第40話「銀狼の少女」
辺境学院の旧校舎、特別隔離教室。
王都から差し向けられた工作員の暗躍を退け、血塗れ女帝になるはずだったセレスが自ら『信頼』を選んだことで、この教室にはかつてないほど穏やかな空気が流れ始めていた。
朝のホームルーム前、ガルドは机に向かって苛立たしげにペンを走らせている。
「くそっ、なんで昨日の魔法陣の応用問題、答えが合わねえんだよ!」
「ガルドくん、そこの魔力係数の展開が間違っています。ここは風属性の術式を組み込むから……」
ミリアがおずおずと、しかし真剣な表情でガルドのノートを覗き込んで指摘する。
ガルドは
「あぁ?……あ、本当だ。ちっ、サンキュ」
と悪態をつきながらも素直に計算を直していた。
少し離れた席では、セレスが真新しい白いノートに綺麗な字で何事かを書き連ねている。
その向かいでノアは静かに分厚い本をめくりながら、時折骨の鳥にパン屑を与えていた。
一見すると、どこにでもある普通の学校の風景だ。
王都の大人たちから『危険物』として隔離された問題児たちの教室とは到底思えない。
だがそんな和やかな空気から、たった一人だけ完全に切り離されている存在がいた。
教室の最後方、一番窓の近くの床の上。
銀色の髪から獣の耳を覗かせる獣人少女、リュカ・ウォルフである。
彼女は日向の当たる床で身体を小さく丸め、規則正しい寝息を立てていた。
ガルドの怒鳴り声にも、セレスたちの静かな会話にも、彼女は一切の興味を示さない。
まるで人間の営みそのものを自分とは無関係な別の生き物の生態だと言わんばかりに、完全に外界をシャットアウトしているのだ。
ガラッと扉が開き、気だるげな足取りでレオン・グランヴァルトが入ってきた。
「よし、席につけ。朝のホームルームを始めるぞ。……って、また寝てるのか」
レオンは教卓に日誌を放り投げ、床で丸まっているリュカを見下ろして呆れたように息を吐いた。
「おいリュカ、起きろ。床で寝てると風邪を引くぞ」
レオンが歩み寄った瞬間、リュカの鼻がピクッと動いた。
教室の床板の隅に、昨夜の王都工作員の匂いが、まだ微かに残っている。
甘い薬品。古い革。鉄の鎖。
この教室に潜んでいた嘘つきの匂い。
そこへ、自分を起こそうと近づいてくる人間の足音が重なった。
匂いと足音。
それは幼い頃、優しい言葉で群れに近づいてきた人間たちの記憶を、一気に呼び覚ました。
「——グルルルルルッ!!」
リュカは閉じていた目をカッと見開き、弾かれたように後方へ飛び退いた。
そして壁を背にして低い姿勢を取り、レオンに向かって鋭い牙を剥き出しにして激しく唸り声を上げた。
その瞳には寝起きの不機嫌さなどではない、明確な敵意と深い警戒の色が宿っていた。
銀色の尻尾が毛を逆立ててピンと張り詰め、全身の筋肉がいつでも飛びかかれるように極限まで引き絞られている。
教室の空気が一瞬にして凍りついた。
「リュカさん……?」
ミリアが驚いて声をかけるが、リュカはピクリとも反応しない。
「おいおい、寝起きが悪すぎるだろ。落ち着けよ、獣っ娘」
ガルドが席から立ち上がり、たしなめるように言う。
だがリュカはガルドに対しても、シャーッ!と牙を鳴らして威嚇した。
「人間、近づくな。人間の言葉、信じない。お前ら、群れじゃない」
リュカの口から低く絞り出された言葉は、明確な拒絶だった。
共に王都の捕縛部隊と戦い、同じ教室で給食の時間を過ごしてきたはずだ。
それでも彼女の根底にある人間への不信感は、ほんの少しの日常で拭い去れるような浅いものではなかったのだ。
「リュカさん。私たちはあなたを傷つけたりしませんわ。あなたもこのクラスの一員ですのよ」
セレスが静かに立ち上がり、宥めるように言葉をかけた。
だがリュカは、「クラスの一員」という言葉に激しく牙を剥いた。
「言うな、その言葉。前の人間も、同じこと言った。群れに入れてやる、守ってやるって言って……最後は檻だった」
リュカの悲痛な叫び声が、教室に響き渡った。
彼女の脳裏に、凄惨な過去の記憶がフラッシュバックしているのがレオンには分かった。
王国では、獣人の血を引く者は不吉な存在として長年差別されてきた。
獣臭いと罵られ、石を投げられ、時には理不尽な暴力に晒される。
彼女の故郷の群れは、人間の甘い言葉を信じたことで奪われた。
「守る」「保護する」と言った大人たちの手が、最後には檻と鎖に変わった。
その記憶だけが、リュカの中に深く刻み込まれている。
リュカにとって人間の言葉とは、自分を騙し、傷つけ、群れを奪うための道具でしかなかったのだ。
その言葉に、ノアが小さく目を伏せた。
失われた群れという響きは、彼が抱えてきた喪失の痛みと、どこか似ていた。
「……だから、人間の言葉、嫌い。人間、嘘つき」
リュカは壁に背中を押し付けたまま、誰一人寄せ付けまいと必死に威嚇を続けている。
ガルドもミリアも、その痛切な過去の断片を突きつけられ、どう言葉をかけていいのか分からずに立ち尽くしてしまった。
セレスもまた、扇子を握る手を固くして唇を噛む。
レオンは静かにリュカの様子を観察していた。
彼の視界の縁が赤く滲み、リュカの頭上に禍々しい赤い文字が明滅して浮かび上がっている。
『【未来の獣神災厄】破壊都市、二十三。破滅原因:迫害、言葉の断絶、群れの喪失』
人間への不信が頂点に達し、すべてを滅ぼす災厄の獣へと変貌する未来。
彼女は言葉を理解できないわけではない。
信じて裏切られ大好きな群れを奪われたからこそ、もう二度と人間の言葉を信じたくないのだ。
言葉でいくら「安全だ」と説いても、彼女の心には届かない。
レオンは小さく息を吐くと、教卓に戻って手元の歴史の教科書をパタンと閉じた。
「今日の座学は中止だ。全員、グラウンドに出ろ」
レオンの突然の指示に、生徒たちが目を丸くする。
「はあ?先生、グラウンドって……今から体育かよ?」
「そうだ。リュカ、お前も来い」
レオンはリュカに背を向け、教室の扉へと歩き出した。
「嫌だ。人間と一緒、行かない」
リュカがその場で座り込み、頑なに拒絶する。
だがレオンは振り返ることなく、歩きながらぽつりと言った。
「今日の給食に出る特大の骨付き肉……俺の分を賭けて、グラウンドで勝負するって言ってもか?」
ピクッ。
リュカの獣の耳が、その言葉に強烈に反応した。
「……肉?」
「ああ。一番速く走れた奴に、俺の分の特大肉を譲ってやる。いらないなら、ガルドにでも食わせるがな」
「俺は肉ならいつでも大歓迎だぜ!」
ガルドが空気を読んでニヤリと笑う。
リュカの喉がゴクリと鳴った。
人間は嫌いだ。
人間の言葉は信じない。
肉という言葉に反応したのは事実だ。
だがそれだけではない。
この人間が約束を守るのか、餌で釣って檻に入れる大人たちと同じなのか。
試す価値はあると、リュカの鼻が告げていた。
「……行く。リュカが肉、もらう」
リュカは床から飛び起きると、レオンたちを追い越してものすごい速度でグラウンドへと駆け出していった。
その単純すぎる反応に、セレスが思わずため息をつく。
「……本当に、野生動物と変わりませんわね」
「言葉でダメなら、本能で釣るしかないからな。さあ、お前らも行くぞ」
レオンは気だるげに笑い、生徒たちを連れてグラウンドへと向かった。
冷たい冬の風が吹き抜ける、荒れ果てた辺境学院のグラウンド。
レオンはポケットに手を入れたまま、やる気満々で尻尾を振っているリュカの前に立った。
「ルールは簡単だ。俺がこのグラウンドの端から端まで走る。お前が俺に追いついて、俺の背中にタッチできたらお前の勝ちだ。特大肉をやる」
レオンの言葉に、リュカは目を輝かせた。
彼女の身体能力は、獣人の中でも群を抜いている。
ただの人間であるレオンに追いつくなど、造作もないと思っていたのだ。
「簡単。人間、足遅い。リュカ、一番速い」
「そうか。じゃあ、始めるぞ」
レオンが言葉を言い終えるか終わらないかのうちに、リュカは地面を蹴って弾丸のように飛び出した。
土煙が上がり、銀色の残像だけがグラウンドを駆け抜ける。
ガルドが「はっええ!?」と驚きの声を上げるほどの、常識外れの機動力だ。
だがレオンは元勇者である。
魔王軍の最速の刺客たちと死闘を繰り広げてきた彼にとって、リュカの直線的な動きは決して捉えられないものではなかった。
レオンは気だるげな姿勢のままスッと横に半歩ずれ、リュカの突進をひらりと躱した。
「なっ……!?」
空を切ったリュカが、急ブレーキをかけて振り返る。
「直線的すぎるな。獲物を狩るなら、もっと相手の重心を見ろ」
「グルルルルッ!」
リュカは負けじと四つ足になり、ジグザグに軌道を変えながら再びレオンへと殺到した。
だがレオンはそのすべてを最小限の動きで躱し続ける。
右へ、左へ、上へ。
リュカは銀狼の本能をむき出しにしてレオンを追い詰めるが、あと一歩のところでいつも背中に手が届かない。
「おいおい獣っ娘!特大肉が逃げちまうぞ!」
「ガルド君、野次を飛ばさないの!リュカさん、右に隙がありますわ!」
見学しているガルドやセレスたちが、いつの間にかグラウンドの端で応援を始めていた。
ミリアも「が、がんばって……!」と小さな声で声援を送っている。
ノアは黙ってその光景を骨の鳥と一緒に見つめていた。
「ハァッ……ハァッ……!」
十分ほど駆け回った後、リュカはついに息を切らしてその場に座り込んでしまった。
獣人としての無尽蔵のスタミナをもってしても、レオンの無駄のない動きに翻弄され、体力を使い果たしてしまったのだ。
「……リュカ、負けた。肉、もらえない……」
リュカは耳をぺたんと伏せ、悔しそうに地面を見つめた。
人間の大人に負けた。
また嘲笑われ、見下されるのだと、彼女は本能的に身体を縮こまらせた。
レオンは息一つ切らさずに歩み寄ると、リュカの目線に合わせて少しだけ膝を折った。
だが手は伸ばさない。
触れられることを嫌がる相手に、勝手に触れるつもりはなかった。
「いい走りだ。素早さだけなら、魔王軍の幹部クラスとタメを張れるぞ」
レオンの言葉は、嘘偽りのない純粋な称賛だった。
リュカはハッとして顔を上げる。
「最後の方、俺の動きの癖を読んで先回りしようとしたな。ただの野生の勘じゃない、戦士としての立派な戦術だ」
頭ごなしに否定されず、自分の力を正当に評価された。
リュカの伏せていた耳がピクッと立ち上がり、背中の後ろで銀色の尻尾がパタパタと無意識に揺れ始めた。
「……ほんと?」
「ああ。合格だ」
レオンは懐から、紙に包んだ香ばしい肉のジャーキーを取り出し、リュカの鼻先に差し出した。
「給食の特大肉はお預けだ。これは訓練後の補給だ。よく走った分、食え」
リュカは目を輝かせ、パクリとジャーキーに食いついた。
美味しい肉の味が、疲れた体に染み渡っていく。
彼女は嬉しそうに尻尾を激しく左右に振りながら、夢中でジャーキーを咀嚼した。
「ふふっ。あれだけ人間は嫌いだと言っておきながら、すっかり手懐けられていますわね」
セレスが扇子で口元を隠しながら、微笑ましそうに呟く。
その言葉が聞こえたのか、リュカはハッとして食べるのを止め、誤魔化すようにジャーキーを抱え込んだ。
「ち、違う!人間、まだ信じない!リュカ、懐いてない!」
リュカは慌てて自分の尻尾を押さえつけた。
そのコミカルな姿に、ミリアがたまらずにふふっと笑い声を上げる。
教室ではあんなに張り詰めていた空気が、嘘のように和らいでいた。
レオンは気だるげに首の後ろを掻きながら、その光景を静かに見つめていた。
リュカの頭上で明滅する『未来の獣神災厄』の赤い文字。
破壊都市:二十三。
彼女が本気で人間に牙を剥けば、どれほどの悲劇が起こるか。
だからこそ、彼女の心を言葉という不確かなもので縛ることはできない。
(人間は嘘をつく。なら、嘘をつかない行動で示すまでだ)
レオンは心の中で静かに決意を固めた。
無理に心の距離を詰めようとはしない。
彼女が人間を信じられなくても、それでいい。
近づかない。
だが絶対に見捨てない。
それが、この傷ついた銀狼の少女に対する、不器用な元勇者の教育方針だった。
「よし、体育は終わりだ!教室に戻って手を洗え。給食の時間が減るぞ」
レオンの号令に、生徒たちが文句を言いながらもぞろぞろと旧校舎へ向かって歩き出す。
リュカはジャーキーを齧りながら、前を歩くレオンの広い背中をじっと見つめていた。
レオンの匂いには、王都の大人たちが放っていたような嘘の悪臭は混じっていなかった。
だからといって、信じるわけではない。
人間は、最初だけ優しい匂いをさせることがある。
リュカはまた一口、肉を齧った。
判断するのは、もう少し嗅ぎ分けてからでいい。
彼女の銀色の尻尾が、ご機嫌なリズムを刻んで揺れていた。




