第30話「赤い瞳の優等生」
辺境学院の旧校舎、特別隔離教室。
王都から「危険物」として追放されてきた五人の問題児たちが集まるこの教室の空気は、レオンが赴任してきた当初に比べれば見違えるほど穏やかなものになっていた。辺境学院の旧校舎、特別隔離教室。
王都から「危険物」として追放されてきた五人の問題児たちが集まるこの教室の空気は、レオンが赴任してきた当初に比べれば見違えるほど穏やかなものになっていた。
ミリアの周囲を覆っていた極寒の吹雪は消え、彼女は黒い手袋をした手で真面目にノートを取っている。
ガルドは相変わらず机に足を乗せているが、苛立ち任せに教室を黒炎で焦がすことはなくなった。
ノアは分厚い魔導書を読みながらも、生者の世界に確かな興味を向け始めている。
リュカは窓からの日差しを浴びて気持ちよさそうに丸まって寝ていたが、レオンの声には耳だけをピクリと動かして反応するようになっていた。
一見すると、少しばかり個性的だが普通の教室の風景だ。
だがその中で一人だけ、当初から全く態度を変えていない生徒がいた。
赤い瞳の令嬢、セレス・ヴァーミリオンである。
彼女は背筋をピンと伸ばして優雅に座り、レオンの歴史の授業を完璧な態度で受けていた。
黒板の板書を綺麗な字で書き写し、レオンが質問を投げかければ、いとも容易く完璧な正答を返す。
魔力制御も精密で、貴族令嬢としての礼儀作法も申し分ない。
隔離クラスの中では珍しく、彼女は最初から極めて『優秀な優等生』だった。
だがレオンは教卓から彼女を観察し、小さく息を吐いた。
彼女のその完璧な態度の裏には、誰よりも冷酷で、人間という生き物を全く信用していない深い暗闇が隠されていることを知っていたからだ。
昼休みの鐘が鳴り、エリスが給食のワゴンを押して教室に入ってきた。
今日のメニューは、ゴロゴロと野菜の入ったトマトスープ、白身魚のフライ、パン。
そして珍しいことに、デザートとして小さなフルーツタルトが人数分用意されていた。
「今日は王都の支援物資が少しだけ届いたので、特別にデザートがあります。喧嘩せずに分けてくださいね」
エリスがそう言って微笑むと、リュカが「甘い匂い!」と真っ先に跳ね起きた。
ガルドも「たまにはマシなもんが出るじゃねえか」と機嫌良さそうに立ち上がる。
レオンが配膳を指示しようとした時、セレスがスッと席を立ち、優雅な足取りでワゴンの前に進み出た。
「エリス先生、配膳は私が手伝いますわ」
「あら、セレスさん。ありがとうございます。助かりますわ」
エリスは感心したように微笑み、セレスにトレイを任せた。
だがセレスの狙いは、ただの親切やボランティアではない。
彼女はフルーツタルトの乗った小皿を一つ手に取ると、真っ直ぐにリュカの元へ歩み寄った。
「リュカさん。あなた、甘いものはお好きかしら?」
「ん。お菓子、好き」
「そう。では、私の分のフルーツタルトをあなたに差し上げてもよくてよ。その代わり、午後に私が頼む雑用を一つ、こなしてくださらない?」
リュカはタルトとセレスを交互に見比べ、パタパタと尻尾を振った。
「……雑用、めんどくさい。でも、お菓子食べたい。……やる」
「交渉成立ですわね。頼みましたわよ」
セレスはタルトをリュカのトレイに置き、ふふっと優雅に微笑んだ。
続いて彼女は、スープの入った器を持ってガルドの机へ向かった。
「ガルド君。午後の魔法陣の課題、まだ終わっていませんわよね?先ほど頭を抱えていらっしゃるのが見えましたわ」
「う、うるせえ!これからやるところだ!」
「強がらなくても結構ですわ。私の授業ノートの写しを貸して差し上げます。その代わり、今日の私の分の食器の片付けはあなたがなさい」
「はあ!?なんで俺がてめえの食器を……!」
「嫌ならご自分で計算することですわね。また脳から黒い煙を出して、レオン先生に呆れられたいのかしら?」
ガルドはギリッと奥歯を噛み締め、複雑な葛藤の表情を浮かべた。
あの複雑な術式計算を自力で解く苦労と、食器を片付けるだけの手間を天秤にかけているのだ。
「……ちっ、貸せ!片付けりゃいいんだろ!」
「ええ、賢明な判断ですわ」
セレスはスープをガルドの机に置き、満足げに自分の席へと戻っていった。
彼女は自分のトレイを机に置くと、食事に手をつける前に引き出しから赤い表紙のノートを取り出した。
そして羽根ペンを走らせ、サラサラと何かを書き込み始める。
教卓でその一部始終を見ていたレオンは、ため息をつきながらセレスの机の前に歩み寄った。
「セレス。給食を交渉材料にするな。飯は普通に食え」
「あら、先生。私はただ、お互いの利害を一致させる合理的な貸し借りを行っただけですわ。リュカさんは甘いものが手に入り、ガルド君は苦手な計算を回避できる。私は雑務から解放される。誰も損をしておりません」
セレスは悪びれる様子もなく、涼しい顔で紅茶のカップを傾けた。
レオンは、セレスの机の上に置かれた赤いノートに目を留めた。
ノートはきちんと閉じられ、小さな金属の留め具で固定されている。
いかにも彼女らしい、几帳面で隙のない管理だった。
「それは授業のノートか?」
レオンが何気なく尋ねると、セレスは優雅な微笑みを浮かべたまま、そっと赤いノートの上に手を置いた。
「ええ。私なりの観察記録ですわ。教師の方にお見せするほどのものではありません」
その声は穏やかだった。
だが、ノートに添えた指先が、ほんのわずかに震えていた。
レオンはその一瞬の反応を見逃さなかった。
「見せられない内容なのか?」
「……先生。淑女の私物を詮索するのは、少々品位に欠けますわよ」
セレスは微笑みを崩さないまま、ノートを自分の方へ引き寄せようとした。
だがその動きには、彼女らしくない焦りが混じっていた。
指先が留め具に触れた拍子に、小さな金具がかちりと外れる。
閉じられていた赤いノートが、彼女の手元でぱさりと開いた。
「……っ」
セレスはすぐに閉じようとした。
だがその一瞬、開かれた見開きにびっしりと書き込まれた文字が、レオンの目に入った。
『リュカ・ウォルフ:思考は野生動物に近い。食料、特に嗜好品による買収が極めて容易。労働力としての使役価値あり』
『ガルド・バルガ:自尊心が高く挑発に乗りやすい。知的労働を極端に嫌うため、情報と解答を餌にすれば操作可能』
『ミリア・フロストレイン:罪悪感と責任感が強い。誰かが傷ついた場面では自己犠牲的に動く傾向あり。同情心を利用すれば誘導可能』
『ノア・レイス:死者や過去の記憶への共感が強い。以前は孤独を突けば誘導可能だったが、現在はクラスとの関係構築により反応が鈍化。要再評価』
クラスメイトの長所や性格を記したものではない。
相手の『弱点』を握り、いかにして自分に都合よく動かすか、その操作方法だけが冷酷に記された記録だった。
だが、その赤いノートのどこにも、セレス自身の欄はなかった。
他人を分析する目は鋭いのに、自分だけは盤面の外に置いている。
その歪さこそが、レオンには一番危うく見えた。
その危うさを見た瞬間、レオンの視界の縁が赤く滲んだ。
終末視の発動。
『【未来の血塗れ女帝】粛清者数、十万人。破滅原因:裏切りへの恐怖』
レオンの脳裏に、凄惨な未来の幻視が流れ込んでくる。
血の海に沈んだ王城。
豪華な玉座に足を組んで座る、成長したセレスの姿。
彼女の足元には、かつて彼女に仕えていたであろう無数の貴族や騎士たちの骸が転がっている。
彼女の手には、今机の上にあるのと同じ赤いノートが握られていた。
ただしそこに書かれているのは弱点ではない。
少しでも自分を裏切る可能性のある者、自分に脅威をもたらすかもしれない者をリストアップした『処刑名簿』だった。
彼女は誰も信じず、誰も寄り付かせず、ただ恐怖と粛清によってのみ国を支配する孤独な女帝となる。
それが、セレス・ヴァーミリオンが辿り着く最悪の未来だった。
「……ずいぶんと物騒なノートだな」
レオンは幻視を振り払い、気だるげな声で言った。
「クラスメイトの観察日記か?いや、これは弱点リストだな」
「観察日記だなんて、そんな可愛らしいものではありませんわ」
セレスは全く隠そうともせず、むしろ誇らしげにノートを閉じた。
「備えですわ、先生。人間という生き物は、状況次第で平気で嘘をつき、己の利益のために簡単に他人を裏切ります。裏切られてから対処していては遅いでしょう?だからその前に、こちらが弱点を握っておく。相手が裏切れない状況を作る。それが、上に立つ者の鉄則というものです」
「お前は、クラスメイトを盤上の駒だとでも思っているのか?」
「ええ、その通りですわ。彼らにはそれぞれ役割があります。私はそれを整理し、誰も裏切れないように管理するだけです」
セレスの赤い瞳には、一切の温もりがなかった。
彼女は本気で、人間同士の信頼や友情などというものを、くだらない幻想だと切り捨てているのだ。
ミリアの氷壁に守られた時も、ガルドの黒炎に助けられた時も、彼女はそれを『優秀な防衛力』や『有用な戦力』としてしか評価していなかった。
レオンは彼女の瞳の奥に、分厚い氷のような冷たさと、強固な自尊心で隠された深い『恐怖』を見抜いていた。
裏切られるのが怖い。
信じて、足元をすくわれるのが怖い。
だから誰も信じない。
信じるくらいなら管理する。
任せるくらいなら支配する。
それがどんな過去から来るものなのか、レオンはまだ詳しく知らない。
だが少なくともその冷たい支配欲の奥に、ただの高慢さだけではない深い傷が隠れていることだけは分かった。
「人を疑う目は悪くない」
レオンはノートから視線を外し、セレスを真っ直ぐに見下ろした。
「戦場でも貴族社会でも、無防備に人を信じれば簡単に命を落とす。お前のその警戒心は、お前自身を守るための立派な武器だ」
レオンの言葉に、セレスは少しだけ意外そうな顔をした。
頭ごなしに『仲間を信じなさい』というような、薄っぺらい道徳を押し付けられると思っていたからだ。
だがレオンの言葉はそこで終わりではなかった。
「だがな、セレス。ずっと盤の外から駒を動かしているつもりなら、いつか必ず足元をすくわれるぞ。人を信じられないまま、恐怖と弱点だけで人を縛り付けていれば、最後に残るのはお前一人だけだ」
「ふふっ。それで構いませんわ」
セレスはレオンの忠告を、鼻で笑って切り捨てた。
「裏切られて惨めな思いをするくらいなら、孤独な頂点こそが正しい場所ですわ。私は誰にも頼りません。私一人で、すべてを完璧に支配してみせますわ」
彼女の強固な殻は、レオンの言葉一つで崩れるほど脆いものではなかった。
レオンはそれ以上説教を重ねることはせず、ただ気だるげに息を吐いた。
彼女が本当に『信頼』という変数の大きさを知るのは、彼女自身の完璧な計算が崩れ去った時しかないだろう。
「まあいい。だが給食が冷めるぞ。交渉が終わったなら、さっさと食え」
「ええ、いただきますわ。エリス先生の淹れてくださった紅茶が冷めてしまっては台無しですから」
セレスはナイフとフォークを手に取り、白身魚のフライを一口大に切り分けて優雅に口に運んだ。
ガルドは「ちくしょう、なんで俺があいつに頭を下げなきゃならねえんだ……」とぶつぶつ文句を言いながらスープを飲み、リュカは嬉しそうに二つ目のフルーツタルトを頬張っている。
ミリアはそんな彼らの様子を見て、少しだけ困ったように笑った。
レオンは教卓に戻り、自分の分の給食を食べ始めた。
氷壁の守護者、黒炎の番長、魂送りの賢者。三人の未来は、確かに変わった。
だがこの教室にはまだ世界を滅ぼす災厄の種が残っている。
誰も信じず、他者を駒として扱い、裏切りを極端に恐れる孤独な令嬢。
レオンの視界の端で明滅する『未来の血塗れ女帝』の文字は、いまだ禍々しい赤色を保ったままだった。
(支配、か。お前が一番恐れているものを、お前自身が誰よりも増やしているんだがな)
レオンはフルーツタルトを一口で放り込みながら、心の中でそう呟いた。
これまで静かに教室を観察していた問題児、血塗れ女帝候補の本格的な指導が今ここから始まろうとしていた。
ミリアの周囲を覆っていた極寒の吹雪は消え、彼女は黒い手袋をした手で真面目にノートを取っている。
ガルドは相変わらず机に足を乗せているが、苛立ち任せに教室を黒炎で焦がすことはなくなった。
ノアは分厚い魔導書を読みながらも、生者の世界に確かな興味を向け始めている。
リュカは窓からの日差しを浴びて気持ちよさそうに丸まって寝ていたが、レオンの声には耳だけをピクリと動かして反応するようになっていた。
一見すると、少しばかり個性的だが普通の教室の風景だ。
だがその中で一人だけ、当初から全く態度を変えていない生徒がいた。
赤い瞳の令嬢、セレス・ヴァーミリオンである。
彼女は背筋をピンと伸ばして優雅に座り、レオンの歴史の授業を完璧な態度で受けていた。
黒板の板書を綺麗な字で書き写し、レオンが質問を投げかければ、いとも容易く完璧な正答を返す。
魔力制御も精密で、貴族令嬢としての礼儀作法も申し分ない。
隔離クラスの中では珍しく、彼女は最初から極めて『優秀な優等生』だった。
だがレオンは教卓から彼女を観察し、小さく息を吐いた。
彼女のその完璧な態度の裏には、誰よりも冷酷で、人間という生き物を全く信用していない深い暗闇が隠されていることを知っていたからだ。
昼休みの鐘が鳴り、エリスが給食のワゴンを押して教室に入ってきた。
今日のメニューは、ゴロゴロと野菜の入ったトマトスープ、白身魚のフライ、パン。
そして珍しいことに、デザートとして小さなフルーツタルトが人数分用意されていた。
「今日は王都の支援物資が少しだけ届いたので、特別にデザートがあります。喧嘩せずに分けてくださいね」
エリスがそう言って微笑むと、リュカが「甘い匂い!」と真っ先に跳ね起きた。
ガルドも「たまにはマシなもんが出るじゃねえか」と機嫌良さそうに立ち上がる。
レオンが配膳を指示しようとした時、セレスがスッと席を立ち、優雅な足取りでワゴンの前に進み出た。
「エリス先生、配膳は私が手伝いますわ」
「あら、セレスさん。ありがとうございます。助かりますわ」
エリスは感心したように微笑み、セレスにトレイを任せた。
だがセレスの狙いは、ただの親切やボランティアではない。
彼女はフルーツタルトの乗った小皿を一つ手に取ると、真っ直ぐにリュカの元へ歩み寄った。
「リュカさん。あなた、甘いものはお好きかしら?」
「ん。お菓子、好き」
「そう。では、私の分のフルーツタルトをあなたに差し上げてもよくてよ。その代わり、午後に私が頼む雑用を一つ、こなしてくださらない?」
リュカはタルトとセレスを交互に見比べ、パタパタと尻尾を振った。
「……雑用、めんどくさい。でも、お菓子食べたい。……やる」
「交渉成立ですわね。頼みましたわよ」
セレスはタルトをリュカのトレイに置き、ふふっと優雅に微笑んだ。
続いて彼女は、スープの入った器を持ってガルドの机へ向かった。
「ガルド君。午後の魔法陣の課題、まだ終わっていませんわよね?先ほど頭を抱えていらっしゃるのが見えましたわ」
「う、うるせえ!これからやるところだ!」
「強がらなくても結構ですわ。私の授業ノートの写しを貸して差し上げます。その代わり、今日の私の分の食器の片付けはあなたがなさい」
「はあ!?なんで俺がてめえの食器を……!」
「嫌ならご自分で計算することですわね。また脳から黒い煙を出して、レオン先生に呆れられたいのかしら?」
ガルドはギリッと奥歯を噛み締め、複雑な葛藤の表情を浮かべた。
あの複雑な術式計算を自力で解く苦労と、食器を片付けるだけの手間を天秤にかけているのだ。
「……ちっ、貸せ!片付けりゃいいんだろ!」
「ええ、賢明な判断ですわ」
セレスはスープをガルドの机に置き、満足げに自分の席へと戻っていった。
彼女は自分のトレイを机に置くと、食事に手をつける前に引き出しから赤い表紙のノートを取り出した。
そして羽根ペンを走らせ、サラサラと何かを書き込み始める。
教卓でその一部始終を見ていたレオンは、ため息をつきながらセレスの机の前に歩み寄った。
「セレス。給食を交渉材料にするな。飯は普通に食え」
「あら、先生。私はただ、お互いの利害を一致させる合理的な貸し借りを行っただけですわ。リュカさんは甘いものが手に入り、ガルド君は苦手な計算を回避できる。私は雑務から解放される。誰も損をしておりません」
セレスは悪びれる様子もなく、涼しい顔で紅茶のカップを傾けた。
レオンは、セレスの机の上に置かれた赤いノートに目を留めた。
ノートはきちんと閉じられ、小さな金属の留め具で固定されている。
いかにも彼女らしい、几帳面で隙のない管理だった。
「それは授業のノートか?」
レオンが何気なく尋ねると、セレスは優雅な微笑みを浮かべたまま、そっと赤いノートの上に手を置いた。
「ええ。私なりの観察記録ですわ。教師の方にお見せするほどのものではありません」
その声は穏やかだった。
だが、ノートに添えた指先が、ほんのわずかに震えていた。
レオンはその一瞬の反応を見逃さなかった。
「見せられない内容なのか?」
「……先生。淑女の私物を詮索するのは、少々品位に欠けますわよ」
セレスは微笑みを崩さないまま、ノートを自分の方へ引き寄せようとした。
だがその動きには、彼女らしくない焦りが混じっていた。
指先が留め具に触れた拍子に、小さな金具がかちりと外れる。
閉じられていた赤いノートが、彼女の手元でぱさりと開いた。
「……っ」
セレスはすぐに閉じようとした。
だがその一瞬、開かれた見開きにびっしりと書き込まれた文字が、レオンの目に入った。
『リュカ・ウォルフ:思考は野生動物に近い。食料、特に嗜好品による買収が極めて容易。労働力としての使役価値あり』
『ガルド・バルガ:自尊心が高く挑発に乗りやすい。知的労働を極端に嫌うため、情報と解答を餌にすれば操作可能』
『ミリア・フロストレイン:罪悪感と責任感が強い。誰かが傷ついた場面では自己犠牲的に動く傾向あり。同情心を利用すれば誘導可能』
『ノア・レイス:死者や過去の記憶への共感が強い。以前は孤独を突けば誘導可能だったが、現在はクラスとの関係構築により反応が鈍化。要再評価』
クラスメイトの長所や性格を記したものではない。
相手の『弱点』を握り、いかにして自分に都合よく動かすか、その操作方法だけが冷酷に記された記録だった。
だが、その赤いノートのどこにも、セレス自身の欄はなかった。
他人を分析する目は鋭いのに、自分だけは盤面の外に置いている。
その歪さこそが、レオンには一番危うく見えた。
その危うさを見た瞬間、レオンの視界の縁が赤く滲んだ。
終末視の発動。
『【未来の血塗れ女帝】粛清者数、十万人。破滅原因:裏切りへの恐怖』
レオンの脳裏に、凄惨な未来の幻視が流れ込んでくる。
血の海に沈んだ王城。
豪華な玉座に足を組んで座る、成長したセレスの姿。
彼女の足元には、かつて彼女に仕えていたであろう無数の貴族や騎士たちの骸が転がっている。
彼女の手には、今机の上にあるのと同じ赤いノートが握られていた。
ただしそこに書かれているのは弱点ではない。
少しでも自分を裏切る可能性のある者、自分に脅威をもたらすかもしれない者をリストアップした『処刑名簿』だった。
彼女は誰も信じず、誰も寄り付かせず、ただ恐怖と粛清によってのみ国を支配する孤独な女帝となる。
それが、セレス・ヴァーミリオンが辿り着く最悪の未来だった。
「……ずいぶんと物騒なノートだな」
レオンは幻視を振り払い、気だるげな声で言った。
「クラスメイトの観察日記か?いや、これは弱点リストだな」
「観察日記だなんて、そんな可愛らしいものではありませんわ」
セレスは全く隠そうともせず、むしろ誇らしげにノートを閉じた。
「備えですわ、先生。人間という生き物は、状況次第で平気で嘘をつき、己の利益のために簡単に他人を裏切ります。裏切られてから対処していては遅いでしょう?だからその前に、こちらが弱点を握っておく。相手が裏切れない状況を作る。それが、上に立つ者の鉄則というものです」
「お前は、クラスメイトを盤上の駒だとでも思っているのか?」
「ええ、その通りですわ。彼らにはそれぞれ役割があります。私はそれを整理し、誰も裏切れないように管理するだけです」
セレスの赤い瞳には、一切の温もりがなかった。
彼女は本気で、人間同士の信頼や友情などというものを、くだらない幻想だと切り捨てているのだ。
ミリアの氷壁に守られた時も、ガルドの黒炎に助けられた時も、彼女はそれを『優秀な防衛力』や『有用な戦力』としてしか評価していなかった。
レオンは彼女の瞳の奥に、分厚い氷のような冷たさと、強固な自尊心で隠された深い『恐怖』を見抜いていた。
裏切られるのが怖い。
信じて、足元をすくわれるのが怖い。
だから誰も信じない。
信じるくらいなら管理する。
任せるくらいなら支配する。
それがどんな過去から来るものなのか、レオンはまだ詳しく知らない。
だが少なくともその冷たい支配欲の奥に、ただの高慢さだけではない深い傷が隠れていることだけは分かった。
「人を疑う目は悪くない」
レオンはノートから視線を外し、セレスを真っ直ぐに見下ろした。
「戦場でも貴族社会でも、無防備に人を信じれば簡単に命を落とす。お前のその警戒心は、お前自身を守るための立派な武器だ」
レオンの言葉に、セレスは少しだけ意外そうな顔をした。
頭ごなしに『仲間を信じなさい』というような、薄っぺらい道徳を押し付けられると思っていたからだ。
だがレオンの言葉はそこで終わりではなかった。
「だがな、セレス。ずっと盤の外から駒を動かしているつもりなら、いつか必ず足元をすくわれるぞ。人を信じられないまま、恐怖と弱点だけで人を縛り付けていれば、最後に残るのはお前一人だけだ」
「ふふっ。それで構いませんわ」
セレスはレオンの忠告を、鼻で笑って切り捨てた。
「裏切られて惨めな思いをするくらいなら、孤独な頂点こそが正しい場所ですわ。私は誰にも頼りません。私一人で、すべてを完璧に支配してみせますわ」
彼女の強固な殻は、レオンの言葉一つで崩れるほど脆いものではなかった。
レオンはそれ以上説教を重ねることはせず、ただ気だるげに息を吐いた。
彼女が本当に『信頼』という変数の大きさを知るのは、彼女自身の完璧な計算が崩れ去った時しかないだろう。
「まあいい。だが給食が冷めるぞ。交渉が終わったなら、さっさと食え」
「ええ、いただきますわ。エリス先生の淹れてくださった紅茶が冷めてしまっては台無しですから」
セレスはナイフとフォークを手に取り、白身魚のフライを一口大に切り分けて優雅に口に運んだ。
ガルドは「ちくしょう、なんで俺があいつに頭を下げなきゃならねえんだ……」とぶつぶつ文句を言いながらスープを飲み、リュカは嬉しそうに二つ目のフルーツタルトを頬張っている。
ミリアはそんな彼らの様子を見て、少しだけ困ったように笑った。
レオンは教卓に戻り、自分の分の給食を食べ始めた。
氷壁の守護者、黒炎の番長、魂送りの賢者。三人の未来は、確かに変わった。
だがこの教室にはまだ世界を滅ぼす災厄の種が残っている。
誰も信じず、他者を駒として扱い、裏切りを極端に恐れる孤独な令嬢。
レオンの視界の端で明滅する『未来の血塗れ女帝』の文字は、いまだ禍々しい赤色を保ったままだった。
(支配、か。お前が一番恐れているものを、お前自身が誰よりも増やしているんだがな)
レオンはフルーツタルトを一口で放り込みながら、心の中でそう呟いた。
これまで静かに教室を観察していた問題児、血塗れ女帝候補の本格的な指導が今ここから始まろうとしていた。




