
その瞬間彼女の小さな身体から、ドゴォォォンッ!という爆発的な魔力の波が全方位へと吹き荒れた。
網に流れていた雷魔力が、彼女の放つ強大な魔力によって一瞬にして相殺され太い鉄の網が飴細工のように弾け飛ぶ。
「な、なんだと!?」
男たちが驚愕の声を上げた。
土煙の中から立ち上がったリュカの姿は、先ほどまでの小さな少女のものではなかった。
銀色の髪は月明かりを浴びて発光するように伸び、獣の耳はさらに鋭く、銀色の尻尾は太くしなやかに膨れ上がっている。
彼女の両手足には、魔力によって形作られた銀狼の爪が具現化し、細い身体を覆うように銀色の獣の毛が浮かび上がっている。
だが姿そのものは、まだ少女のままだった。
獣化が完成しきっていない、その境界で揺らいでいる状態。
瞳は完全に縦に細く裂け、残っていた理性の光は怒りの奥で今にも消えそうに揺れていた。
それは獣人としての姿を失いかけ、獣としての闘争本能に呑まれかけた半獣化の姿だった。
「ガァァァァァァァッ!!」
銀狼の姿と化したリュカが、咆哮を上げて狩人たちへと襲いかかった。
先ほどとは次元の違う、まさに災害と呼ぶにふさわしい圧倒的な暴力。
リュカの巨大な爪が一閃するだけで、狩人たちの構えた鉄の槍が真っ二つにへし折られ、彼らの身体が木の葉のように吹き飛ばされる。
「ぎゃああっ!」
「ば、化け物だ!こんな話聞いてねえぞ!」
狩人たちがパニックに陥り、剣や魔法で反撃しようとするが、半獣化したリュカの毛皮は並の魔法を弾き返し、その速度は人間の目を完全に置き去りにしていた。
彼女は狩人の一人に飛びかかり、その胸当てを鋭い爪で紙のように引き裂く。
「ひぃぃっ!助けてくれぇっ!」
狩人が血を流して地面を這いずり回る。
リュカはその背中を踏みつけ、喉元へ牙を突き立てようと低く身を沈めた。
あと一秒。
あと一秒で、彼女は初めて人間を殺すことになる。
殺す。
自分を傷つける人間は、全部殺す。
王都の人間も、狩人も、嘘つきな大人は全部、リュカの爪で切り裂いてやる。
彼女の心は果てしない憎悪と怒りに完全に支配され、歯止めが効かなくなっていた。
「やめろ、リュカ!」
背後の茂みから飛び出してきたレオンが、鋭い声で叫んだ。
リュカは血走った目をレオンに向け、低い唸り声を上げる。
「リュカさん!もうやめてください!彼らは戦意を喪失しています!」
レオンの背後から、エリスが思わず叫んだ。
もう一歩前へ。
その思いが、彼女の理性を一瞬だけ越えた。
学院長代理として生徒を守るどころか、生徒が罪を重ねていく光景を黙って見ていられなかったのだ。
制止しようとしたレオンの手をすり抜け、エリスはリュカに向かって両手を広げた。
「あなたをもう二度と檻には入れさせません!だから、それ以上血を流しては駄目です!」
だが怒りに我を忘れた今のリュカには、エリスの言葉も匂いも、もう正確には判断できなかった。
視界に入る王都の意匠の服。鼻に届く香水の匂い。
それだけが、過去のトラウマと共鳴して『敵』として認識されていた。
人間の言葉は嘘だ。
『やめてください』と言って近づき、また私を縛り付ける気だ。
群れを奪った奴らと同じ、全部、全部敵だ!
「ガァァァァァァッ!!」
リュカは踏みつけていた狩人を蹴り飛ばし、銀色の閃光となってエリスへと殺到した。
鋭く巨大な爪が、容赦なくエリスの細い首筋を切り裂こうと振り上げられる。
「リュカさん……っ!」
エリスは恐怖に顔を引きつらせながらも、逃げようとはしなかった。
王都の大人たちがこの少女に何をしてきたかを知っているからこそ、その怒りから目を背けてはいけないと思ったからだ。
だが獣神災厄へと続く怒りの一撃は、エリスには決して止められない。
レオンの視界の端で、リュカの頭上の赤い文字が、これまでで最も激しく警告音を鳴らすように明滅した。
『【未来の獣神災厄】破壊都市、二十三。破滅原因:迫害、言葉の断絶、群れの喪失』
世界を滅ぼす災厄の獣への道が、今この瞬間に完全に開こうとしている。
理不尽な迫害が生み出した怒りの化け物が、無関係な者の血を吸って産声を上げようとしていた。
「——させねえよ」
だがリュカの巨大な爪がエリスに届くよりも早く。
黒いコートの男が、凄まじい神速でエリスの前に立ち塞がった。
レオン・グランヴァルト。
彼は腰の剣を抜くこともなく、ただ分厚い壁のように両腕を広げた。
剣を抜けば、リュカは自分が敵として斬られるのだと確信するだけだ。
それでは、彼女は永遠に人間を信じられない。
レオンは迫り来る銀狼の少女の怒りを、その全身で受け止めようとしていた。




