第31話「裏切られた令嬢」
王都でも有数の権勢を誇る名門、ヴァーミリオン家。
炎と謀略を司るその家系において、セレス・ヴァーミリオンは幼い頃から飛び抜けた才覚を示していた。
魔法戦力を適切に配置する戦術眼、貴族としての教養、そして他者の思惑を読み取る鋭い観察眼。
彼女は次期当主として期待され、華やかな社交界でも誰もが彼女に頭を下げた。
だがどれほど優秀であろうと、彼女はまだ年端もゆかない少女だった。
厳しい貴族社会の派閥争いの中で彼女が唯一心を許し本当の笑顔を見せていたのは、幼い頃から専属で仕えていたメイドのアンナだった。
『セレスお嬢様。今日もお疲れ様でした。お好きな茶葉を淹れましたよ、どうぞ』
アンナはいつも優しい笑顔でセレスを支え、セレスもまた彼女を実の姉のように慕い、完全に信頼しきっていた。
セレスの才覚を恐れた異母兄の派閥が、ある日アンナに接触した。
その時何が差し出され、何を奪われたのかを、セレスが知るのはもっと後のことだった。
ある日の午後。
アンナがいつものように淹れてくれた紅茶を一口飲もうとした時、セレスの鋭い観察眼は小さな違和感を見逃さなかった。
いつもならカップの縁に一滴も溢さない完璧な手技を持つ彼女が、その日はかすかに紅茶を波立たせ、指先を微かに震わせていた。
そして何より、彼女の視線が不自然に泳いでいた。
紅茶には、微量の遅効性の毒が盛られていた。
『……なぜですの、アンナ』
セレスの問いかけに、アンナの幼い弟を人質に取られていたのだと彼女は泣きながら告げた。
涙ながらに許しを請うアンナを見下ろしながら、セレスの心は急速に冷え固まっていった。
なぜ私に相談しなかったのか、とは考えなかった。
相談しても無駄だと思われたのだ。
私への『信頼』よりも、敵から与えられた『恐怖と利害』の方が彼女を動かすには現実的で確実だったのだと悟ったからだ。
悲しみが一瞬、胸を締め付けた。
だがそれを上回る強烈な『恐怖』が次の瞬間にはセレスを支配していた。
あれほど信じていた相手が、自分の命を奪おうとした。
人の善意など、状況一つで簡単に裏切りの刃に変わる。
信頼という感情はあまりにも脆く、不確実で、己を破滅に導く致命的な弱点だ。
セレスはアンナを許さなかった。
彼女は流した涙を拭うことなくアンナの弱点を利用して異母兄の派閥を逆探知し、彼らの不正と陰謀の証拠をすべて揃えて当主である父親に突きつけた。
結果として異母兄の派閥は完全に失脚し、アンナもまた容赦なく追放された。
だがセレスの報復はそれだけでは終わらなかった。
彼女は少しでも自分を脅かす可能性のある親族や使用人の弱点を徹底的に調べ上げ、彼らを脅迫することで、二度と裏切られない盤面を作り上げようとしたのだ。
あまりにも冷酷で、完璧な防衛網。
一切の温情を見せないその姿に、ついに父親すらも彼女を恐れた。
『この娘は危険すぎる。ヴァーミリオン家を根絶やしにしかねない』
優秀すぎるが故の危険物。
そう判断されたセレスは名門の跡取りから一転、王都から厄介払いされる形でこの辺境学院の特別隔離教室へと放逐されたのだ。
***
放課後の特別隔離教室には、すでに他の生徒たちの姿はなかった。
残っているのは、赤いノートを開いたセレスと、教卓で日誌を整理しているレオンだけだ。
昨日レオンに、クラスメイトの弱点を記したものだと見抜かれた——セレスに言わせれば、あくまで観察記録であるノート。
さすがにクラスメイトたちの目に触れる場所で開くほど、彼女も不用心ではない。
だが、すでに中身を見抜かれているレオンの前では、もう取り繕うつもりもないらしい。
セレスは隠すこともなく、堂々とクラスメイトたちの観察結果を追記していた。
「相変わらず、熱心なことだ」
教卓で日誌を整理していたレオンが、気だるげな声で話しかけてきた。
セレスはペンを止めず、涼しい顔で返す。
「ええ。情報は鮮度が命ですから。人間の感情は常に移り変わります。昨日まで怯えていた者が今日は笑い、昨日まで怒っていた者が今日は静かになる。その変数を正確に把握しておかなければ、完璧な管理はできませんわ」
「以前にも入学時資料には目を通していたが、昨日、改めてエリス先生に確認した。詳しい事情までは伏せられていたが、ヴァーミリオン家で何があったのか、大筋は分かった」
レオンの言葉に、セレスのペンの動きがピタリと止まった。
赤い瞳が鋭く細められ、レオンを射抜くように睨みつける。
「……趣味が悪いですね、先生。他人の過去を詮索するなんて」
「詮索したわけじゃない。担任として、生徒がなぜそこまで頑なに人を信じようとしないのか知っておく必要があっただけだ」
レオンは日誌を閉じ、セレスの机の前に歩み寄った。
「信じた相手に裏切られ、毒を盛られかけたそうだな。その痛みが、お前にそのノートを作らせている」
「……」
「昨日も言ったが、お前のその警戒心自体は否定しない。裏切りから身を守るために他人の弱点を握り、誰も裏切れない状況を作る。それは貴族社会のような毒にまみれた戦場では、確かに有効な生存戦略だろうな」
「ご理解いただけて光栄ですわ」
セレスは冷たく微笑み、扇子を広げて口元を隠した。
「人間という生き物は、愛や信頼といった不確かなものでは縛れません。人は自分の利益や恐怖のために、平気で他人を裏切ります。アンナもそうでした。だからこそ私は、二度と他人の善意などという幻想には頼らないと決めたのです。全員の弱点を握り、恐怖と利害で縛り付ける。信じるくらいなら管理する。任せるくらいなら支配する。それこそが、最も確実で完璧な生存戦略ですわ」
セレスの言葉には、一片の揺らぎもなかった。
だがレオンにはその完璧な論理の鎧の奥で、彼女が今も裏切りの恐怖に怯え続けているのが痛いほどに見えていた。
傷つくのが怖いから、誰も信じない。
信じるくらいなら、最初から駒として管理する。
それは究極の自己防衛であり、同時に究極の孤独だった。
レオンの視界の端で、セレスの頭上に禍々しい赤い文字が明滅する。
『【未来の血塗れ女帝】粛清者数、十万人。破滅原因:裏切りへの恐怖』
このまま彼女が人を信じることを放棄し恐怖と支配だけで世界を管理しようとすれば、必ず破滅の未来が訪れる。
なぜなら人間の心はどれだけ完璧に管理しようとしても、必ずどこかで綻びを生むからだ。
「アンナに裏切られた痛みは、お前だけのものだ。俺が軽く扱う気はない」
レオンは赤いノートを指差した。
「お前が誰も信じないことで自分を守ろうとしていることも理解できる。だがその痛みを理由にしてここにいる連中まで最初から裏切り者扱いするなら、それはお前自身が新しい裏切りを作っているのと同じだ」
「……新しい裏切り、ですって?」
「そうだ。お前はあいつらを信用していない。だから駒として扱う。だがいつかあいつらがそれに気づいた時、お前はあいつらの信頼を裏切ることになる。お前が一番恐れている『裏切り』を、お前自身が彼らに対して行っているんだぞ」
レオンの踏み込んだ言葉に、セレスは一瞬だけ表情を強張らせた。
痛いところを突かれたような微かな動揺。
だがすぐに彼女は冷ややかに鼻で笑って、その言葉を切り捨てた。
「ふふっ、詭弁ですわね。裏切られて惨めな思いをするくらいなら、孤独な頂点こそが正しい場所ですわ。私は誰にも頼りませんし、誰の心も必要としません。私一人ですべてを完璧に計算し、支配してみせますわ」
セレスの強固な殻は、言葉だけで崩せるものではない。
彼女は自分のやり方が絶対に正しいと信じきっているのだ。
レオンは小さく息を吐き、首の後ろを掻いた。
「そうか。そこまで言うなら、お前のその完璧な計算が、この教室でどこまで通用するか試してみるか」
「……試す?」
「ああ。言葉で言うより、実際にやってみた方が早いだろう」
レオンは黒板に向かい、チョークで大きく文字を書いた。
『模擬自治会・クラス内選挙』
「明日、お前たちだけで代表を一人決めてもらう。詳しいルールは明日のホームルームで説明する」
「……代表、ですの?」
「ああ。お前の得意な盤面だろう」
セレスの赤い瞳が、妖しく輝いた。
彼女の顔には政治ゲームという自分の最も得意な土俵を与えられたことに対する、隠しきれない歓喜が浮かんでいた。
「ただの腕力や魔法の打ち合いなら、ガルド君やリュカさんに分があるでしょう。ですがこれは交渉と利害関係の構築……すなわち『政治』ですわ。先生、私を挑発したことを後悔なさいませ。この程度の小さな盤面、私が完璧に支配して差し上げますわ」
「大きく出たな。だが言っておくが、クラスの連中をただの駒だと思っていると痛い目を見るぞ。あいつらにも心があるからな」
「心などという不確かな変数は、私の完璧な管理の前には無力だということを、先生にもお見せしましょう」
レオンが何かを企んでいる可能性は感じていた。
だがそれすらも自分の盤面に組み込めばよい。
セレスの計算は、すでにそう結論を出していた。
セレスは赤いノートを胸に抱き、自信に満ちた笑みを浮かべて教室を出ていった。
彼女はすでに、誰の弱点を突き、誰にどんな餌を与えれば票をコントロールできるか、頭の中で完璧な絵図を描き始めていた。
リュカは食べ物で釣る。
ガルドはプライドと勉強への苦手意識を突く。
ミリアは責任感と同情心に訴える。彼女の罪悪感を刺激し、誰かが困っている場面を見せれば、自ら進んで泥を被るはずだ。
ノアは以前のように孤独だけでは動かない。
ならば、彼が最近見せている記録への執着を利用する。
彼が大切にしているノートのために、私の権力と手回しを提示すればよい。
彼女にとって、クラスメイトは完全に操り人形に過ぎなかった。
レオンはセレスの背中を見送りながら、気だるげに息を吐いた。
彼女が本当に『信頼』というものの大きさを知るのは、自分の計算が崩れ去った時だけだ。
(まあ、やってみろ。お前の計算が崩れた時、そこからが本当の授業だ)
レオンの視界の端で明滅する『未来の血塗れ女帝』の文字は、いまだに禍々しい赤色を保っている。
裏切りを恐れ、誰も信じようとしない孤独な令嬢。
彼女の強固な氷の殻を内側から打ち砕くための、隔離クラス初のクラス内選挙が、今まさに幕を開けようとしていた。




