第43話「怒っていい」
夕闇が完全に森を包み込み、冷たい冬の風が木々を揺らしていた。
辺境学院から少し離れた森の奥。
黒いコートの元勇者レオン・グランヴァルトは、土の上にあぐらをかいて座り込んだまま、銀狼の少女リュカ・ウォルフと真っ直ぐに目線を合わせていた。
「……人間は、嘘つきだ」
リュカの震える声が、静かな森に落ちた。
それは威嚇ではない。
威嚇という鎧を剥がされた下にある傷だらけの幼い子供の泣き声だった。
レオンは何も言わない。
ただ聞くという姿勢を崩さなかった。
その沈黙に促されるように、リュカの口から今まで誰にも言えなかった、いや、誰も聞こうとしなかった言葉が溢れ出し始めた。
「人間、嘘つき。守るって言って、リュカたちを眠らせた。起きたら、群れの大人たち、いなくなってた。首に鉄の輪っかはめて、檻に入れて、痛いことばっかりした……!」
リュカは自分の口で語りながら、喉の奥に詰まっていた硬いものが、少しずつ剥がれていくのを感じていた。
誰にも話さなかった。
話せば、また「危険な化け物」と決めつけられるだけだったから。
だが目の前の男は、遮らず、否定せず、ただ黙って聞いている。
リュカの目から、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
だがそれは悲しみの涙ではない。
圧倒的な理不尽に対する、純粋で激しい怒りの涙だった。
「だから、人間嫌い!人間の言葉、絶対信じない!近づく奴は、全部敵だ!狩人も、王都の奴らも、みんなリュカの爪で切り裂いてやる!やられる前に、全部殺す!」
リュカが鋭い牙を剥き出しにし、両手の爪を土に食い込ませて吼えた。
その声は森の木々を震わせるほどの、獣の咆哮だった。
今まで、彼女がこの怒りを少しでも見せれば、王都の大人たちは「危険な化け物だ」「檻に入れろ」「魔力で押さえつけろ」と力で封じ込めてきた。
怒ることすら許されず、ただ大人しく実験動物として振る舞うことだけを強要されたのだ。
だから彼女は人間を信じない。
人間は彼女の痛みなど見ようとしない生き物だと学習したからだ。
リュカは荒い息を吐きながら、レオンを睨みつけた。
きっとこの人間も、自分を「危険だ」と言って押さえつけようとするに決まっている。
そう本能が警告していた。
だがレオンは腰の剣を抜くことも、魔法で彼女を縛ることもなかった。
ただ静かに息を吐き、気だるげに首の後ろを掻いたのだ。
「ああ、ひどい話だ。お前が人間を憎むのも、殺したいほど怒るのも当然だ」
「……え?」
リュカは予想外の言葉に、ポカンと口を開けた。
レオンは真っ直ぐにリュカの獣の瞳を見据え、はっきりと言い切った。
「怒っていい。憎んでいい。理不尽に群れを奪われ、痛い思いをさせられたんだ。その怒りを我慢する必要なんて、どこにもない」
それはリュカが生まれて初めて大人から与えられた、自らの感情に対する完全な『肯定』だった。
今まで誰も彼女の怒りを認めてくれなかった。
危険だから、化け物だからと否定され続けてきた怒りを、この黒いコートの男は当たり前のように肯定したのだ。
リュカのピンと張り詰めていた尻尾が、戸惑うように揺れた。
「怒って、いいの……?」
「ああ。だがな、リュカ」
レオンは少しだけ声のトーンを落とし、戦士としての鋭い眼差しを向けた。
「その怒りを、誰に向けるかは選べ」
「……選ぶ?」
「お前の群れを奪い、檻に入れた王都の連中や、今お前を狙っている狩人たち。そいつらは間違いなくお前の敵だ。だが今日、給食でお前に自分の肉を譲ったガルドは、お前の群れを奪った奴らと同じ人間か?」
その問いに、リュカはハッとして息を呑んだ。
『お前、肉好きなんだろ。俺は今日はスープだけで十分なんだよ。さっさと食え』
乱暴な言葉と一緒に、差し出された豚肉の香草焼き。
自分から奪うのではなく、自分の分を譲ってくれた赤髪の少年。
「心配して声をかけてくれたミリアは?お前を監視じゃなく『護衛』に選んだセレスは?一緒に古戦場で隣に座ったノアは?あいつらは、お前を檻に入れる人間か?」
「……ちがう」
「そうだ。人間がみんな嘘つきで、お前を傷つけるわけじゃない。お前は野生の勘がいいんだから、誰が敵で誰が味方かくらい、匂いで分かるはずだ」
レオンはあぐらをかいていた足を崩し、ゆっくりと立ち上がった。
そしてリュカを見下ろして告げる。
「過去に傷つけられたからって、手当たり次第に周りの人間全員に牙を剥いて暴れ回れば、お前は本当に『檻に入れられる化け物』になっちまうぞ。それは、お前の誇り高き群れの仲間たちが望んだ姿か?」
リュカは唇を強く噛み締めた。
群れの大人たちは、村の人間たちに石を投げられても決して反撃しなかった。
反撃すれば人間の軍隊が来て、子供たちまで殺されると分かっていたからだ。
彼らは誇りを持って、リュカたち子供を守るためにただ痛みに耐えていた。
それなのに自分が手当たり次第に暴れ回って化け物になれば、大人たちが命懸けで守ってくれた意味がなくなってしまう。
「怒りを手放す必要はない。だが、怒りに振り回されるな。お前を不当に傷つける奴にだけ、その牙を剥け」
リュカの頭上で明滅する『未来の獣神災厄』の赤い文字。
破壊都市二十三。
人間への絶望からすべてを滅ぼす災厄の獣へと変貌する未来。
その禍々しい文字が、レオンの言葉を受けてほんの微かに、だが確かに揺らいだように見えた。
リュカは地面に突いていた両手を離し、ゆっくりと立ち上がった。
まだ混乱している。
人間は敵だ。
そう思っていれば楽だったのに、この男は『選べ』と言う。
だが不思議と嫌な気はしなかった。
子供扱いせず、群れの一員として自分を扱ってくれているように感じたからだ。
「レオン先生!」
不意に、森の奥から草木をかき分ける音がして、息を切らしたエリス・アークライトが駆けつけてきた。
彼女の手には、先ほど職員室で持っていた報告書が握られている。
万が一の事態に備え、レオンの後を追ってきたのだ。
「リュカさん!ご無事で……!」
エリスはリュカの姿を見てほっと胸を撫で下ろしたが、リュカは再びピクリと耳を倒し、一歩後ずさった。
レオンは嘘をつかない。
だがこの女の人はどうだ。
王都から来た人間だ。
学院の偉い人だ。
王都の人間は、いつも規則だの法律だのと言って獣人を縛り付ける。
エリスが「私的な戦闘は禁止です」と説教を始めるのだと、リュカは警戒した。
だがエリスはリュカに歩み寄ると、冷たい土の上に迷いなく両膝をついたのだ。
そしてリュカの目線に合わせ、真剣な表情で彼女を見つめた。
「リュカさん。私は王都の学院にいた頃、獣人の方々が理不尽な差別を受け、虐げられる現場を何度も見てきました」
エリスの言葉に、リュカは目を丸くした。
エリスの瞳には、学院長代理としての建前や王都の人間としての傲慢さは微塵もなかった。
そこにあったのは、一人の人間としての深い悔恨と悲しみだった。
「私はその時、彼らを助けることができませんでした。力不足で、見て見ぬふりをするしかありませんでした。……あなたが大人たちから受けた痛みは、決して許されるものではありません」
エリスは膝に置いた両手を強く握りしめた。
「虐げられた人たちには、怒る権利があります。あなたにも、怒る権利があります」
「エリス先生……?」
レオンが少しだけ驚いたように眉を上げた。
学院の責任者という立場であるエリスにとって、生徒の怒りや私的な復讐心を肯定することは王国の規則に真っ向から反する行為だ。
場合によっては彼女自身の立場すら危うくなる。
だがエリスは、王都の冷酷な規則よりも目の前で傷ついている一人の少女の心に寄り添うことを選んだのだ。
「ですがリュカさん。レオン先生の言う通り、その怒りであなた自身を壊してしまわないでください。私たちは……この学院は、あなたを絶対に王都の檻には戻しません。学院長代理として、私が責任を持って守ります」
エリスの言葉には、一片の嘘もなかった。
リュカの鋭い嗅覚は、エリスから発せられる匂いを正確に嗅ぎ取っていた。
香水の匂いの奥にある、不器用で、真面目で、本当に自分を守ろうとしてくれている人間の匂い。
嘘つきの匂いは、どこにもない。
ガルドの肉の匂い。
レオンの真っ直ぐな匂い。
エリスの嘘のない匂い。
リュカの中で完全に人間を拒絶していた分厚い壁に、また一つ小さな亀裂が入った気がした。
「……リュカ、化け物には、なりたくない」
「……怒るけど……お肉くれた奴は、傷つけたくない」
リュカは小さく呟いた。
「氷の奴も、骨の奴も、変な匂いのセレスも……まだ分からない。でも、敵じゃないかもしれない」
それは彼女なりの、クラスメイトたちを『群れ』として認め始めた証だった。
レオンは満足そうに口元を緩め、エリスに手を差し出して立ち上がらせた。
「よく言った、エリス先生。あんたも立派な共犯者だな」
「……もう、覚悟はできていますわ。可愛い生徒が傷ついているのに、規則なんて守っていられません」
エリスは少しだけ顔を赤くして、スカートの土を払った。
リュカも尻尾をパタパタと揺らし、完全に威嚇の姿勢を解いていた。
「よし、話は終わりだ。腹も減ったし、寮に戻るぞ。今日の夕飯は……」
レオンが歩き出そうとした、その瞬間だった。
ピクッ、とリュカの獣の耳が激しく動いた。
風向きが変わった。
森の奥から、これまで届かなかった匂いが流れてくる。
彼女の鼻がヒクヒクと森の奥の空気を嗅ぎ取った。
「先生、待って」
リュカの声が低く沈み、再び銀色の尻尾が毛を逆立ててピンと張り詰めた。
彼女の視線はレオンたちがやってきた学院の方向ではなく、さらに森の奥の暗闇へと向けられている。
「……血の匂い。それに、鉄と油の匂い。王都の嘘つきたちと同じ匂いがする」
レオンは笑顔を消し、エリスを背後へ庇うようにして腰の剣に手をかけた。
冷たい冬の風に乗って、カチャリ、という金属の鳴る音がかすかに聞こえてきた。
「狩人か」
リュカが低く唸る。
王都の貴族が裏で糸を引く、違法な獣人狩りの集団。
彼らはリュカが単独で森へ入ったことを察知し、獲物を捕らえるために包囲網を敷きながら近づいてきているのだ。
「エリス先生、リュカを連れて学院へ戻れ。俺が奴らを食い止める」
「嫌だ!」
レオンの指示を、リュカが即座に拒絶した。
「あいつら、リュカを捕まえに来た。だから、リュカが戦う!先生、止めないで!」
リュカの瞳は再び殺意で赤く染まろうとしていた。
怒りの方向は定まった。
自分を不当に傷つけ、群れを奪おうとする明確な敵に対する怒りだ。
だがそれは同時に、彼女が自らの手で血を流し獣としての闘争本能を爆発させる危険な一線の始まりでもあった。
暗闇の森の奥から、無数の気配がじりじりと近づいてくる。
レオンの視界で、リュカの頭上の赤い文字が不吉に揺らいだ。
銀狼の少女と狩人たちの戦いが、暗闇の奥で静かに幕を開けようとしていた。




