第34話「信頼の崩壊」
辺境学院の旧校舎、特別隔離教室。
王都の工作員によってセレス・ヴァーミリオンの『弱点ノート』がばらまかれ、彼女がクラス内に築き上げた完璧な支配は無惨に崩れ去った。
黒板に貼り出された冷酷な分析の数々を前に、クラスメイトたちのセレスを見る目は完全に冷え切っていた。
『王都の工作員の仕業だとしても、ここに書かれている言葉を書いたのはお前だ』
レオン・グランヴァルトの冷酷な事実の宣告が、セレスの胸を深くえぐっていた。
クラス中の視線が突き刺さる中、沈黙に耐えきれなくなったセレスは震える手で扇子を開き、口元を隠して優雅に微笑んでみせた。
必死に平然を装うための、彼女なりの防衛本能だった。
「……ええ。私が書きましたわ」
強がりの言葉を紡ぐ。
それしか、彼女には残されていなかった。
「上に立つ者が弱点を把握するのは……当然の備えです。それが、何か……」
自分でも言い終えられず、セレスの語尾は震えて消えた。
その言葉は、あまりにも虚しく教室に響いた。
「ふざけんな!」
ガルド・バルガが怒号とともに、近くの椅子の背に思い切り拳を叩きつけた。
木の軋む音が教室に響く。
一瞬右手から黒炎が漏れかけたが、彼は歯を食いしばってそれを抑え込んだ。
「てめえはずっと、俺たちを駒としか見てなかったってわけか!少しでも仲間だと思った俺が馬鹿だったぜ!もう二度と俺に偉そうに指図すんじゃねえ!」
ガルドは吐き捨てるように言い、乱暴な足取りで教室を出て行った。
彼の背中には、裏切られた怒りと深い失望がはっきりと滲んでいた。
「ガルド君……!」
ミリア・フロストレインが悲痛な声で呼び止めるが、彼は振り返らない。
ミリアは涙で濡れた瞳で、セレスを悲しげに見つめた。
「セレスさんは……私たちが困っていても、悩んでいても……ただの駒が予想通りに動いたとしか思っていなかったんですね」
「ミリアさん、私は……」
何かを言おうとして、セレスは口を開いた。
だが何を言えばいいのか、自分でも分からなかった。
「私の誰かを助けたいって気持ちを、そんな風に利用していたなんて。……ごめんなさい。私、今はセレスさんとどう話していいか分かりません」
ミリアは両手で顔を覆い、逃げるように教室を飛び出していった。
誰よりも優しく他者を思いやる彼女だからこそ、その善意を利用された傷は深かった。
ノア・レイスは冷え切った目でセレスを見据え、本をパタンと閉じた。
「僕が忘れないために書いているノートを、君は自分の権力のための道具にした。……君が誰かを書くなら、その人の名前と一緒に、その人の声も聞いてあげてほしい。役割や利用方法じゃなく」
それだけを静かに言い残し、ノアも教室を去る。
彼の声には声を荒らげる以上の、決定的な拒絶と微かな願いが含まれていた。
リュカは鼻をひくつかせ、セレスを野生の獣のように警戒して見つめた。
「セレス、冷たい匂い。一人ぼっちの匂い。……寂しいのに、群れを拒む。リュカ、分からない」
リュカの言葉は飾らない本能だからこそ、セレスの心を最も鋭くえぐった。
リュカもまた、足早に教室を後にしていく。
残されたのは、セレスと教卓に寄りかかるレオンだけだった。
「これで満足か、代表」
レオンの気だるげな声が、静まり返った教室に落ちる。
セレスは扇子を握る手が白くなるほど力を込めていた。
「……ええ。これで彼らの反応パターンも新たに収集できましたわ。次はもっと完璧な盤面を構築してみせます」
「強がるな」
レオンは短く切り捨て、日誌を持って教室を出て行った。
今は追い詰められたセレスに、すぐ答えを与える時ではないと判断したのだ。
放課後の教室。
夕日が差し込む中、セレスは一人で黒板の前に立っていた。
王都の工作員が貼り出したノートの切れ端が、床のあちこちに散乱している。
セレスはゆっくりと屈み込み、その紙片を拾い集めた。
(なぜ……どうして私が、こんな惨めな思いをしなければならないの……?)
誰も信じないと決めた。
人は必ず裏切る。アンナがそうだったように。
だから他人の弱点を握り、恐怖と利害で支配する。
それが一番安全で傷つかない生き方のはずだった。
それなのに胸の奥が張り裂けそうに痛い。
ガルドの怒りが、ミリアの涙が、ノアの言葉が、リュカの戸惑いが、何度も頭の中でリフレインする。
(違う……私はただ、裏切られるのが怖かっただけなのに……!)
ぽたりと、拾い集めた紙片に涙が落ちて染みを作った。
「……セレスさん。少し、よろしいですか」
不意に背後から声がした。
セレスがハッとして振り向くと、教室の入り口にエリス・アークライトが立っていた。
セレスは慌てて涙を拭い、扇子で顔を隠して気丈に振る舞おうとする。
「エリス先生……お説教なら、もう十分ですわ。私を代表から解任し罰を与えたいのでしたら甘んじて受けます」
だがエリスの顔に怒りや咎める色はなかった。
ただ深く悲しそうな瞳で強がるセレスを見つめていた。
エリスは教室の中へ入りセレスの目の前で静かに足を止めた。
「お説教ではありません。罰を与えるつもりもありません。ただ貴族として育った私から、同じ立場の人間としての忠告です」
「……忠告?」
「はい」
エリスは静かに息を吐き、言葉を紡いだ。
「人を駒として扱う者は、最後に必ず自分が一番孤独になります」
その言葉に、セレスの息が止まった。
エリスはかつて王都の名門学院に在籍し、優秀な成績を収めていた。
そこは貴族の権力闘争の縮図のような場所だった。
「私自身、そういう派閥に組み込まれかけて、必死で逃げ出した過去があります。王都の学院では、他人の弱点を握り恐怖と利害で派閥を作り上げる生徒をたくさん見てきました。彼らは皆、一時は絶大な権力を握り盤面を支配したように見えました」
エリスの視線は、遠い過去の記憶を見つめているようだった。
「ですが盤面が崩れた時……彼らの足元をすくったのは、他でもない彼らが駒として扱っていた者たちでした。恐怖で縛られた関係は少しの綻びで必ず牙を剥きます。そして最後には誰も手を差し伸べてはくれず、悲惨な破滅を迎えていきました」
エリスはセレスの瞳を真っ直ぐに見据えた。
「セレスさん。あなたはとても優秀な方です。物事の本質を見抜き、緻密な計算ができる。ですがその優秀さを他者を支配するためだけに使えば、あなたの周りには本当に誰もいなくなってしまいます。……それは、あまりにも悲しい生き方ですわ」
セレスは反論しようと口を開いたが、言葉が出なかった。
エリスの言葉は正論だった。
そして何より今のセレス自身が、その『孤独』を痛いほどに実感していたからだ。
誰もいない教室。
散らばった紙片。
これが自分が望んだ『完璧な統治』の結末。
「エリス先生……私は……」
「あなたが変わることを、私は信じています。今のあなたには、レオン先生やあのクラスメイトたちがいますから」
エリスはそれだけを言い残し、静かに教室を去っていった。
入れ替わるように、気だるげな足音が近づいてきた。
レオンだ。
彼は教室に入ると床に落ちていた赤いノートの表紙を拾い上げ、セレスの机の上に無造作に放り投げた。
「……先生も、私に忠告をしに来たのですか」
セレスは自嘲気味に笑った。
「ええ、私のやり方は間違っていましたわ。エリス先生の言う通り、最後には誰もいなくなる。……アンナに裏切られた時から、私は一人ぼっちの迷子だったのですね」
初めて、セレスが自分の弱さを口にした。
「笑いたければ笑えばいいですわ。結局、私は誰も信じられず誰からも信じられない、愚かな人間ですのよ……」
「笑うかよ」
レオンの低い声が、セレスの言葉を遮った。
「お前が怯えきった子供にしか見えないのに、笑えるわけがないだろう」
セレスはハッとしてレオンを見上げた。
レオンの目には同情ではなく、教師としての厳しさがあった。
「王都の工作員の仕業だとしても、お前がこいつらを信じず駒として扱ったのは事実だ。お前が一番恐れていた『裏切り』を、お前自身が彼らに行ったんだ」
「……!」
「お前が壊した信頼だ。お前が直せ」
レオンの言葉は、重く真っ直ぐにセレスに突き刺さった。
お前が直せ。
その指示に、セレスは困惑と絶望を入り交じらせた声を上げた。
「どうやって直せと言うんです!?一度壊れた信頼は二度と元には戻りませんわ!私が一番よく知っています!」
アンナの裏切りを決して許せなかったように、ガルドたちも自分を許すはずがない。
人間の心は一度完全に冷え切ってしまえば、もう二度と元に戻ることはないのだと。
「どう動くかは、お前のその優秀な頭で考えろ。お前が壊した信頼から目を逸らすな」
レオンは言い放った。
「お前が本当にあれだけ完璧な盤面を組み上げる頭を持っているなら、この程度の崩壊から立て直すことだってできるはずだ」
レオンはそれ以上何も言わず、背を向けて教室を出ていった。
残されたセレスは、一人で立ち尽くしていた。
頭上で明滅する『未来の血塗れ女帝』の文字が、赤黒く禍々しい光を放っている。
人を信じる生き方など、とうの昔に捨てた。
だがもう誰も信じない生き方では、この暗闇から抜け出せない。
セレスは机の上の赤いノートを手に取った。
これまではこのノートが私を守ってくれると信じていた。
けれど今、その重みは、ただの石のように冷たく感じられた。
夕闇に染まる教室で、孤独な令嬢はどうすれば失った信頼を取り戻せるのか、答えの出ない問いに震え続けていた。




