第41話「迫害の記憶」
リュカ・ウォルフが悪夢を見るときは、いつもむせ返るような鉄の匂いと、焼けた毛皮の匂いが混ざり合って始まる。
彼女が幼い頃に暮らしていた故郷の森は、緑が深く、いつも甘い木の実と土の優しい匂いがしていた。
獣人の群れの仲間たちと共に木々の間を駆け回り、獲物を追いかけ、夜は身を寄せ合って眠る。
それは、貧しくとも穏やかで幸せな日々だった。
だがその景色は、唐突に燃え盛る炎と黒い煙によって無惨に塗り潰される。
『あっちへ行け!』
『獣臭い化け物どもめ!お前たちのせいで村の作物が枯れたんだ!』
松明と鍬を持った人間の村人たちが、狂気じみた怒声を上げながら森へ押し寄せてきた。
村で起きた疫病や不作。
彼らはただ、自分たちの不幸を押し付け、鬱憤を晴らすための弱い生け贄を求めていただけだった。
身に覚えのない罪で、無数の石が投げつけられる。
リュカの額に石が命中し、生温かい血が視界を赤く染めた。
群れの大人たちは反撃すれば人間の軍隊が来ることを知っていたため、ただ歯を食いしばり、子供たちを背中に庇って痛みに耐え続けていた。
そこへ白馬に乗った王都の騎士たちと、豪奢なローブを着た研究者らしき人間たちが現れたのだ。
『やめなさい。彼らとて命あるものだ。我々が保護し、安全な場所へ移住させてやろう』
村人たちを制止したその男たちの声はひどく穏やかで、慈愛に満ちているように聞こえた。
『保護』『安全な場所』。
リュカの親も群れの大人たちもその優しい言葉にすがり、安堵の涙を流して彼らの差し出した手を取った。
だが馬車に乗せられ、与えられた水に強い眠り薬が仕込まれていたことに気づいた時には、すべてが手遅れだった。
意識が混濁する中、リュカは見た。
騙されたと気づき抵抗しようとした群れの大人たちが、王都の魔術師たちに取り囲まれていく。
誰かの叫び声。
弾ける魔法の光。
焦げた毛皮の匂い。
その先を見届ける前に、リュカの意識は暗闇へ落ちた。
『なかなか良い検体が揃ったな。王都の研究塔へ運べ。耐久実験には、頑丈な獣人が一番だからな』
目を覚ました時、リュカの首には冷たく重い鉄の首輪がはめられ狭く不潔な檻の中に閉じ込められていた。
周りには、彼女と同じように檻に入れられた獣人の子供たちが何人かいた。
だが大人たちは、誰一人としてその場にはいなかった。
人間の言葉は、すべて弱者を油断させ希望を抱かせてから絶望の底へ突き落とすための残酷な罠だったのだ。
『守る』という言葉は、鉄の檻のこと。
『群れに入れる』という言葉は、命を奪うこと。
檻の中でリュカは、もう二度と人間の言葉を信じないと本能の奥底に刻み込んだのだ。
ガタッ!という物音で、リュカは弾かれたように目を覚ました。
息が荒く、全身の毛が逆立っている。
そこは冷たい鉄の檻の中ではなく、冬の冷たい風が吹き抜ける辺境学院の特別隔離教室だった。
だが、夢の中で嗅いだ鉄の匂いと焼けた毛皮の匂いは、まだ鼻の奥にこびりついていた。
目に映る机も、黒板も、クラスメイトたちの姿も、一瞬だけ檻の鉄格子と研究塔の白い壁に重なって見える。
ここが安全な教室だと頭では分かっている。
ミリアも、ガルドも、ノアも、セレスも、もう自分を檻に入れようとする人間ではない。
それでも、悪夢から引きずり出されたばかりのリュカの本能は、まだ過去の森と研究塔に取り残されていた。
近づく手は、捕まえる手。
かけられる声は、騙すための言葉。
そう刻み込まれた記憶が、理屈よりも先に牙を剥かせてしまう。
日向の当たる床で丸まって寝ていたリュカは、四つん這いの姿勢のまま周囲を鋭く見回した。
「……おい、どうした獣っ娘。嫌な夢でも見たのかよ」
教室の後方からガルド・バルガが机に足を乗せたまま不思議そうに声をかけてきた。
斜め前の席からミリア・フロストレインが心配そうに立ち上がり、リュカの元へ歩み寄ってくる。
「リュカさん、大丈夫ですか?汗、かいてますけど……」
「——グルルルルッ!」
ミリアの手が触れようとした瞬間リュカは壁際へと飛び退き、鋭い牙を剥き出しにして激しく唸り声を上げた。
銀色の尻尾がピンと張り詰め、瞳孔が縦に細く収縮している。
「ひゃっ……」
「おいリュカ!ミリアは心配してやってるだけだろうが!」
ミリアが怯えて立ち止まりガルドが苛立たしげに腰を浮かせる。
だがリュカはガルドに対してもシャーッ!と牙を鳴らして威嚇した。
「近づくな。人間の手、触るな」
リュカの言葉は拒絶そのものだった。
昨日のグラウンドでレオンと肉を賭けて走り、少しだけ空気が和らいだように見えた。
だが彼女の心にこびりついた人間への絶対的な不信感は、ほんの少しジャーキーを貰ったくらいで消え去るほど浅いものではない。
夢で見た鉄の匂いと焼けた毛皮の匂いが、まだ鼻の奥にこびりついて離れないのだ。
「ガルド、座ってろ。ミリア、お前もだ」
教卓から、レオン・グランヴァルトが気だるげな声で指示を出した。
「でも先生、リュカが……」
「寝起きが悪いのを無理に構うな。噛まれるぞ」
レオンは日誌を置き、ゆっくりとした足取りでリュカの数歩手前まで歩み寄った。
リュカは全身の筋肉を引き絞り、レオンが少しでも妙な動きを見せれば即座に喉笛に食らいつく態勢をとる。
だがレオンはそれ以上近づこうとはしなかった。
彼はただ無言のまま、自分の手元にあった水筒をリュカの目の前の床にコトンと置いただけだった。
「喉が渇いてるなら飲め。いらないなら倒してこぼせばいい」
レオンはそれだけ言い残し、背を向けて教卓へと戻っていった。
言葉による説得も無理に距離を詰めることもしない。
リュカは壁際に張り付いたまま、床に置かれた水筒と黒板に文字を書き始めたレオンの背中を交互に見つめた。
近づかない。
触ろうとしない。
リュカは恐る恐る水筒に近づき、鼻を近づけて匂いを嗅いだ。
毒の匂いはない。
睡眠薬の匂いもない。
そして何より、この黒いコートの男から発せられる匂いの中には、自分を檻に入れようとした王都の大人たちのような『嘘と欺瞞の悪臭』が一切混じっていなかった。
リュカは水筒を手に取り、まず一口だけ舐めるように飲んだ。
喉から胃へ冷たい水が落ちていく。
痺れる感覚はない。
眠気もない。
確認を終えてから、リュカは残りの水を飲み干した。
冷たい水が乾いた喉を潤し、夢の熱を少しだけ冷ましてくれる。
リュカは口元を手の甲で乱暴に拭い、教室の隅の席へと戻り膝を抱えるようにして座った。
レオンは淡々と歴史の授業を進めている。
ノアは机の下の骨の鳥を撫でながらノートをとり、セレスは優雅な姿勢で板書を書き写している。
リュカは教室の隅から、その人間たちの営みをじっと観察していた。
人間の言葉は嘘だ。
だから行動と匂いだけを信じる。
ガルドの匂いはいつも焦げ臭くて怒っているけれど、今は少しだけ静かだ。
ミリアの匂いはいつも怯えて震えているけれど、雪のように冷たくて優しい。
セレスの匂いは香水の香りに隠れているけれど、まだ一人ぼっちで怯えている匂いがする。
ノアの匂いは古い土と死んだものの匂いが混じっているけれど、前ほど寂しくない。
そして、レオンの匂い。
嘘がない。
媚びがない。
ただそこに、分厚い壁のように真っ直ぐに立っているだけの匂い。
レオンは黒板に文字を書きながら、視界の端でリュカの頭上で明滅する文字を捉えていた。
『【未来の獣神災厄】破壊都市、二十三。破滅原因:迫害、言葉の断絶、群れの喪失』
破壊都市二十三。
彼女が人間への絶望を極め、すべてを滅ぼす災厄の獣へと変貌した未来の被害規模だ。
彼女は決して知能が低くて言葉が通じないわけではない。
言葉というコミュニケーションツールそのものが、弱者を騙すための残酷な凶器であると過去の経験から学習してしまったのだ。
レオンは、王都から送られてきたリュカの資料を思い出していた。
そこには、彼女が王都研究塔で獣人の身体能力を兵器利用するための試験対象にされていた記録が、事務的な文字で残されていた。
だが制御用の魔道具を装着させると、リュカの意識は深く沈み、理性ではなく本能が前面に出てしまう。
命令を聞かせるどころか、檻を破り、鎮圧する者たちに牙を剥いた。
兵器としても検体としても扱いきれなかった王都は、彼女を「管理訓練が必要な危険児童」としてこの辺境学院へ送りつけたのだ。
だからこそ『安全だ』『仲間だ』といくら言葉で飾っても、彼女の心には一切届かない。
レオンが選んだ教育方針は一つだけだった。
言葉による説得を完全に放棄し、ただ行動だけで示すこと。
無理に近づかない。
距離を保ち、危害を加えない。
だが絶対に、見捨てない。
それが傷つき果てた銀狼の少女の心を解きほぐすための、唯一にして最も根気のいる戦い方だった。
その日の放課後。
他の生徒たちが寮へ戻る中、リュカは一人教室に残り窓枠に座って外の風の匂いを嗅いでいた。
冬の風は冷たいが、森の匂いが混じっていて心地よい。
そこへ旧校舎の廊下から、いつもより重い足音が近づいてきた。
扉が開き、エリス・アークライトが青ざめた顔で入ってくる。
手には、辺境警備隊から届いた報告書が握られていた。
「レオン先生!少しよろしいですか!」
教卓で日誌を整理していたレオンが、面倒くさそうに顔を上げた。
「なんだエリス先生。また王都の連中から嫌がらせの手紙でも届いたか?」
「違います!それよりもっと深刻な事態です。……学院周辺の森で、不審な武装集団が目撃されています」
エリスは息を切らしながら、手にした報告書をレオンの机に置いた。
「不審な集団?ただの盗賊か?」
「ただの盗賊ではないようです。王都貴族の名が裏で囁かれている、獣人狩りの一味かもしれません」
獣人狩り。
その言葉の響きに、窓枠に座っていたリュカの耳がピクリと動いた。
エリスは唇を噛み締め、不安の混じった声で続けた。
「まだ噂の段階です。けれど、もし本当なら……リュカさんが狙われる可能性があります」
リュカは窓枠から音もなく床に降り立った。
全身の毛を極限まで逆立てている。
彼女の瞳孔は針のように細く収縮し、その瞳には純粋な敵意が煮えたぎっていた。
(狩人……保護すると言って、群れを奪った奴ら)
リュカの脳裏に、幼い頃の凄惨な光景が完全に蘇っていた。
群れを奪い、自分に鉄の首輪をはめた王都の人間たち。
人間の言葉は嘘だ。
また人間が、自分を檻に入れようとしている。
「狩人……」
リュカの喉の奥から、低い唸り声が漏れた。
けれど彼女は飛び出さなかった。
ただ窓の外の森をじっと睨み続けていた。
また檻に入れられるくらいなら、すべてをこの爪で引き裂いてやる。
そんな野生の防衛本能が、彼女の小さな体を縛り付けているかのようだった。
レオンは日誌から顔を上げ、静かにその横顔を見つめた。
レオンの視界の端で、赤い文字が一瞬だけ揺らいだ。
狩人たちの悪意が彼女の古傷を容赦なく抉り出そうとしている。
不器用な元勇者は言葉を信じない少女の怒りを正面から受け止める覚悟を決め、静かに窓の外の森を見据えた。




