第35話「謝罪は入口だ」
辺境学院の旧校舎。
冷たい冬の朝の空気が満ちる廊下を、セレス・ヴァーミリオンは重い足取りで歩いていた。
王都の工作員によって『弱点ノート』がばらまかれ、彼女の築き上げた完璧な支配が崩壊してから一夜が明けた。
(私は、どうすればいいのですか……)
昨日の放課後、誰もいなくなった教室で拾い集めたノートの切れ端の感触が、まだ手の中に残っている。
エリスの『最後に必ず自分が一番孤独になります』という忠告。
レオンの『お前が壊した信頼だ。お前が直せ』という冷酷な事実の宣告。
そして何より、ガルドたちの怒りと拒絶の視線が、刃のようにセレスの心を何度も切り刻んでいた。
誰も信じないと決めた。
恐怖と利害だけで人を縛り付けるのが、最も安全な生き方だと思っていた。
だがその結果がこの惨めな孤独だ。
だから直さなければならない。
あれだけ完璧な盤面を組み上げてきた自分が、崩壊した盤面をそのまま放置しておくことなど、プライドが許さなかった。
彼女の優秀な頭脳が一晩かけて導き出した最適解は、極めてシンプルで論理的なものだった。
『非を認め、迅速に謝罪し、立場を返上することで相手の怒りを鎮火させる』
(完璧な謝罪さえすれば、少なくとも彼らの怒りはこれ以上広がらない。代表権限も返上すれば、責任を取った形にはなる。そうすれば、また新しい盤面を構築する機会も……)
セレスは深く深呼吸をし、自分に言い聞かせるように扇子を強く握りしめた。
そして、特別隔離教室の扉をゆっくりと開けた。
その瞬間だった。
それまで教室内で微かに響いていた話し声や物音が、ピタリと止んだ。
ガルドはチッと舌打ちをして露骨にそっぽを向き、ミリアは気まずそうに目を伏せた。
ノアは無言で本に視線を落とし、リュカはセレスから距離を取るように教室の隅へと移動した。
誰一人として、彼女に「おはよう」と声をかける者はいない。
それが、自分が彼らを『駒』としてしか見ていなかったことへの当然の報いなのだと、セレスは痛いほど理解していた。
(エリス先生の言う通り……最後には、自分が一番孤独になるのですね)
セレスは唇を強く噛み締め、真っ直ぐに自分の席へと歩みを進めた。
鞄を置き、彼女は教卓の前に立つレオンの方へと向き直った。
そしてクラス全員に向けて、完璧で美しいカーテシー(淑女の礼)をして見せた。
「皆様。まず、私はクラス代表を辞任いたします。その上で、昨日の件について、深く謝罪いたしますわ」
凛とした、よく通る声だった。
「私が皆様の弱点や行動を勝手に記録し、自らの権力を確立するための道具として利用しようとしたこと。それは決して許されることではありません。私の思慮が浅かったと、猛省しております。代表の権限も、当然返上いたしますわ」
淀みなく紡がれる謝罪の言葉。
貴族令嬢として完璧に洗練された、どこにも非の打ち所がない見事な態度だった。
どれだけ怒っている相手でも、ここまで頭を下げられればそれ以上は追及しにくくなる。
それがセレスの計算だった。
だが教室の空気は、少しも和らぐことはなかった。
「……ふざけんな」
重苦しい静寂を破ったのは、ガルドの低く苛立った声だった。
彼は乱暴に立ち上がり、両手を強く握りしめた。
拳の奥で魔力が渦巻きかけるのを、ガルドは深呼吸ひとつで押し殺した。
セレスへの怒りで暴れるのは、もう自分らしくないと知っていた。
だがその分だけ、彼の放つ怒りは深く真っ直ぐなものだった。
「ガルド君……?」
「うるせえ!てめえが本当に悪いと思ってるなら、なんでそんなにスラスラ言葉が出てくるんだよ!俺たちが怒ってるから、とりあえず頭下げて済ませようとしてるだけだろ!」
「そ、そんなことは……!」
セレスは反論しようとしたが、言葉に詰まった。
ガルドの言う通りだったからだ。
彼女の謝罪は心からの悔恨というよりも、これ以上自分が孤立しないための『計算された謝罪』に過ぎなかった。
自分が悪かったと認めることで、彼らの怒りを最小限に抑え込もうとする防衛本能。
その薄っぺらさを、真っ直ぐなガルドの本能は完全に見抜いていたのだ。
ミリアも、悲しげな瞳でセレスを見つめた。
「セレスさんの言葉は……全部、計算されているみたいで。どう受け止めていいのか、私には分かりません」
ミリアの瞳には、怒りよりも深い悲しみが宿っていた。
誰かが困っていれば助けたいと心から願う彼女の善意を、セレスは「誘導可能な弱点」として利用した。
その事実は、謝られたからといって簡単に消えるような傷ではなかった。
ミリアの静かな拒絶に、セレスは胸が締め付けられるような痛みを覚えた。
リュカもまた、鼻をひくつかせて言った。
「セレス、まだ匂い隠してる。本当の心、隠してる。リュカ、まだ群れに入れない」
取り繕った言葉を並べても、野生の獣であるリュカの嗅覚は誤魔化せない。
セレスの奥底にある「自分が傷つきたくない」という怯えた心を、リュカは正確に嗅ぎ取っていたのだ。
セレスは扇子を握りしめ、顔を青ざめさせた。
完璧な謝罪をしたはずなのに、なぜ誰も許してくれないのか。
なぜ、私の言葉は誰にも届かないのか。
どうすればこの崩れた盤面を修復できるのか、彼女の優秀な頭脳でも全く答えが出せなかった。
そんなセレスを見据え、教室の隅からノアが静かに口を開いた。
「君は、僕たちが怒っているから謝っているだけだ。本当に自分が間違っていたと、心から思っているわけじゃない」
ノアは本を閉じ、セレスの赤い瞳を真っ直ぐに射抜いた。
昨日までの、他人に無関心だった彼とは違う。
死者の声を聞き、生者の温かさを知り始めた彼は、セレスの心のあり方を鋭く指摘した。
静かに、しかしどんな怒号よりも強い声が、教室に落ちた。
「僕は忘れないために書く。君は支配するために書く」
その一言で、教室の空気が止まった。
ノアの言葉が、セレスの胸の奥深くに鋭く突き刺さる。
ノアもまたノートを書く人間だ。
だが彼が書くのは、忘れ去られていく死者たちへの手向けであり、失われた命の記憶をこの世界に繋ぎ止めるための優しい墓標だ。
対してセレスのノートは、生者を疑い、弱点を握って恐怖で縛り付けるための冷酷な呪いの鎖でしかない。
同じ「書く」という行為であっても、根底にあるものが全く違うのだ。
「その違いが分からない限り、君の言葉は誰にも届かない」
セレスは完全に言葉を失った。
完璧な計算も、完璧な言葉も、彼らの心には微塵も響かなかった。
論理や利害だけで人間の心は動かせない。
そんな当たり前の事実を、セレスは今更ながらに痛感させられていた。
誰も信じないと決め、人を駒として扱ってきた彼女は、他人の心の機微というものを全く理解していなかったのだ。
「謝罪は入口だ、セレス」
レオンが教卓から、気だるげな声で言った。
「信頼は、その後の行動でしか戻らない」
レオンの言葉が、とどめとなってセレスの心に重くのしかかった。
言葉で取り繕うことはもうできない。
壊れた盤面は、口先の謝罪では二度と元には戻らない。
(私は……なんて浅はかなことを……)
セレスは扇子を落としそうになるほど強く握りしめ、その場に立ち尽くした。
完璧な謝罪も、完璧な礼も、完璧な言葉も、誰の心にも届かなかった。
彼女の足元がガラガラと崩れ落ち、本物の孤独という暗闇が彼女を飲み込もうとしていた。
その時だった。
バンッ!
教室の扉が勢いよく開かれ、エリスが血相を変えて飛び込んできた。
彼女の息は上がり、手には王都からの緊急通達を示す赤い封筒が握られている。
「レオン先生!大変です、緊急事態です!」
エリスのただならぬ様子に、ガルドやミリアたちも驚いて彼女を見た。
セレスが顔を上げる。
謝罪が言葉では足りないのなら、行動で示すしかない。
セレスに、その最初の機会が訪れようとしていた。




