幕間3「骨の友達と、先生の背中」
ノア・レイスの瞳に映る世界は、いつも少しだけ生者のそれとは違っていた。
最愛の妹が病で命を落とし、失意の底で禁じられた死霊術の魔導書を開いたあの日から。
ノアの視界には、生者には見えないものがはっきりと映るようになったのだ。
王都の街角を歩けば、そこかしこに青白く透き通った未練の形が漂っていた。
悲しみ、怒り、後悔、そして帰りたいという切実な願い。
ノアは漂う死者たちの思念に耳を傾ける一方で、魂の宿っていない小動物の骨へ青白い魔力を流し込み、自分の傍で動かしていた。
彼らはノアの孤独を埋めてくれる、静かで優しい『友達』だった。
だがその代償として、ノアは生者の世界から完全に弾き出されてしまった。
『死者を冒涜する悪魔の子だ!』
『なんて気味が悪いんだ、近づくな!』
王都の大人たちはノアに石を投げ、同級生たちはノアの姿を見るだけで悲鳴を上げた。
誰もノアの悲しみを見ようとはしなかった。
彼がただ死者と静かに話しているだけで、世界は彼を『異常な化け物』だと断じたのだ。
だからノアも、生者の世界を諦めることにした。
生者は平気で嘘をつくし、残酷な言葉を吐くし、そしていつか必ず死んで自分を置いていく。
でも死者は違う。
彼らは勝手にどこかへ行かないし、絶対にノアを裏切らない。
そうやってノアは自分の心を固く閉ざし、冷たい死の世界にだけ自分の居場所を作り上げてきたのだ。
それが辺境学院に来るまでの、ノアのすべてだった。
だが今。
辺境学院の旧校舎にある特別隔離教室で、ノアは真新しい革張りのノートにペンを走らせていた。
放課後の穏やかな日差しが差し込む中、彼がノートに書き込んでいるのは古戦場跡で魂を送った兵士たちの名前や、彼らが残していた記憶の断片だ。
足元では小さな骨の鳥がカタカタと乾いた音を立てて歩き回り、ノアの足首に頭をすり寄せている。
そして教室の端では、ノアが魔力で動かしている一体の人間型の骸骨が、箒を手にして器用に床を掃き清めていた。
「おいノア、ついでに俺の机の下も掃かせろ」
教室の後方から、赤髪のガルド・バルガがぶっきらぼうに声をかけてきた。
ノアはペンを動かしたまま、淡々と顔も上げずに返す。
「ガルドが昨日の給食でこぼしたパン屑のせいでしょ。自分で掃いてよ」
「ケチケチすんなよ。お前のその骨、文句も言わずに掃除するから便利なんだよ」
「ガルドくん、もう少し優しく言ってあげてください。ノアくんも、骨さんも、いつもお掃除を手伝ってくれて……ありがとうございます」
ミリアが黒い手袋をした両手で本を抱えながら、優しく微笑みかける。
「ええ。最初は骨が動くなんて気味が悪いと思いましたけれど、無言で完璧に仕事をする分、そこらの粗暴な生徒よりよほど優秀ですわね」
セレスが優雅に紅茶のカップを傾けながら、骸骨の掃除の手際を高く評価した。
「骨、面白そう。ちょっと噛むだけならいい?」
リュカが床で寝そべりながら、骸骨の足の骨を見つめている。
「リュカ、かじったらお腹を壊すからやめて」
ノアは小さくため息をつきながらも、指先を動かして骸骨にガルドの机の下を掃くように指示を出した。
カタカタと音を立てて骸骨が掃除を再開する。
その光景を見つめながら、ノアの胸の奥には不思議なほどの温かさが満ちていた。
王都の学院では、骨が動くだけで悲鳴が上がり、ノアは悪魔だと罵られた。
だがこの教室の仲間たちは、最初は驚いていたものの、今では「便利な雑用係」としてあっさりとノアの魔法を受け入れているのだ。
死霊術を異常だと拒絶せず、当たり前のようにノアと接してくれる。
それがノアにとって、どれほど救いになっているか彼らは知らないだろう。
ノアは視線を前に向けた。
教卓には、いつものように黒いコートを着た担任教師レオン・グランヴァルトが座り、日誌に何かを書き込んでいる。
彼こそが、ノアの閉ざされた世界を完全に反転させた張本人だった。
『死霊術は死者を冒涜する力じゃない。死者の声を聞き、未練を解いてやるための力にもなるはずだ』
あの古戦場で、レオンはノアの力をそう肯定してくれた。
ずっと「死者を自分の傍に縛り付けるための力」だと思っていた死霊術。
だがノアはあの時初めて死者の未練を解き、彼らを空へと送る儀式を行った。
そして王都の調査隊が引き起こした亡霊の暴走や巨大な竜の骨の脅威から、クラスメイトたちを守るために戦ったのだ。
死者を救い、生者を助ける力。
自分が呪わしく異常だと思い込んでいた死霊術に、そんな優しくて尊い意味があるだなんて思いもしなかった。
自分の力が誰かの役に立ち、そして自分もまた生者の中に居場所を持っていいのだと知った時。
ノアの世界から、冷たい虚無の色は完全に消え去っていた。
「……あー、肩が凝るな」
不意に、教卓に座っていたレオンが日誌から顔を上げ、大きく首を回してぼやいた。
「王都の馬鹿共の相手や、お前らの面倒を見るストレスで首筋がガチガチだ。エリス先生の小言も肩にくるからな」
レオンは気だるげに自分の右肩をトントンと叩いている。
ノアはそれを聞いて、少しだけ首を傾げてから右手に青白い魔力を灯した。
ノアが指先をくいっと動かすと、教室の掃除を終えようとしていた骸骨が、ピタリと動きを止めた。
そして箒を壁に立てかけると、カタカタと音を立てながら教卓のレオンの背後へと歩いていく。
レオンは背後の気配に気づいていたが、そこに一切の殺気がないため振り返らずに日誌を書き続けていた。
その瞬間。
骸骨の硬い指の骨が、レオンの両肩にガシッと乗った。
「ん?」
レオンが動きを止める。
骸骨はカタカタとリズミカルに指の骨を動かし、レオンの首筋から肩にかけて、器用にマッサージを始めたのだ。
グッグッ、と硬い指先が的確に筋肉の凝ったツボを押し、絶妙な力加減で揉みほぐしていく。
レオンは完全に固まったまま、ゆっくりと背後を振り返った。
そこには、空っぽの眼窩をこちらに向けたまま、ひたすらに肩を揉み続ける骸骨の姿があった。
レオンは深く息を吐き、教室の隅に座っているノアを見据えた。
「……おいノア。これは何の嫌がらせだ?」
ノアは真顔のまま、堂々と答えた。
「嫌がらせではありません。先生がとても疲れているようだったので、僕の友達に手伝わせました」
「友達って、この骨のことか」
「はい。僕が細かく動かしているうちに、妙に肩揉みが上手くなりました。腕は確かですよ」
「……」
レオンは眉間を押さえ、なんとも言えない微妙な顔をした。
「嫌ならやめさせますけど」
ノアが指先を動かそうとすると、レオンは軽く手を挙げてそれを制した。
「……いや。確かに力加減は完璧だ。俺の凝っているツボに正確に入っている。……だがなノア」
「はい」
「冷たくて硬い骨の指が直接首筋に当たる感触が、最高にホラーなんだが」
レオンの心底嫌そうな抗議に、ノアはたまらず小さく吹き出した。
「贅沢言わないでください。死者に真心を込めて肩を揉んでもらえる人間なんて、世界中探しても先生くらいですよ」
「違いないな……」
レオンは諦めたように深い溜息をつき、再び机に向かって日誌を書き始めた。
骸骨は「任せておけ」と言わんばかりにカタカタと顎を鳴らし、一生懸命にレオンの肩を揉み続けている。
ガルドがそれを見て「おい、後で俺の肩も揉ませろよ!」と笑い、ミリアとセレスもくすくすと声を上げて笑っていた。
リュカは相変わらず骨の匂いを嗅ぎに近づいている。
ノアはその賑やかな光景を見つめながら、日誌にペンを走らせる先生の横顔をじっと見ていた。
あの日、古戦場で自分の前に立ってくれた先生の背中を、ノアは今でもはっきり覚えている。死者と話せる異常な少年。
王都の暗い地下室で古い魔導書をめくっていた頃、ノアは一生自分は一人で生きていくのだと思っていた。
生者を拒絶し、死の世界に沈み込んでいくことだけが自分の運命だと。
けれど今は違う。
自分の異常だと思っていた力が、生者の凝りをほぐし、仲間を守り、そして死者を救っている。
かつて骨の友達は、ノアの孤独を埋めるためだけにそばにいた。
けれど今は、仲間の役に立ち、先生の疲れた肩までほぐしている。
そんな自分を当たり前のように受け入れてくれる先生と、温かい仲間たちがここにいる。
ノアの心の中には、もう冷たい死の気配はない。
ただ穏やかで温かい生者の時間が、日だまりのようにそこにあった。
ノアは自分のノートに目を落とし、誰にも聞こえない声で「ありがとう」と呟いた。
それが骨の友達への言葉なのか、先生への言葉なのか、今ここにある温かな時間への言葉なのか、ノア自身にもよく分からなかった。




