第28話「屍竜王の拒絶」
風が止んだ古戦場跡に、王都の特務調査隊の隊長が放つ狂気じみた号令が響き渡った。
「最大出力だ!あの忌まわしい骨もろとも、死霊術師のガキを拘束しろ!」
欲に濁った魔術師たちの杖の先から、幾重にも編み込まれた巨大な光の鎖が射出される。
それは魂を鎮めるものではない。
死者の尊厳を削り取り、ただ王国の兵器として使役するためだけの非情な魔力だ。
ようやく心を通わせ、静かな眠りにつこうとしていたノアと竜骨に向けて、無数の鎖が牙を剥いて殺到する。
「てめえら、いい加減にしろよ!」
ガルドが怒号を上げ、両手に黒炎を圧縮して前に出ようとした。
ミリアも再び氷壁を展開すべく魔力を練り上げる。
レオンは腰の剣に手をかけ、神速の踏み込みで魔術師たちの杖をまとめて斬り払おうと重心を沈めた。
だが彼らが動くよりも早く、古戦場の大地が激しく揺れた。
ズゴォォォォンッ!!
空気を震わせるような爆発音と共に、巨大な竜骨から天を焦がすほどの青白い魔力が噴き出した。
それはノアの魔力ではない。
無理やり眠りを妨げられた上に、再び奴隷の鎖で縛られようとした屈辱が、ノアの対話で和らぎかけていた竜の魂を再び燃え上がらせたのだ。
底知れない怒りの奔流だった。
噴き出した青白い魔力は竜骨を包み込み、瞬く間に生前の巨大な肉体を幻影として形作っていく。
かつて大空を支配していた美しい銀色の鱗。
天を遮るほどの巨大な翼。
そして、すべてを威圧する圧倒的な王の威容。
肉体を持たない魔力だけの存在でありながら、その屍竜の幻影が放つプレッシャーは、古戦場の重力を何倍にも引き上げるほどに強大だった。
『我ラヲ、二度ト縛ラセルモノカァァッ!!』
屍竜の幻影が、天に向かって凄まじい咆哮を上げた。
ビリビリと空気が震え、特務調査隊が放った無数の光の鎖は、竜に届く前にパリパリと音を立てて飴細工のように砕け散っていく。
圧倒的な魔力の差だった。
兵器として制御できるなどという王都の魔術師たちの目論見は、驕りに満ちた完全な幻想に過ぎなかったのだ。
「ば、馬鹿な……っ!?光の鎖が、一瞬で……!」
「隊長!計器が爆発しました!これ以上の魔力計測は不可能です!逃げてください、あれは人間が手を出していい存在ではありません!」
魔術師たちがパニックに陥り、次々と武器を投げ出して後退りし始める。
隊長の顔からは先ほどまでの傲慢な笑みが完全に消え失せ、死の恐怖に青ざめていた。
屍竜の幻影は、自分を縛ろうとした王都の魔術師たちを、憎悪に満ちた青白い眼光で見下ろした。
大きく顎を開く。
その口の奥底で、周囲の空間を凍結させるほどの絶対零度のブレスが極限まで圧縮されていく。
撃てば間違いなく、調査隊の魔術師たちは一瞬で氷の塵となって消え去るだろう。
いや、それだけではない。
一度でも人間への復讐を果たしてしまえば、竜の魂は永遠に生者への憎悪に囚われることになる。
それは未来において人類を絶滅寸前まで追い込む『屍竜王』という災厄が、この世界に完全に産声を上げる瞬間を意味していた。
「……駄目だ!」
悲痛な叫び声と共に、一人の少年が飛び出した。
ノア・レイスだ。
彼は圧縮されていくブレスの射線上、屍竜の幻影と特務調査隊の間に両手を広げて立ち塞がった。
「ノア!」
エリスが悲鳴を上げ、ガルドたちが息を呑む。
今まさに放たれようとしている屍竜のブレスを前にしては、いかにノアの死霊術であっても相殺することは不可能だ。
だがレオンは剣の柄から手を離し、ノアを止めることなくその背中を静かに見守っていた。
これはレオンが斬って解決する問題ではない。
ノア自身が、死霊術師として死者とどう向き合うのかを決める最後の試練なのだ。
「やめるんだ!君はもう、怒らなくていい!」
ノアは吹き荒れる冷気の嵐に抗いながら、屍竜の幻影に向かって叫んだ。
屍竜の青白い眼光がノアを捉える。
なぜ止めるのか。
こいつらは我を殺し、骨を弄び、尊厳を踏みにじった憎き生者ではないか。
竜の魂から発せられる強烈な思念が、ノアの心に直接流れ込んでくる。
ノアにはその怒りが痛いほどよく分かった。
妹を奪われ、誰にも助けてもらえなかったあの時の自分と同じ、深い絶望と理不尽に対する怒りだ。
だからこそノアは、竜に自分と同じ過ちを犯してほしくはなかった。
「人間は愚かだ。勝手な都合で君を傷つけて、君の誇りを奪った。彼らを許せない気持ちは痛いほど分かる。でも、だからといって彼らを殺せば……君の魂は、永遠に憎しみの牢獄に縛られることになるんだ!」
ノアの叫びが、古戦場に響き渡る。
彼は一歩、また一歩と屍竜の幻影に向かって近づいていった。
「僕は、君を兵器になんてさせない。でも、復讐のための災厄にもさせたくないんだ。君は誇り高き空の王だったはずだ。憎しみに囚われたままの化け物になって、こんな暗い土の底で永遠に苦しむなんて、そんなの絶対に間違ってる!」
ノアの目から涙がこぼれ、青白い魔力の光となって空中に散っていく。
妹を取り戻したくて、死霊術の禁忌に手を染めた。
自分は寂しさを埋めるために、死者を道具のように操っていた。
その歪んだ執着から自分を救い出してくれたのは、逃げずに怒ってくれた不器用な大人の言葉と、共に温かいご飯を食べてくれた仲間たちの存在だった。
だから今度は自分が、この悲しい死者の魂を救わなければならない。
「もう、戦わなくていい。君を縛るものは、何もないんだ」
ノアは両手を伸ばし、屍竜の幻影の巨大な鼻先にそっと触れた。
肉体を持たない魔力の塊であるはずの幻影が、ノアの手に触れた瞬間、温かい光を帯びてわずかに揺らいだ。
「たくさん痛かったね。たくさん苦しかったね。でも、もうおやすみ。ここは君がいるべき場所じゃない。空高く、誰の縛りも受けない自由な場所へ……還っていいんだ」
ノアの魔力が、屍竜の怒りを優しく包み込んでいく。
それは支配するための鎖ではない。
未練を解きほぐし、帰るべき場所へと導くための、魂送りの光だった。
屍竜の幻影の口の奥で圧縮されていた絶対零度のブレスが、行き場を失ったようにシュゥゥッと音を立てて霧散していく。
青白く燃え盛っていた眼光の怒りが静まり、代わりに穏やかで安らかな色が宿った。
ノアの優しい声に導かれるように、巨大な屍竜の幻影が少しずつ光の粒子へと変わっていく。
それはまるで、冷たい冬の夜明けに降る淡い雪のようだった。
光の粒子は渦を巻きながら、鉛色の雲の隙間から差し込んだ夕日の光の中へと、ゆっくりと昇っていく。
竜の怒りに強く引かれていた魂の一部も、後を追うように空へ還った。
辺境学院へ向かって彷徨っていた兵士たちの影。
剣を握ったまま倒れた王国兵。
名も知られぬ魔王軍の兵。
帰る場所を失い、誰にも弔われないままこの地に縛られていた魂たち。
彼らはもう、怒りに突き動かされる死者の群れではなかった。
ノアの魂送りの声に導かれ、その光に呼応するように竜の怒りに強く引き寄せられていた亡霊たちの一部も、次々と淡くほどけ始めた。
そして幻影が完全に消え去ると同時に、古戦場の大地に突き出していた巨大な竜骨もまた、役目を終えたかのように音もなく風化し始めた。
サラサラと白い砂になり、冬の風に乗って大空へと還っていく。
世界を滅ぼすはずだった災厄の誕生は、一人の少年の純粋な魂送りの儀式によって、完全に防がれたのだ。
「あ、ああ……」
特務調査隊の隊長は、その奇跡のような光景を前にして完全に腰を抜かしていた。
強大な兵器のコアとなるはずだった竜の骨は、もう一欠片も残っていない。
彼らの野望は、ノアというたった一人の少年によって跡形もなく消し去られたのだ。
「何をしている!さっさと失せろ」
レオンが気だるげな足取りで隊長の前に歩み寄り、冷たく見下ろした。
「それとも、今度は俺が相手をしてやろうか?」
レオンの言葉に、隊長はひっ!と短い悲鳴を上げた。
彼は這うようにして立ち上がると、部下たちを怒鳴りつける余裕もなく、王都の方向へと全速力で逃げ出していった。
彼らが残していったのは、壊れた魔導具の破片と、無様な足跡だけだった。
古戦場跡に、静かな風が吹き抜ける。
竜の魂が還っていった空は、いつの間にか厚い雲が晴れ、美しい夕焼けが広がっていた。
ノアは竜が消えていった空を、静かに見上げていた。
彼の胸の中にある、妹を失った喪失感は消えていない。
きっと、これからも完全には消えない。
だが死者を自分の寂しさを埋めるために縛りつけたいという歪んだ執着だけは、少しずつほどけていくのを感じていた。
死者は自分の寂しさを埋めるための道具ではない。
彼らには彼らの還るべき場所があり、生者には生者の生きるべき時間がある。
「ノア!」
背後から声がして振り返ると、ガルド、ミリア、セレス、リュカが駆け寄ってきた。
「お前、あんなバカでかい骨の化け物の前に立つなんて、頭おかしいんじゃねえのか!死ぬかと思ったぞ!」
ガルドが文句を言いながらも、その顔には安堵の笑みが浮かんでいる。
「本当に……無事でよかったです。ノアくんの光、とても綺麗でした」
ミリアが両手を胸の前で組み、心からほっとしたように微笑む。
「まったく、肝を冷やしましたわ。ですが、あの野蛮な王都の連中が腰を抜かして逃げていく様は、最高の見世物でしたわね」
セレスが扇子で口元を隠しながら、皮肉げに笑う。
「ノア、すごい。おっきい骨、お空に飛んでった」
リュカが尻尾を振りながら、ノアの周囲をぴょんぴょんと跳ね回る。
ノアはクラスメイトたちの顔を一人ひとり見つめた。
彼らは皆、ノアを「気味の悪い死霊術師」として恐れるのではなく、ただのクラスメイトとして当たり前のように接してくれている。
生者はいつか死ぬ。
その恐怖は消えない。
だが今、この温かい時間だけは、絶対に嘘ではないとノアには分かっていた。
「……みんな、ありがとう」
ノアは照れくさそうに少しだけうつむき、小さく笑った。
それは彼が辺境学院に来てから、初めて見せた年相応の無邪気な笑顔だった。
レオンは少し離れた場所から、その光景を静かに見守っていた。
彼の視界の端で、ノアの頭上に浮かんでいた赤い文字が大きく揺らぐ。
『【未来の屍竜王】人類生存率、三パーセント。破滅原因:死者への執着』
その禍々しい文字は、完全には消えていない。
だが確かにひび割れ、赤黒い光の奥に、温かな琥珀色の光が差し始めていた。
レオンはそれを見て、静かに息を吐いた。
「エリス先生。王都の連中が戻ってくる前に、残っている魂も送るぞ。長丁場になる。何か腹に入れられるものはあるか?」
レオンが振り返ると、エリスとメルディアも微笑みながら頷いた。
死者を縛る鎖は断ち切られ、巨大な竜の魂は空へ還った。
だが古戦場には、まだ帰る場所を見つけられない魂が残されている。
生者たちはエリスが持参していた残りの携帯食を分け合い、ノアの次の授業を見届けるため、その場に残った。
ノアは一度だけ、竜が還っていった空を見上げた。
送るべき魂は、まだこの古戦場に残っている。
だから彼の魂送りの授業は、まだ終わっていない。




