第33話「完璧な支配の綻び」
辺境学院の旧校舎、特別隔離教室。
模擬自治会によるクラス内選挙から一夜明け、教室の空気は奇妙な秩序に包まれていた。
黒板の前には、昨日過半数の票を獲得し『代表』に選ばれたセレス・ヴァーミリオンが優雅に立っている。
彼女は手元の紙束を優雅にさばきながら、クラスメイトたちへ次々と指示と恩恵を与えていた。
「ガルド君。約束通り、今週のあなたの掃除当番は免除しますわ。その分は私が引き受けますわ」
「……ちっ、まあ助かるぜ」
ガルドが机に足を乗せたまま、ぶっきらぼうに頷く。
「ミリアさん。こちらが今週の給食の献立表の調整案です。栄養バランスを完璧に計算し、エリス先生に提出しておきましたわ」
「ありがとうございます、セレスさん。これなら、ガルドくんたちも無理なくお野菜を食べられますね」
ミリアがほっとしたように微笑み、その書類を受け取る。
「ノア君。旧校舎地下書庫への立ち入り許可申請書です。すでに私の名で推薦状を添え、あとはレオン先生の承認印を待つだけにしてありますわ」
「……約束を守ってくれて、感謝します」
ノアが淡々と答え、本に視線を戻した。
教卓で日誌を開いていたレオンは、その様子を気だるげに眺めていた。
セレスは嘘をついていない。
彼女は自分の権力を誇示するように約束を完璧に果たし、クラスメイトたちに『恩恵』を与え、誰も不満を持たない見事な統治を敷いてみせたのだ。
表向きは、まさに完璧な支配だった。
クラスメイトたちは文句を言いながらも、無意識のうちにセレスを中心とした派閥の構図に組み込まれ、彼女の計算通りに動いている。
セレスは満足げに微笑み、最後に窓際で日向ぼっこをしている銀髪の獣人少女へと歩み寄った。
「リュカさん」
「ん?」
リュカが耳をパタパタと動かして顔を上げる。
セレスは昨日、リュカにだけは票を裏切られていた。
だが代表となった今の彼女にとって、そんな小さな誤差は寛大に許してやるべきものだった。
「昨日あなたが私に投票してくださらなかった件は、不問にして差し上げますわ。そして約束通り、今日の給食はあなたのために特別に肉を多めにするようエリス先生に手配してあります」
セレスは慈悲深い女王のような笑みを浮かべ、リュカを見下ろした。
これでリュカも、完全に自分の支配下に落ちる。
そう確信していた。
だがリュカは尻尾を振ることもなく、じっとセレスの赤い瞳を見つめ返した。
彼女の鼻が、ヒクヒクと小さく動く。
「……肉、いらない」
「え?」
予想外の言葉に、セレスは一瞬だけ表情を固めた。
リュカは食料、特に嗜好品で容易に買収できるとノートに記録していたはずだ。
「遠慮はいりませんわ。あなたが肉を好むことは……」
「お前、怖いんだな」
リュカの低く、真っ直ぐな声がセレスの言葉を遮った。
「……は?」
「セレスから、ずっと怯えてる匂いがする」
リュカはゆっくりと立ち上がり、野生の獣のように鋭い目でセレスを見据えた。
「誰かに裏切られるの、怖い。だから自分の思い通りに動かす。自分だけが安心するために、みんなを縛り付ける。一人になるのが、怖いから」
「な、何を……」
「セレスの匂い、冷たい。群れを信じない奴は、群れに入れない」
リュカの言葉は、拙いながらもセレスの心の最も奥底にある『裏切りへの恐怖』を完璧に言い当てていた。
図星を突かれたセレスの顔から、余裕の笑みが完全に抜け落ちた。
血の気が引き、心臓が早鐘のように鳴り始める。
アンナに毒を盛られ、冷たい言葉を浴びせられた過去の記憶がフラッシュバックする。
(私が、怯えている……?この獣風情が、私の何が分かると言うの……!)
セレスはギリッと奥歯を噛み締め、扇子を強く握りしめた。
「……不愉快ですわ。せっかくの好意を無下にするというのなら、勝手になさいませ」
セレスは足早にきびすを返し、自分の席へと戻った。
だが彼女の歩みは明らかに乱れ、先ほどまでの優雅さは微塵もなかった。
レオンは教卓から、そのやり取りを静かに見つめていた。
リュカの本能が、セレスの完璧な計算に最初の『綻び』を生じさせたのだ。
午前中の魔法実技の授業のため、生徒たちはグラウンドへ移動することになった。
セレスは苛立ちを隠せないまま、赤い弱点ノートを鞄の奥底にしまい込み足早に教室を後にした。
早くこの動揺を静めなければならない。
自分は完璧にこのクラスを支配しているのだと、自分自身に言い聞かせるように。
だが彼女は気づいていなかった。
生徒たちが全員グラウンドへ向かい、誰もいなくなった旧校舎の廊下の奥。
王都の意匠が施された外套を着た人影が、隠蔽魔法で気配を消しながら結界の隙間をこじ開け、音もなく特別隔離教室へと忍び込んだことに。
***
二時間後。
魔法実技を終えた生徒たちが、給食を食べるために教室へと戻ってきた。
ガルドが乱暴に扉を開け、ミリアがおろおろとその後を追う。
だが教室に入った瞬間、全員の足がピタリと止まった。
「なんだ、これ……」
ガルドが驚きの声を上げた。
教卓の後ろにある大きな黒板に、何枚もの紙片が等間隔でびっしりと貼り出されていたのだ。
それは、どこからどう見ても手帳から破り取られたページだった。
そしてその紙片には、セレスのあの流麗な筆跡で、クラスメイトたちの名前と冷酷な分析が書かれていた。
「どうした、ガルド……」
後ろから入ってきたノアが黒板を見て、言葉を失った。
リュカも鼻をひくつかせ、警戒するように耳を倒す。
最後に入ってきたセレスは、黒板に貼り出されたその紙片を見た瞬間、全身の血が逆流するような衝撃に襲われた。
それは間違いなく、自分が鞄の中にしまっていたはずの『赤いノート』のページだった。
何者かが、セレスが築いた支配の構図を破壊するために、彼女の弱点ノートを盗み出し、最も残酷な形でクラスにばらまいたのだ。
黒板には、破り取られたノートのページが何枚も貼りつけられていた。
そこに貼り切れなかった紙片は、教卓の上や床にまで散らばっている。
教室には、紙とインクの匂いに紛れて、普段この場所にはない微かな残り香が漂っていた。
リュカが鼻をひくつかせ、床に落ちた紙片の間をゆっくりと歩く。
「この匂い、王都の人間。さっき、ここに来た」
だが教室の誰も、リュカの言葉に耳を傾ける余裕はなかった。
「おい……これ、どういうことだ」
ガルドが黒板に歩み寄り、そこに書かれた自分の名前の欄を読み上げた。
『ガルド・バルガ:自尊心が高く挑発に乗りやすい。知的労働を極端に嫌うため、情報と解答を餌にすれば操作可能』
ガルドの手が震え、ギリッと奥歯を鳴らす音が教室に響いた。
彼がセレスに向けてゆっくりと振り返る。
その瞳には、かつてないほどの深い怒りと裏切られた絶望が宿っていた。
「てめえ……俺のことを、ずっとそんな風に見下して……駒扱いしてたってわけか!」
「ガルド君、それは……!」
「俺の票も、俺の苦手なところも、全部利用してたってわけかよ……!」
ガルドの怒号が教室を震わせる。
ミリアは青ざめた顔で、自分の名前が書かれた紙片を見つめていた。
『ミリア・フロストレイン:罪悪感と責任感が強い。誰かが困っている場面を見せれば、自ら進んで泥を被るはずだ』
ミリアの瞳から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
「私が……みんなの健康を心配して、あなたが代表になるのに賛成したのは……全部、セレスさんに操られていたからなんですか?」
「ミリアさん、違いますわ、それはただの……!」
ミリアはショックのあまり言葉を続けられず、両手で顔を覆って泣き崩れそうになるのを必死に堪えていた。
その悲痛な姿が、セレスの胸を鋭く突き刺した。
ノアもまた、冷ややかな目で黒板の文字を見つめていた。
『ノア・レイス:記録への執着を利用する。彼が大切にしているノートのために、私の権力と手回しを提示すればよい』
ノアは静かに目を伏せ、冷え切った声で言った。
「僕が忘れないために書いているノートを……君は自分の権力のための道具にしたんだね」
「ノア……」
「……黒板に貼り出されたこの紙には、僕の名前はあっても、僕という人間は書かれていない。役割と、利用方法と、誘導手段だけだ」
ノアの静かで冷たい視線。
ガルドの激怒。
ミリアの涙。
リュカの警戒。
教室の空気が、完全に凍りついた。
ほんの数時間前までセレスが築き上げていた完璧な支配は、音を立てて無残に崩れ去っていた。
全員が自分を軽蔑し、怒り、悲しんでいる。
セレスは弁解しようと口を開いたが、声が出なかった。
違う、私はただ裏切られるのが怖かっただけ——そう叫びたかった。
だがその言葉さえ、自分への言い訳でしかないことを、彼女自身が誰よりも分かっていた。
アンナに裏切られたあの日と同じだ。
人間は必ず裏切る。
だから誰も信じないと決めたのに、なぜ今、こんなにも胸が痛むのか。
彼らからの信頼を失ったことが、なぜこれほどまでに恐ろしいのか。
「お前ら、席につけ」
不意に、気だるげな声が教室に響いた。
いつの間にか教卓の前に立っていたレオンが、黒板に貼り出された紙片を無造作にベリベリと剥がし始めた。
「先生……」
「王都の連中らしい安い手口だ。教室の結界をこじ開ける小賢しい真似をしやがって」
レオンは剥がした紙片を丸め、教卓の上に放り投げた。
王都側の仕業だと見抜くのは難しくなかった。
隔離クラスを内側から崩壊させ、危険指定の口実を増やすつもりだろう。
教室の結界には、外部からこじ開けられた痕跡が残っている。
だがすでに貼り出された言葉を、なかったことにはできない。
これは王都の工作であると同時に、セレス自身が書いた言葉でもあった。
レオンは顔面蒼白になっているセレスを見下ろし、静かに、しかし冷酷な事実として告げた。
「王都の工作員の仕業だとしても、ここに書かれている言葉を書いたのはお前だ」
セレスの肩がビクッと跳ねた。
彼女は言葉を失い、クラスメイトたちの痛いほどの視線に耐えられず、ただその場に立ち尽くすしかなかった。
完璧な支配など、最初から存在しなかった。
人間の心という変数を無視した盤面は、今、完全に崩れ落ちた。
彼女の頭上で明滅する『未来の血塗れ女帝』の文字が、赤黒く禍々しい光を放っている。
ノートに駒として書き込んだはずのクラスメイト全員から、彼女自身が一人で見つめ返されていた。




