第39話「紅蓮の宰相」
辺境学院の旧校舎、特別隔離教室。
王都の工作員を魔法の縄で拘束し、教室の床に転がしたレオン・グランヴァルトは、窓の外から正門の方角を眺めていた。
もうもうと上がっていた土煙が、次第に遠ざかっていくのが見える。
「……どうやら、王都の捕縛部隊は引き返していったようだな」
レオンが気だるげに言うと、教室の扉が勢いよく開かれ、息を切らしたガルドとミリアが駆け込んできた。
「おい!正門まで来てた王都の連中、急に隊列を崩して逃げるように引き返していったぞ!てっきり一戦交えるかと思って身構えてたのに、拍子抜けだ!」
ガルドが不満そうに髪を掻きむしりながら言う。
ミリアはほっとしたように胸を撫で下ろしていた。
「よかったです……誰も傷つかなくて」
セレス・ヴァーミリオンは優雅に扇子を広げ、床に転がっている工作員を見下ろした。
「当然ですわ。彼らの目的はあくまで証拠を残さずに私たちを反逆者に仕立て上げること。本命である暗殺と偽装工作が失敗し、工作員が捕らえられたとなれば、これ以上動くのは王都にとってリスクが高すぎます。尻尾を巻いて逃げるしかありませんわね」
「なるほどな。こいつはエリス先生に引き渡して、王都の教育局へたっぷりと抗議状を送りつけてもらおう。偽装工作の証拠付きでな」
レオンが工作員の襟首を掴んで持ち上げると、ノアが床の骨の手の拘束を解いた。
リュカは工作員の匂いを嗅いで「嘘つきの匂い、くさい」と鼻をつまんでいる。
教室に、安堵の空気が流れた。
王都の理不尽な罠を、誰の犠牲もなく完璧な連携で打ち破ったのだ。
ガルドがセレスの方を見て、ニヤリと笑った。
「ま、てめえの指示も悪くなかったぜ。今回だけは認めてやるよ、元代表」
「ええ。ガルド君もミリアさんも、見事な防衛でしたわ。ノア君とリュカさんの迅速な帰還も完璧なタイミングでした。皆様、本当にありがとうございました」
セレスが深く、心からのカーテシーで礼をすると、クラスメイトたちは少しだけ照れくさそうに笑い合った。
レオンはその様子を教卓から見つめ、静かに息を吐いた。
恐怖や利害で縛り付けなくても、彼らは自分の意志で互いを支え合い、困難を乗り越えた。
だがセレスの頭上で明滅する『未来の血塗れ女帝』の文字は、いまだに禍々しい赤色を保ち、かすかなひびが入っている状態のままだ。
彼女の心の中に、まだ過去の呪縛が残っているからだ。
セレスは自分の席に戻ると、鞄の中から一冊のノートを取り出した。
赤い表紙のノート。
クラスメイトたちの行動パターンや弱点をびっしりと書き込み、彼らを駒として支配するための『弱点リスト』だ。
アンナに裏切られてから、彼女が自分の身を守るために作り上げた冷酷な盾。
セレスはそのノートをじっと見つめ、やがて顔を上げた。
「ガルド君」
「あぁ?なんだよ」
「あなたのその黒炎で……これを、燃やしていただけますか?」
セレスは赤いノートを、ガルドの目の前にスッと差し出した。
ガルドは目を丸くし、ノートとセレスの顔を交互に見比べた。
自分を駒として扱った記録。
昨日、教室の黒板に貼り出され、ガルドの怒りを爆発させた呪いの源。
それを今、当のセレスが、自分の黒炎で燃やしてほしいと頼んでいる。
「おい、これてめえの宝物じゃなかったのかよ。クラスの奴らの弱点が書いてある、てめえの権力の源なんだろ?」
ノアやミリア、リュカも驚いたようにセレスを見つめている。
セレスは一切の迷いなく、清々しい笑みを浮かべた。
「ええ。ですがもう必要ありませんわ。……私はもう、このノートで他人を縛り付けなくても、一人ではありませんから」
その言葉には、かつての裏切りに怯える令嬢の姿は微塵もなかった。
弱点を握り、恐怖で縛り付けることでしか自分を守れないという孤独な呪縛から、彼女はついに自らの意志で抜け出したのだ。
ガルドはフッと鼻で笑い、右手に黒炎を灯した。
「後悔すんなよ」
「ええ。一切の灰も残さず、綺麗に燃やしてください」
ガルドがノートを受け取ると、レオンは教室の隅に置かれていた不燃性の金属盆を机の上に置いた。
「燃やすなら、この中でやれ。教室まで燃やすなよ」
「分かってるっつの」
ガルドは不満そうに鼻を鳴らしながらも、赤いノートを金属盆の中に置いた。
そして、指先に小さく黒炎を灯す。
かつてなら何もかも巻き込んで燃やしていた炎は、今は盆の内側だけで静かに燃え上がった。
ボワッ、という低い音と共に、赤いノートは一瞬にして黒い炎に包まれる。
炎はただノートだけを焼き尽くしていった。
やがて赤い表紙も、びっしりと書き込まれた文字も、セレスが誰も信じられなかった時間の証も、灰すら残さず完全に消えた。
セレスを縛り付けていた過去の恐怖が、黒炎によって静かに断ち切られた瞬間だった。
「……ふう。これで、私の手札はすっからかんですわね」
セレスは空になった両手を見つめ、どこか清々しい声で呟いた。
「だがお前は、書くのをやめるつもりはないんだろう?」
レオンが気だるげに問うと、セレスはふふっと笑い、鞄の中から真新しい真っ白な表紙のノートを取り出した。
「もちろんですわ。私はヴァーミリオン家の娘。盤面を俯瞰し、他者を観察する目は私の最大の武器ですもの」
セレスは真新しいノートの1ページ目を開き、羽根ペンを滑らせた。
そこにはもう、「弱点」や「誘導方法」といった言葉は書かれていなかった。
『ガルド・バルガ:圧倒的な火力と前線の突破力。細かな計算は苦手なため、後方からの情報支援と火加減の注意が必要』
『ミリア・フロストレイン:強固な防衛力と仲間を守る意志。彼女が前線に立てば、誰一人として置き去りにされない。背後の安全を任せられる、最も信頼できる盾』
『ノア・レイス:冷静な分析力と遊撃。周囲に無関心になりがちなので、定期的に会話に巻き込むこと』
『リュカ・ウォルフ:獣人特有の機動力と、誰よりも鋭い直感。彼女が「変な匂い」を察知した時は、必ず耳を傾けること。空腹時に備え、軽食も用意しておくこと』
それは彼らの長所とそれを活かすための『役割』、そして互いに支え合うための『配慮』が書かれたノートだった。
弱点を突いて支配するためではなく、長所を繋ぎ合わせて仲間を活かすための采配の記録。
セレスはペンを置き、満足げに微笑んだ。
「これが、私の新しい盤面ですわ」
その瞬間だった。
セレスの頭上の禍々しい赤い文字に走っていた金色の光が、内側から鮮烈に輝き始めた。
『未来の血塗れ女帝』の文字を支えていた最後の枷が、パリンッと甲高い音を立てて砕け散る。
十万人を粛清し血の海に沈む孤独な女帝の未来が、光の粒子となって消え去っていく。
そしてその奥から、燃え盛る炎のような美しく力強い紅色の文字が静かに浮かび上がった。
『【紅蓮の宰相】』
死者数も、破滅原因も、そこにはもう何も書かれていない。
未来が変わった。
裏切りを恐れ、誰も信じずに孤独な頂点に立とうとしていた少女は今、仲間の弱さを繋ぎ合わせ、共に国を支える宰相への道を歩み始めたのだ。
氷壁の守護者、黒炎の番長、魂送りの賢者。
そして、紅蓮の宰相。
レオンは満足そうに目を細め、静かに息を吐いた。
災厄候補と呼ばれた子供たちが、四人。
それぞれの傷を抱えながらも、自分の足で別の未来を選び取った。
この教室の未来は、また一つ、災厄から遠ざかった。
その後、工作員の身柄は学院職員たちによって厳重に運び出された。
エリスは学院長代理として、偽装工作の証拠とともに王都教育局へ正式な抗議状を送ると約束した。
そして、昼休みの鐘が鳴る。
ガラガラッと音を立てて教室の扉が開き、今度はエリスが給食のワゴンを押して入ってきた。
「皆さん、お疲れ様です!難しい話は後で私が引き受けます。さあ、とりあえず今は給食にしましょう!」
エリスの明るい声に、教室の空気が一気に和む。
「おおっ!今日のメニューはなんだ!」
ガルドが身を乗り出し、リュカが「お肉!お肉の匂い!」と尻尾を振る。
今日の給食は、分厚く切られたローストポークと、温かい野菜スープ、そして柔らかい白パンだった。
レオンが配膳を手伝いながら、セレスに振り返って問う。
「おいセレス。今日は誰をどこに座らせるんだ?また派閥を作るのか?」
以前彼女がクラス内選挙の演習と称して、プリンを餌に自分の周囲の席順を強制的に決めた時のことをからかったのだ。
セレスはワゴンから自分の分のスープとローストポークを受け取ると、優雅に扇子を広げて微笑んだ。
「ふふっ、今日は指定しませんわ。皆様、お好きな席にお座りなさいませ」
「いいのか?お前の完璧な盤面が崩れるぞ」
「構いませんわ。どこに座ろうと、私たちはもう盤面の上で争う必要はありませんから。それに……どこに座っても、私が皆様を完璧にサポートして差し上げますわ」
セレスの言葉に、ガルドが鼻で笑う。
「へっ、言うじゃねえか。まあ、俺はどこに座っても一番強いけどな」
「私は、ガルドくんの隣がいいです」
ミリアが黒い手袋を外しながら、自然な動作でガルドの隣の席に座る。
ノアは本を閉じ、「僕は端の方が落ち着く」と少し離れた席に座り、リュカはそのノアの隣に「肉食べる!」と陣取った。
セレスは少しだけ離れた席から、その和やかな光景を静かに見つめていた。
以前自分が強制的に作った派閥の構図とは、まるで違う。
誰も指示されていないのに、自然と心地よい配置が出来上がっていた。
誰も私を恐れていない。
誰も私を裏切ろうとしていない。
ただ同じ教室で、一緒に温かいご飯を食べるクラスメイトとしてそこにいる。
「……いただきますわ」
セレスはナイフとフォークを手に取り、ローストポークを一口大に切り分けて優雅に口に運んだ。
肉の旨味が口いっぱいに広がり、温かいスープが冷えていた体を内側から温めていく。
一人で食べる豪華な王都の食事よりも、この騒がしくて少し不恰好な給食の方が今の彼女には何倍も美味しく感じられた。
レオンは自分の机でパンをかじりながら、セレスの穏やかな横顔を見つめていた。
セレスがふと視線に気づき、レオンの方を向く。
彼女は扇子を机に置き、真っ直ぐにレオンの目を見つめて、誰にも聞こえないような小さな声で呟いた。
「先生……。私を見捨てないでくださって、ありがとうございました」
それは高慢な令嬢の言葉ではなく、一人の等身大の少女としての心からの感謝の言葉だった。
レオンは少しだけ目を丸くし、それから気だるげに首の後ろを掻きながら笑った。
「気にするな。お前が自分で勝ち取った信頼だ」
冬の冷たい風が窓の外を吹き抜けていくが、特別隔離教室の中には確かな温もりが満ちていた。
孤独な女帝は、もういない。
第4章「血塗れ女帝編」はここで一区切りです。
セレスが支配ではなく、仲間と並ぶ道を選ぶところまで辿り着きました。
この章を楽しんでいただけましたら、ブックマーク・評価で応援していただけると励みになります。
次章は、リュカの物語です。




