第42話「獣人狩りの噂」
辺境学院の旧校舎。
エリスからもたらされた「獣人狩り」の不穏な噂は、一夜明けても特別隔離教室に目に見えない緊張感をもたらしていた。
特に、獣人少女であるリュカ・ウォルフの様子は明らかに異様だった。
授業中も彼女は席につかず一番窓際の床に四つん這いになり、外の森をじっと睨み続けている。
銀色の尻尾は毛を逆立てたままピンと張り詰め、獣の耳は森から聞こえる微かな音を一つ残らず拾おうと小刻みに動き続けていた。
彼女の喉の奥からは、時折「グルル……」という低い威嚇の唸り声が漏れ出している。
「リュカさん、ずっと外を気にして……大丈夫でしょうか」
ミリアが心配そうに手袋をした両手を握りしめ、囁く。
「あの様子では、声をかけても噛み付かれそうですわね。無理に刺激しない方が賢明ですわ」
セレスが扇子で口元を隠し、冷静に分析する。
ノアも机の下で骨の鳥を撫でながら、リュカの背中を静かに見つめていた。
「おい獣っ娘。落ち着けよ。まだ敵が来たと決まったわけじゃねえだろ」
ガルドが苛立たしげに声をかけたが、リュカはシャーッ!と鋭い牙を剥き出して威嚇を返した。
彼女の瞳孔は針のように細く収縮し、極度の警戒状態にあることを示している。
狩人。
獣人を捕らえ、檻に入れ、どこかへ連れ去ると噂される集団。
その言葉が、幼い頃に群れを奪われ、檻に入れられた恐怖の記憶を否応なく呼び覚ましているのだ。
やられる前に、殺す。
それが、極限状態に置かれた野生の防衛本能だった。
「よし、午前中の授業はここまでだ。飯にするぞ」
教卓に立っていたレオン・グランヴァルトが歴史の教科書を閉じ、気だるげな声で告げた。
エリスが手配した給食のワゴンが教室の前に運び込まれる。
今日のメニューは、厚切りの豚肉の香草焼きと、温かい野菜スープ、そして黒パンだ。
「肉だぞ、リュカ。食え」
レオンが器に盛られた肉をリュカの前に差し出す。
リュカは鋭い警戒の目をレオンに向けたまま素早い動きで器をひったくり、部屋の隅へ逃げ込んだ。
そして周囲を威嚇するように唸り声を上げながら、手づかみで肉に食らいついた。
いつもなら美味そうに尻尾を振って食べるはずの彼女が、今日はまるで敵に奪われないよう必死に胃袋へ詰め込んでいるように見えた。
過度のストレスと不安が、彼女の生存本能である『食欲』を異常なまでに刺激しているのだ。
「……足りない。もっと肉」
自分の分の肉をあっという間に平らげたリュカは、まだ血走った目でクラスメイトたちのトレイを睨みつけた。
普段のリュカなら、人の皿にまで手を伸ばすことはしない。
だが狩人の噂に刺激された本能が、今は少しでも多く食べて逃げるか戦うための力を蓄えろと叫んでいた。
「リュカさん、私の分を……」
ミリアが声をかけた瞬間、リュカが弾かれたように飛び出しミリアの肉に手を伸ばそうとした。
「ひゃっ!」
ミリアは驚いて身を引き、こぼさないよう慌ててトレイを両手で支えた。
リュカの爪が、空を切る。
「こら、リュカ!人の飯を奪うな!」
レオンが間に入ろうとしたが、リュカの飢えた野生は止まらない。
彼女はシャーッと牙を鳴らし、今度はノアのトレイへと標的を変えようとした。
誰もが彼女の野生の暴走に呆れ、そして戸惑っていた。
人間を信じられない彼女の心に、言葉で理性を説いても届かない。
ノアは骨の鳥を撫でながら、その光景を静かに見つめていた。
その時だった。
「ほらよ。俺の分やる」
ぶっきらぼうな声と共に、リュカの鼻先に大きな豚肉の香草焼きが突き出された。
ガルドだ。
彼は自分のトレイに乗っていた手付かずのメインディッシュの肉を、フォークに刺してリュカの目の前に差し出したのだ。
ガルド自身なぜ自分がそんなことをしたのか、自分でもよく分からなかった。
ただ飢えたように肉を求めるリュカの姿が、誰にも構われず力を見せることでしか存在を示せなかった昔の自分と少しだけ重なって見えたのだ。
「……?」
リュカの動きがピタリと止まり、目を丸くしてガルドを見上げた。
ガルドは乱暴に頭を掻きむしり、そっぽを向いた。
「お前、肉好きなんだろ。俺は今日はスープだけで十分なんだよ。さっさと食え」
教室の空気が一瞬だけ止まった。
リュカは差し出された肉とガルドの顔を交互に見比べた。
獣人の群れにおいて食料は命そのものだ。
厳しい冬や飢餓の時、弱い者は肉を奪われ強い者が独占する。
それが自然の掟だった。
ましてや人間は獣人からすべてを奪う生き物だ。
「保護する」という甘い言葉で近づき、群れを焼き、自由を奪い、檻に入れた。
人間が自分に肉を譲るなんて、あり得ない。
裏に何か罠があるはずだ。
毒が盛られているのかもしれない。
そう本能が警戒の警鐘を鳴らす。
だがガルドの匂いには『嘘』がなかった。
見返りを求めるような打算の匂いも罠を仕掛ける悪意の匂いもない。
ただ不器用に、お腹を空かせた相手に自分の分を分けてやろうとする純粋な『譲渡』の匂い。
「……くれるの?」
「おう。いらねえなら俺が食うぞ」
「食べる!」
リュカは慌ててガルドのフォークから肉をパクッと咥え取り、両手で抱え込んだ。
ガルドは鼻で笑い自分の黒パンをスープに浸して食べ始める。
リュカは隅に戻り、もらった肉を大事そうに少しずつ齧った。
初めてだった。
群れの仲間でもない人間に自分の取り分を譲られたのは。
王都の人間は甘い言葉で騙して奪っていった。
だがこの赤髪の人間は、乱暴な言葉を使いながら自分の肉をくれたのだ。
人間の言葉は嘘だ。
だから行動と匂いだけを信じる。
リュカの心の中で、人間に対する絶対的な拒絶の壁がほんの少しだけ揺らいだ瞬間だった。
しかしその小さな平穏は夕暮れと共に打ち砕かれることになる。
***
放課後の職員室。
レオンはエリスの執務机の前に立ち、深刻な顔で提出された報告書を読んでいた。
「自警団からの追加報告です」
エリスが青ざめた顔で言葉を紡ぐ。
「学院から西へ数キロの森の奥で、武装集団の野営地が発見されました。目撃者の証言によれば、彼らは魔獣用の檻を大量に持ち込み、一部の者は王都の特権階級の紋章が刻まれた外套を着ていたとのこと。……噂は事実でした。彼らは間違いなく、獣人を狙う違法な狩人の一味です」
「王都貴族が裏で糸を引いているというわけか」
レオンが報告書を机に放り投げる。
「ええ。獣人を高値で売り飛ばす闇市場や、非人道的な魔導研究の検体として要求している者がいるのでしょう。もし彼らがリュカさんの存在を知れば、必ずこの学院を襲撃してきます。すぐに辺境警備隊に保護を要請すべきです!」
「いや、警備隊が動く前に奴らは仕掛けてくる。それに王都貴族が絡んでいるなら、正規の警備隊は手出しできない可能性が高い」
レオンが気だるげに首の後ろを掻いた、その時だった。
執務室のドアの向こうで、微かな物音がした。
レオンが素早く扉を開けると、廊下にはもう物音の主の姿はなかった。
開け放たれた窓から冷たい風が吹き込み、床に落ちていた銀色の毛が数本、かすかにそよいでいるだけだった。
「リュカか……!」
「レオン先生!リュカさんが、今の話を聞いて……!」
「不味いな。あいつ、一人で決着をつける気だ」
レオンは窓から飛び出し、夕闇が迫る森の方角へと駆け出した。
冷たい風が吹き荒れる夕暮れの森。
リュカは木々の枝を蹴り、獣人特有の驚異的な跳躍力で森の奥へと向かって突き進んでいた。
彼女の瞳は殺意で赤く染まり、銀色の髪が風に煽られて激しく揺れている。
(狩人。群れを焼いた奴ら。檻に入れた奴ら)
彼らが学院のすぐ近くまで来ている。
狙いは自分だ。
もし彼らが学院に来れば、どうなるか。
王都の大人たちは、自分を捕まえるためにどんな汚い手段でも使う。
ガルドが肉をくれた。
ミリアが心配してくれた。ノアがいて、セレスがいて、レオンがいる。
あの教室は、少しだけ温かかった。
だが狩人が来れば、あの温かい場所もまた炎と血で塗り潰されてしまう。
(やられる前に、殺す。全部、リュカの爪で切り裂く!)
それが彼女が過酷な世界で学んだ唯一の生存戦略だった。
誰も守ってくれないなら、自分が先にすべてを殺すしかないのだ。
狩人の野営地の匂いが、冷たい風に乗って微かに鼻をかすめた。
もうすぐだ。
リュカが鋭い爪を剥き出しにし最後の一跳びで深い森の広場へ躍り出ようとした、その瞬間。
「——待て、リュカ」
ドスゥンッ!という重い音と共に、リュカの進路上の地面に黒いコートの男が立ち塞がった。
レオンだった。
レオンは報告書で、狩人の野営地の位置をすでに把握していた。
リュカの匂いを追う走りではなく地形を無視した最短の直線で森を突っ切り、彼女の進路へ先回りしたのだ。
「どけ!人間、どけ!」
リュカは急ブレーキをかけ、地面に爪を立てて四つん這いになりながら、レオンに向かって激しく牙を剥いた。
「どかないと、お前でも引き裂く!」
「殺す前に、どこへ行くつもりか聞かせろ」
レオンは腰の剣を抜くこともなく、ただ静かにリュカの殺気を受け止めていた。
リュカは喉の奥から地鳴りのような唸り声を上げる。
「狩人、殺す!奴ら、リュカを檻に入れる!だから、先に殺す!」
「お前一人で、武装した狩人の集団を相手にする気か。返り討ちにされて檻に入れられるだけだぞ」
「うるさい!人間は嘘つきだ!どうせみんな、最後はリュカを見捨てる!だから、リュカは一人で戦う!」
リュカの悲痛な叫びが、夕暮れの森に響き渡る。
彼女の脳裏には、炎に焼かれる故郷と自分に冷たい鉄の首輪をはめた大人たちの顔が焼き付いて離れないのだ。
レオンの視界の縁が赤く滲んだ。
リュカの頭上に、禍々しい赤い文字が激しく明滅して浮かび上がっている。
『【未来の獣神災厄】破壊都市、二十三。破滅原因:迫害、言葉の断絶、群れの喪失』
狩人の存在が彼女の古傷を容赦なく抉り出し、彼女を災厄の獣へと変貌させようとしている。
ここで彼女が一人で血を流し、人間への絶望を極めれば未来の破滅は決定的になる。
レオンは小さく息を吐いた。
そして彼はリュカを力ずくで押さえつけることも、大人の理屈で説教をすることもしなかった。
彼はただその場にドカッとあぐらをかいて座り込み、リュカと完全に目線を合わせたのだ。
「な、何してる……!」
リュカが戸惑い、威嚇の声を一瞬だけ止める。
レオンは気だるげに首の後ろを掻きながら、しばらく無言でリュカの怒りを受け止めた。
彼女の唸り声だけが、夕暮れの森に低く響く。
やがてレオンは静かに、けれど確かな重みを持った声で言った。
「俺は、お前が昔どんな目に遭ったか、本当のところは知らない。王都の連中がどれほど酷い真似をしたのか、お前がどれほど痛かったのか、全部を分かってやることはできない」
「……!」
「だから、お前の怒りを聞く」
レオンのその言葉に、リュカの瞳孔がわずかに揺らいだ。
「何が怖いのか。誰が憎いのか。何をされたのか。ここで全部吐き出せ。俺は逃げずに聞く」
それは、リュカがこれまで出会ったどんな大人の言葉とも違っていた。
『保護してやる』という甘い嘘でもない。
『危険だ』と否定する拒絶でもない。
ただお前の怒りを聞くという、不器用で真っ直ぐな受け入れの言葉だった。
「俺は、お前を檻には入れない。狩人にも絶対に渡さない」
レオンは真っ直ぐにリュカの獣の瞳を見つめた。
「言葉じゃ信じられないだろう。だから俺はここから一歩も動かない。お前が納得するまで、ここでいくらでも吠えろ。俺が全部聞いてやる」
リュカは鋭い牙を剥き出しにしたまま、座り込んだレオンを睨みつけていた。
人間の言葉は嘘だ。
だから信じてはいけない。
だが目の前にいるこの男は、自分を止めようとするのに武器を持たず、自分と目線を合わせるためにわざわざ土の上に座り込んでいる。
その匂いには、やはり一切の『嘘』がなかった。
昼間にガルドがくれた肉の匂い。
そして今、自分の怒りを聞くと言って座り込むレオンの匂い。
リュカのピンと張り詰めていた銀色の尻尾が、ほんの少しだけ力を失って垂れ下がった。
「……人間は、嘘つきだ」
リュカの口から、威嚇ではない震えるような小さな声が漏れた。
レオンは何も言わず、ただ静かに頷いて彼女の言葉を待っていた。
夕闇が深まる森の中で、銀狼の少女が初めて自分の怒りを吐き出そうとしていた。




