第32話「クラス内選挙」
辺境学院の旧校舎、特別隔離教室。
朝の冷たい空気が残る中、レオン・グランヴァルトは教卓に立ち、黒板にチョークで大きく文字を書き殴った。
『模擬自治会・クラス内選挙』
生徒たちはその文字をそれぞれの反応で見つめていた。
ガルドは机に足を乗せたまま怪訝そうに眉をひそめ、ミリアは不安げに首を傾げる。
ノアは淡々と黒板を見つめ、リュカは耳をパタパタと動かした。
そしてセレス・ヴァーミリオンだけが、優雅な笑みを浮かべて背筋を伸ばしていた。
「今日からこのクラスで模擬自治会という演習を行う」
レオンはチョークを置き、気だるげな声で説明を始めた。
「ルールは簡単だ。お前たち五人の中から、多数決で代表を一人決める。持ち票は一人一票。自分に投票しても構わない。過半数である『三票』を獲得した奴が勝者だ」
「代表になると、何かいいことあるのかよ」
ガルドがぶっきらぼうに尋ねると、レオンはニヤリと笑った。
「代表には一週間、クラス内の要望を取りまとめる権限を与える。席順と掃除当番については、正当な理由がある範囲で割り振りを決めていい。給食の希望献立については、学院の規定と予算の範囲内で提案を認める」
レオンは生徒たちを見渡した。
「提案に正当な理由がある限り、俺とエリス先生はできるだけ尊重する。ただし、他の生徒を危険に晒す命令や、不当に不利益を押しつける決定は認めない」
「給食の献立……!肉、毎日肉にできる!?」
リュカがガタッと椅子から立ち上がり、尻尾を激しく振った。
「ああ。代表が望めば、毎日肉を出してほしい、毎日デザートをつけてほしいと提案することはできる。もちろん、予算や栄養の都合で全部が通るとは限らない。席順や掃除当番も、理由なく誰か一人に負担を押しつける決定は認めない。投票は今日の終わりのホームルームで行う。それまでに、誰に投票するか決めておけ」
レオンが説明を終えると、教室にざわめきが広がった。
ガルドは「毎日肉なら悪くねえな」と呟き、ミリアは「お野菜も食べないと体に悪いのに……」とおろおろしている。
そんな中、セレスは静かに立ち上がり、完璧なカーテシーをして見せた。
「素晴らしい演習ですわ、レオン先生。この私に、クラスを統治する権利を与えてくださるなんて」
セレスの赤い瞳が、妖しく輝いていた。
彼女にとって、力や魔法の打ち合いではない『政治と交渉』の場は、まさに自分のための独壇場だ。
たった三票を集めればいい。自分の一票があるのだから、あと二人を味方につければ過半数だ。
だがセレスは二人と言わず、全員の票を掌握して完璧な支配を確立するつもりだった。
午前中の休み時間。
セレスは早速、赤いノートの記録を元に動き始めた。
最初の標的は、知的な作業を極端に嫌う赤髪の少年だ。
「ガルド君。午後の魔法陣の課題、かなり難解なようですわね」
セレスはガルドの机に歩み寄り、彼が苛立たしげに睨んでいる羊皮紙を覗き込んだ。
「うるせえ!俺は今から気合で解くんだよ!」
「気合で魔法陣が解ければ誰も苦労はしませんわ。私に一票を投じると約束するなら、私の完璧な解答例を貸して差し上げます。さらに私が代表になった暁には、あなたを一週間の掃除当番から免除してさしあげてよくてよ」
ガルドはギリッと奥歯を噛み締めた。
自分で計算する苦労と、プライドの天秤。だが掃除当番の免除というオマケは、面倒くさがりな彼にとって強烈な魅力だった。
「……ちっ、一票くらい安いもんだ。だが俺に命令すんじゃねえぞ」
「ええ、もちろん。お互いの利益のための合理的な取引ですわ」
セレスは優雅に微笑み、次なる標的へと向かった。
窓際の席で、手袋をはめた手で一生懸命に予習をしている白銀の髪の少女。
「ミリアさん。少しよろしいかしら」
「あ、はい……セレスさん。何でしょう?」
「この選挙のことですが、もしガルド君やリュカさんが代表になれば、彼らは給食を毎日肉だけにするでしょう。彼らが無茶をしないように、誰かが見ておく必要がありますわ」
ミリアの肩がビクッと跳ねた。
「ガルド君はただでさえ力を持て余しているのに、野菜を食べなければ魔力回路に不調をきたすかもしれません。彼らが体調を崩したら、あなたも心配でしょう?」
「そ、それは……」
「私なら、完璧な栄養管理をお約束しますわ。皆の健康を守るためにも、あなたは私に票を託すべきです」
ミリアは不安げに視線を泳がせたが、やがて「みんなの健康のためなら……」と小さく頷いた。
ミリアの過剰な責任感と同情心に訴えかければ、彼女は簡単に誘導できる。
セレスのノートに書かれた通りの反応だった。
続いてセレスは、教室の隅で本を読むノアへと声をかけた。
「ノア君。私が代表になった暁には、旧校舎の地下書庫への立ち入り権限をレオン先生に要求しますわ。あそこには、あなたが記している記憶の墓標をより完全なものにするための、古い文献が眠っているはずです」
ノアは本から顔を上げ、じっとセレスを見つめた。
以前なら孤独を突けば動いたが、今は死者の記録への執着が彼の行動原理だ。
ノアは慎重に言葉を返す。
「……要求できるだけで、許可が下りるとは限らない」
「ええ。ですが、私なら許可が下りる形に書類を整えられますわ」
「……君が何を企んでいるかは知らない。でも、地下書庫の文献は、僕にとって本当に必要なものだ」
ノアは静かに答え、本に視線を戻した。
「それなら、君に票を入れます」
ノアが淡々と承諾する。
これで四票。あとは残る一人だけだ。
昼休みの鐘が鳴り響いた。
教室の扉が開き、エリスが給食のワゴンを押して入ってくる。
「皆さん、お待ちかねの給食ですよ。今日は王都からの配給物資が届いたので、食後にカスタードプリンがあります!」
エリスの声に、リュカが「プリン!」と歓声を上げて跳ね起きた。
ガルドも「おお、甘いもんは嫌いじゃねえぞ」と嬉しそうに立ち上がる。
レオンが日誌を置いて「よし、配膳を……」と口を開きかけた瞬間だった。
「お待ちください、先生」
セレスがスッと立ち上がり、教室の中央へと進み出た。
「ガルド君、私の机を教室の中央へ」
「はあ?なんで俺が……」
「午後の解答例の話をお忘れですか?」
「……ちっ、今回だけだぞ」
ガルドが渋々机を動かすと、セレスはまるで玉座のように教室の中央に配置した。
「今日から、給食の席順は私が指定しますわ。ガルド君は私の右。ミリアさんは左。リュカさんは私の正面ですわ。ノア君はその隣へ」
それはただの席替えではない。
明確にセレスを頂点とし、彼女を中心にクラスが回るという『派閥の構図』を視覚的に作り上げるための配置だった。
「なんだよこれ。なんで俺がてめえの右側に座らなきゃなんねえんだよ」
「文句を言うなら、午後の解答例はなしですわよ」
「……ちっ」
ガルドが渋々指定された席にドカッと座る。
ガルドは舌打ちしながらも、内心では「どうせ誰が代表でも大して変わらねえだろ」と軽く考えていた。
彼にとって選挙は、まだ面倒な雑用の延長でしかなかった。
ミリアもおろおろしながら左側の席につき、ノアも無言で従った。
セレスは満足げに頷くと、エリスから受け取った自分の分のカスタードプリンを手に取り、真っ直ぐにリュカの前に突き出した。
リュカの獣の耳がピクッと反応し、プリンを凝視する。
「リュカさん。私に投票するなら、このプリンもあなたに差し上げますわ。さらに明日の給食も、肉を多めに指定してあげてよくてよ」
リュカはプリンを受け取りかけたが、ふと鼻をひくつかせた。
「……セレス、甘い匂い。でも、ちょっと怖い匂いもする」
セレスは内心でわずかに眉をひそめた。獣人特有の直感は厄介だが、票さえ入るなら問題ない。彼女はそう判断し、にっこりと微笑んだ。
「気のせいですわ。プリンが冷めますわよ」
「ん。プリンは食べる。票も入れる。でも、セレス、変な匂い」
リュカはそう言いながらも、手渡されたプリンを嬉しそうに頬張った。
これで五票。表面上の完璧な勝利だ。
セレスは優雅に椅子に座り、まるで国を統治する女王のような笑みを浮かべた。
「おいセレス。給食の席を勝手に決めるな。それに給食で外交するな」
教卓から、レオンが頭を抱えながら呆れた声を出した。
「これは演習ですわ、先生。私が代表になればこれが正式な席順になりますの。今のうちに慣れていただくための合理的な配置です」
「演習じゃない、ただの昼飯だ。座って普通に食え」
「レオン先生の言う通りです!プリンで票を買収するなんて、正当な選挙とは言えません。やり直しを命じるべきです」
エリスが顔を真っ赤にして抗議するが、セレスは涼しい顔で紅茶のカップを傾けた。
「買収だなんて心外ですわ。お互いの利益が一致しただけの、公正な取引です。誰も損をしておりませんし、誰も不満を持っていませんわ」
確かに、表立って文句を言う者は誰もいなかった。
ガルドは課題から解放され、ミリアはクラスの健康を守れると信じ、ノアは知識を得て、リュカはプリンに夢中だ。
セレスの緻密な計算と弱点の把握は、この問題児だらけのクラスを見事に統制して見せたのだ。
「いや、見守れ」
レオンは静かに首を振ってエリスを制した。
「今止めたら、セレスは自分のやり方が間違っているとは思わない。ただ邪魔されたと思うだけだ」
そして、終わりのホームルーム。
レオンが配った投票用紙に、生徒たちは無言で名前を書き込んだ。
ガルドは渋い顔で、ミリアは緊張した手つきで、ノアは淡々と、リュカは何か迷うように鼻をひくつかせてから、最後に勢いよくペンを走らせた。
レオンが投票箱を開け、一枚ずつ用紙を確認していく。
「……結果は、セレス四票。リュカ一票だ」
リュカは最後まで「肉を毎日出すならリュカが代表でもいい」と言い張り、結局自分に票を入れていた。
セレスから漂う「怖い匂い」を、彼女の本能は最後の瞬間に優先したのだろう。
だが過半数を獲得したセレスが勝者となり、明日からの代表に決定した。
セレスは満足げに微笑む。すべては彼女の思い描いた盤面通りだった。
放課後。
他の生徒たちが寮へ戻り、夕日が差し込む教室には、レオンとセレスの二人だけが残っていた。
セレスは自分の机で赤いノートを開き、本日の交渉結果を完璧な文字で書き込んでいる。
「順調そうだな、セレス」
レオンが日誌を片付けながら、気だるげに声をかけた。
「ええ。全員の要望と弱点を適切に管理し、誰も不満を持たない完璧な統治をお見せしますわ。先生の想定した小さな箱庭の自治など、私にとっては容易すぎるゲームでしたわ」
「そうか」
レオンは教卓に寄りかかり、腕を組んでセレスを真っ直ぐに見据えた。
「一つだけ聞いておく。お前は仲間を集めているのか。それとも、盤上に駒を並べているだけか」
その問いに、セレスは少しも迷うことなく、冷ややかに微笑んだ。
「愚問ですわね、先生。駒を並べているに決まっています」
セレスは赤いノートをパタンと閉じた。
「心などという不確かなもので繋がった仲間など、いつ裏切るか分かったものではありません。信じた相手に背中を刺される痛みは、もう十分知っていますわ。だから私は誰も信じない。利益と恐怖、そして弱点だけで繋ぎ止め、決して裏切れない状況を作る。それが上に立つ者の鉄則であり、唯一の完璧な統治です」
彼女の言葉には一片の揺らぎもない。
アンナに毒を盛られた過去の恐怖が、彼女の心を完全に凍りつかせているのだ。
レオンの視界の端で、セレスの頭上に浮かぶ『【未来の血塗れ女帝】粛清者数、十万人。破滅原因:裏切りへの恐怖』という赤い文字が、禍々しく明滅していた。
「……そうか。だが覚えておけ、セレス。お前が一番恐れているものを、お前自身が増やしている。その意味は、盤面が崩れた時に分かる」
レオンはそれ以上何も言わず、日誌を持って教室を出て行った。
残されたセレスは、夕日の中で一人優雅に微笑んでいた。
私の計算に狂いはない。
このクラスは完全に私の支配下に入った。
彼女はそう確信し、赤いノートを鞄にしまった。
だが彼女は気づいていなかった。人間の心という「変数」が、決してノートに書き切れるような単純なものではないことに。
その時、旧校舎の廊下の奥で人影が一つ音もなく動いた。
セレスの赤いノートが鞄にしまわれる瞬間を、その影は確かに見ていた。
王都の意匠が施された外套の裾が、闇に紛れて翻った。




