第38話「血塗れ女帝にはならない」
辺境学院の旧校舎、特別隔離教室。
王都から差し向けられた捕縛部隊を正門で食い止めている間、教室には骨の鳥が発するカタカタという微かな音だけが響いていた。
教卓の前に立つセレス・ヴァーミリオンは、クラスメイトたちの配置図が描かれた黒板を見つめながら、己の優秀な頭脳をフル回転させて全体の盤面を俯瞰していた。
正門では、ガルドの黒炎とミリアの氷壁が鉄壁の防衛線を構築し、捕縛部隊の足止めに入っている。
問題は、工作員の痕跡を調べるために学院周辺の森へ向かったノアとリュカだ。
『セレス。森に工作員の匂い、見つけた。追う』
先ほど、骨の鳥を通じてリュカから報告が入った。
セレスは「追跡は続行。ただし深追いは禁物ですわ」と指示を出したが、彼女の心の中には拭い去れない小さな違和感が渦巻いていた。
(おかしいですわね)
セレスは、先ほど骨の鳥が届けたリュカの伝言を思い返した。
王都の特務機関に属するプロの工作員が、野生の獣人であるリュカでも容易に追えるほど、露骨な匂いの痕跡を残すだろうか。
侵入の痕跡を消し、追跡者を欺く訓練を受けた者のはずだ。
それなのに、学院から森へ向かって、はっきりと追える匂いが残されている。
(残ったのではありませんわ)
セレスの赤い瞳が鋭く細められた。
(意図的に残したのです)
リュカの嗅覚なら確実に気づく、露骨な匂い。
それを追わせれば、索敵能力を持つリュカと、残留魔力を分析できるノアを、二人まとめて学院から遠ざけられる。
「……囮ですわ」
セレスの背筋を、冷たいものが走った。
工作員の本当の目的は、森へ逃げ切ることではない。
学院の防衛力を分断し、その隙に別の工作を行うこと。
そして最も狙われる可能性が高いのは、作戦全体を指揮している自分だった。
その時、開け放たれた窓から、一羽の骨の鳥が勢いよく飛び込んできた。
骨の鳥はセレスの机に着地し、嘴を鳴らした。
『匂い、まだ続いてる。人影はない。もっと森の奥』
リュカからの新たな伝言だった。
それを聞いた瞬間、セレスは自分の推測が正しいと確信した。
匂いだけが延々と森の奥へ続き、当人の姿はない。
工作員は初めから、自分を追わせるつもりなどなかったのだ。
「そのまま追跡を続けてくださいませ」
セレスは、あえて普段と変わらない落ち着いた声で命じた。
近くで自分たちを監視している者がいる可能性を考えれば、露骨に帰還を命じるわけにはいかない。
セレスは机の引き出しを開け、裁縫用に保管してあった短い赤い糸を取り出した。
そして骨の鳥の片脚へ、素早く結びつける。
赤い糸。
それはノアを森へ送り出す直前、セレスが彼にだけ伝えておいた緊急時の合図だった。
『骨の鳥の脚に赤い糸が結ばれていた場合は、口頭の命令よりもそちらを優先してくださいませ。追跡を中止し、相手に悟られないよう密かに学院へ戻ること』
万が一、伝言そのものを敵に聞かれていた場合に備えた、二人だけの取り決めだった。
「ただし無理は禁物ですわ。周囲の警戒を怠らないように」
骨の鳥はセレスの返答を預かり、片脚に赤い糸を結んだまま、窓から再び森へ飛び立っていった。
(森の匂いは囮。本命は……全体の指揮を執る私を暗殺するか、あるいは懐柔しに来るはずですわね)
セレスは確信に至り、教室の後方で壁に寄りかかっていたレオンを振り返った。
「レオン先生。万が一に備えて、先生は教室の外で待機していただけますか?」
レオンは気だるげな視線をセレスに向け、小さく眉を上げた。
「俺を外に出して、お前一人で大丈夫か?」
「ええ。私を誰だと思っていますの?裏切られても崩れない完璧な盤面は、すでに整っておりますわ」
セレスが自信に満ちた笑みを浮かべてみせると、レオンはニヤリと笑った。
「なら、ここからはお前の時間だ。任せたぞ、指揮官」
レオンは日誌を教卓に置き、ゆっくりとした足取りで教室を出て行った。
扉が閉まり、教室には完全にセレス一人だけが残された。
静寂が降りる。
セレスは扇子を広げ、窓から差し込む冬の光を背にして、静かにその『時』を待った。
しばらくして。
教室の隅の空間が、陽炎のようにゆらりと歪んだ。
光学迷彩の魔導具を解除し、王都の意匠が施された上質な外套を着た男が、音もなく姿を現したのだ。
昨日、この教室の結界をこじ開け、セレスの赤いノートを黒板にばらまいた王都の工作員だった。
男は捕縛部隊が正門へ姿を現すよりも前に、昨日の侵入で把握した結界の弱点を再び突き、教室へ忍び込んでいた。
光学迷彩をまとったまま、セレスが一人になる機会を窺っていたのだ。
プロの工作員は人数を増やせば気配を増す。
元勇者の警戒網をかいくぐるには、単独行動こそが最も確実な手段だったのだ。
「さすがは名門ヴァーミリオン家のご令嬢。あの粗暴な落ちこぼれ共を見事に手懐けた采配、遠目から拝見して感服いたしました」
男は恭しく深く頭を下げた。セレスは一歩も引かず、涼しい顔で男を見据える。
「私の教室に勝手に忍び込んでおきながら、挨拶が遅いですわね。……王都の工作員殿」
「これは失礼を。ですが私はあなたを救済しに参りました」
男は甘く、滑らかな声で言葉を紡ぐ。
「こんな辺境の掃き溜めで、危険な災厄候補たちと共に反逆罪で処刑されるには、あなたの頭脳はあまりにも惜しい。王都はあなたの能力を高く評価しております」
「救済、ですの?」
「ええ。あなたのあのノートに記された通り、彼らが手に負えない危険な化け物であると証言してください。我々に協力すれば、あなただけは特別に王都へお迎えしましょう」
男は一歩前へ歩み寄り、魅惑的な提案を口にする。
「あのノートをばらまいたのは、あなたを王都側へ呼び戻すためです。あなたが彼らの信頼を失えば、最後には必ず我々の手を取る。そう判断しておりました」
男はさらに一歩、距離を詰めた。
「王都の安全な中枢で、確固たる地位と権力をお約束します。あんな裏切るかもしれない底辺の連中を信じて共に戦う必要などありません。王都の頂点に立てば、誰もあなたを脅かすことはできない。あなたはもう、裏切りに怯えなくて済むのですよ」
その言葉は、セレスの心の最も脆い部分を的確に突き刺した。
裏切りに怯えなくて済む。
安全な頂点。
それはセレスが心から信頼していたメイドのアンナに毒を盛られたあの日から、ずっとずっと求め続けてきたものだった。
誰も信じず、人を管理し、孤独な頂点に立つ。それこそが自分が傷つかないための完璧な生存戦略だと信じてきた。
王都の庇護下に戻れば、自分を恐れ見捨てた実家の人間も見返すことができる。今ここで頷けば、私は確実に助かる。
(裏切りに怯えなくて済む。安全な頂点……)
セレスの扇子を握る手が、ほんの一瞬だけ震えた。
だがその震えは、彼女自身が選んだ盤面を裏切ろうとする自分への、強い反発の震えでもあった。
彼女の脳裏に鮮明に浮かび上がったのは、王都の華やかな生活の記憶ではなかった。
『てめえがそこまで言うなら、一回だけ乗ってやるよ。だが俺はてめえの駒になったわけじゃねえからな』
文句を言いながらも、自分の意志で学院を守るために最前線へ立ってくれたガルドの不器用な顔。
『私も……まだ、全部信じられるわけではありません。でも、今のセレスさんが私たちを守ろうとしてくれていることは……分かります』
涙の跡を残しながらも、自分の采配をもう一度だけ信じてくれたミリアの決意。
『今のセレスの声には、計算じゃない響きがあった。だから、行くよ』
誰よりも静かに本質を見抜き、偽装の痕跡を調べるために立ち上がってくれたノアの言葉。
『セレスの匂い、まだ冷たい。でも、少し違う。リュカ、王都の嘘つきの匂い、見つける』
本能で自分の迷いを嗅ぎ分けながら、それでも王都の嘘を暴くために動いてくれたリュカ。
そして。
『お前が壊した信頼だ。お前が直せ』
自分の失敗を突き放しながらも、最後まで見捨てず、今のこの盤面を信じて背中を預けてくれたレオン。
彼らは不器用で、欠点だらけで、傷だらけだ。
昨日、自分がノートをばらまかれたことで傷つけた彼らは、自分の過去の過ちをまだ完全には許してくれていないはずだ。
それでも彼らは今、自分の立てた作戦を信じて、それぞれの持ち場で命を懸けて戦っているのだ。
もしここで自分が王都の誘いに乗れば、自分はあの日のアンナよりも酷い裏切り者になる。
あの子は弟を人質に取られていた。私は、ただ恐怖から逃げたいだけだ。
自分の恐怖まで利用して近づいてきた王都の連中に尻尾を振り、自分が一番恐れていた『裏切り者』に、自分自身がなってしまう。
人を駒として切り捨て、自分だけが助かる。その先にあるのは、エリスが言っていた『最後には自分が一番孤独になる』という凍りつくような結末だけだ。
(……ええ。私はもう、迷いませんわ)
「……ふふっ。随分と魅力的なお誘いですが」
セレスは震えの止まった手で、扇子をパチンと閉じた。
「お断りしますわ」
「……何故です。あんな裏切り者の野蛮人共と心中するおつもりですか?」
「裏切り者?ええ、人間は裏切る生き物ですわ。ですがだからこそ私は、彼らを鎖で縛るのではなく、彼らの長所で補い合う仕組みを作ったのです」
セレスの赤い瞳が、一切の揺らぎなく真っ直ぐに工作員を射抜く。
「私は、誰も信じず人を駒として切り捨てる孤独な『女帝』にはなりませんわ。私は……皆の弱さを繋ぎ合わせ、仲間を支える者になりますのよ」
凜とした、誇り高き少女の宣言。
その言葉を聞き、工作員は優雅な笑みを消し去り、冷酷な顔で舌打ちをした。
「愚かな。ならばここで消えていただきましょう!」
工作員が外套の裏から短剣を抜き放ち、セレスに向かって殺意を剥き出しにして躍りかかってきた。
プロの暗殺者の動きだ。並の令嬢であれば悲鳴を上げて逃げ惑うだろう。
だがセレスは一歩も引かず、涼しい顔で立っていた。
その直後だった。
ガシャァァァンッ!!
セレスの背後にある教室の窓ガラスが、凄まじい音を立てて砕け散った。
吹き込む冬の風と共に飛び込んできたのは、銀色の獣人少女リュカと、青白い魔力を纏ったノアだった。
「セレスに近づくな!」
リュカの獣の速度が工作員の動きを凌駕する。
彼女の鋭い爪が閃き、工作員の持つ短剣を火花と共に弾き飛ばした。
工作員が体勢を崩した瞬間、ノアが床に向かって魔力を放つ。
「死者の手、拘束」
床板を突き破って無数の白い骨の手が這い出し、工作員の足首と腕を強力な力で縫い留めた。
「なっ……!?貴様ら、なぜここにいる!森にいたはずだ!」
地面に押さえつけられ、驚愕の声を上げる工作員。
彼を見下ろし、セレスは扇子を広げて優雅に微笑んだ。
「『追跡を続けてください』という言葉は、あなたを欺くための表向きの命令ですわ」
セレスは拘束された工作員を見下ろし、扇子を静かに閉じた。
「ですが、あの骨の鳥の脚には赤い糸を結んでおきました。あれはノア君にだけ通じる、追跡中止と帰還の合図です」
工作員の顔から笑みが消えた。
「あなたが森に残した匂いは、あまりにも露骨でした。リュカさんに追わせ、ノア君ごと学院から引き離すための囮だったのでしょう?」
「いつから……気づいていた」
「最初からではありませんわ」
セレスは正直に答えた。
「リュカさんから二度目の報告を受けた時です。人影は見つからないのに、匂いだけが都合よく森の奥へ続いている。そこでようやく、あなたの意図に気づきました」
工作員が悔しそうに歯を食いしばる。
「残念でしたわね。あなたの罠に気づいた時点で、こちらも罠をかけ直しましたの」
工作員が最後の足掻きで懐から煙玉を取り出そうとした瞬間。
「外へ出たと言っても、廊下に出ただけだがな。気配は完全に消していた」
ガラッと扉が開き、レオンが気だるげな足取りで入ってきた。
レオンが放つ元勇者としての圧倒的な殺気と威圧感に、工作員は完全に戦意を喪失し、ガクンと首を垂れてその場に崩れ落ちた。
「いい腕前だ、セレス。最初からこいつを誘い込むために、俺を外に出したな」
レオンが工作員の体を魔法の縄で縛り上げながら言うと、セレスは誇らしげに胸を張った。
「ええ。先生がいては、工作員が警戒して姿を現しませんから。それに先生が残っていては、私が彼らの『協力』を得てこの盤面を乗り切ったことになりませんわ」
ノアが工作員の外套を調べると、内ポケットから複数の魔導具が見つかった。
一つは、黒炎や氷、死霊術の残留魔力を人工的に付着させる偽装触媒。
さらに工作員の荷物からは、獣の爪痕を模造するための金属製の鉤爪も見つかった。
そして暗号化された命令書らしき紙片も折り畳まれている。
「これ……僕たちの魔力を真似する道具」
ノアが偽装触媒を見つめ、静かに言った。
セレスは暗号文と通信石を受け取った。
「十分ですわ。これだけ揃えば、学院側が王都の工作をでっち上げたとは言わせません」
セレスはリュカとノアに向き直り、深く、心の底から頭を下げた。
「ノア君、リュカさん。私の指示通りに戻ってきてくれて、本当にありがとうございます。お陰で、王都の罠を証明する『証拠』を手に入れましたわ」
「……君の作戦は、駒を動かす作戦じゃなく、仲間を活かす作戦だった。だから戻ってきた」
ノアは淡々と頷きながらも、その目には確かな信頼の色が宿っていた。
「セレスの匂い、ちょっと温かくなった。だから戻ってきた」
リュカも尻尾を揺らし、無邪気に笑う。
セレスは扇子で顔を隠したが、その目元は堪えきれない涙で少しだけ赤く潤んでいた。
恐怖と利害ではなく、初めて他者と互いの役割を信じ合って掴み取った勝利。盤面は、決して崩れなかったのだ。
レオンはセレスの頭上に視線を向けた。
『【未来の血塗れ女帝】粛清者数、十万人。破滅原因:裏切りへの恐怖』
その禍々しい赤い文字に、先ほどから差し込んでいた金色の光がさらに広がり、文字の一部に微かなひびが入り始めていた。
だがまだ完全な変化ではない。
彼女の過去を縛り付けている『赤い弱点ノートの残骸』が、まだ鞄の底に残っているからだ。
それでも、孤独な女帝へ続く道は、今、初めて別の未来へと逸れ始めていた。
「さて、これで反撃の準備は整ったな」
レオンが言うと、セレスは力強く頷いた。
「ええ。ここからは反撃の時間ですわ。ガルド君とミリアさんを呼び戻してくださいませ」
王都の罠を打ち砕くための証拠は揃った。
セレス・ヴァーミリオンの采配は、ここから王都の陰謀そのものへ刃を向けようとしていた。




