第27話「魂送りの儀式」
冷たい風が吹き荒れる嘆きの古戦場跡に、怒号と魔力の衝突音が絶え間なく響き渡っていた。
巨大な竜の骨が放つ絶大な魔力に当てられ、大地から這い出してきた無数の青白い亡霊たちが、生者の気配を求めて巨大なうねりとなって辺境学院の方角へと押し寄せようとしている。
それを食い止めているのは、かつて王都から危険物として追放された隔離クラスの生徒たちだった。
「オラァッ!一匹も通さねぇぞ!」
ガルドが最前線に立ち、両手から凄まじい黒炎を噴き出させた。
彼の炎はかつてのように周囲を無差別に焼き尽くすものではない。
仲間たちを守るための巨大な黒炎の盾となり、迫り来る亡霊の群れを次々と呑み込み、その進行を魔力ごと押し留めていた。
「ガルドくん、右!」
ミリアが後方から叫び、両手を強く打ち合わせた。
大地から分厚い氷壁が幾重にもせり上がり、黒炎の盾を回り込もうとした亡霊たちの進路を塞ぐ。
彼女の氷は冷たい拒絶ではなく、仲間を背後で守るための堅牢な防波堤として機能していた。
「ノアの邪魔、させない」
リュカが氷壁の頂上を四つ足で駆け抜け、陣形から漏れ出した亡霊たちを銀色の残像を引きながら鋭い爪で切り裂いていく。
まだ誰かを守るという言葉を素直に受け入れたわけではない。
それでも今の彼女は、ノアの邪魔をするものを本能的に許さなかった。
「前衛は押しすぎないで!防衛線を維持することだけに集中なさい!ミリアさん、左翼の氷壁が薄くなっていますわ!」
セレスが赤い扇子を握りしめ、戦場全体を見渡しながら声を張った。
命令口調は相変わらずだった。
だがその視線は、誰かを支配するためではなく、今だけはノアを助けるために戦場を追っていた。
誰一人として逃げ出す者はいない。
彼らは皆、背後で目を閉じて竜骨と向き合っている一人の少年のために、必死で死線を支え続けていた。
そして生徒たちのさらに前方。
暴走し、凄まじい咆哮を上げながら暴れ狂う巨大な竜の骨を相手に、黒いコートを翻す元勇者がたった一人で立ち塞がっていた。
「グルルルルォォォォォッ!!」
竜骨が巨大な尻尾を鞭のように振るい、空気を引き裂きながらレオンへと叩きつける。
まともに直撃すれば城壁すら粉砕するであろう一撃。
レオンは気だるげな表情のまま一歩も退かず、腰の剣を抜き放って刃の腹でその一撃を斜めに受け流した。
強烈な衝撃のベクトルが空へと逸らされ、レオンの足元の大地がすり鉢状に吹き飛ぶ。
「デカい図体で暴れるな。今は俺の生徒が、いちばん大事な授業をしてるところだ」
レオンは剣を構え直し、鋭い闘気を放って竜骨の意識を自分一人に釘付けにする。
彼は竜骨を破壊しようとはしていない。
ノアが竜の魂と向き合うための時間を、自らの肉体を壁にして稼ぎ出しているのだ。
戦場の中心で、ノアは魔導書を持たず、震える両手を胸の前で重ねて静かに目を閉じていた。
彼の意識はすでに物理的な戦場から切り離され、竜骨の奥深くから溢れ出す濃密な魔力の奔流の中へと潜り込んでいる。
ノアの脳裏に、かつてレオンがかけてくれた言葉が鮮明に蘇っていた。
『死霊術は死者を冒涜する力じゃない。死者の声を聞き、未練を解いてやるための力にもなるはずだ』
これは死者を従えるための術ではない。
竜の魂との、最後の対話だった。
記憶を聞き、未練を解く。
魂送りに必要なのは、命令ではない。
名を聞くこと。
記憶に触れること。
未練を見つけること。
そして、まだ残っている鎖をほどくこと。
ノアはその一つ一つを、震える心で辿っていった。
ノアは自分の魔力を、対象を縛り付けるための鎖としてではなく、深く暗い水底へと沈んでいくための道標として使った。
やがてノアの意識は、真っ暗な精神世界の中央で激しく燃え盛る、巨大な青白い炎の塊の前にたどり着いた。
それが、竜の魂の原型だった。
ノアが近づいた瞬間、青白い炎が激しく揺らぎ、竜の凄惨な記憶がノアの心に直接流れ込んでくる。
それは、かつて空を飛んでいた誇り。
銀色の美しい鱗を輝かせ、誰の支配も受けずに風を切って飛翔していた自由な記憶。
だがその自由は、突然の下からの魔法攻撃によって無惨に奪い去られた。
それは戦争ではなかった。
希少な竜素材を求めた人間たちによる、組織的な狩りだった。
無数の炎や雷の魔法が竜の翼を焼き切り、竜はなすすべもなく、大地へと墜落した。
『我ハ……何モシテイナイ……タダ、空ヲ飛ンデイタダケダ……!』
墜落した竜に群がってきたのは、欲にまみれた目をした人間たちだった。
抵抗する力も残っていない竜の身体に、無数の槍が突き立てられた。
鱗は剥がされ、翼は切り落とされ、誇り高かった身体は素材として扱われた。
竜が最後に見たのは、勝利ではなく、欲に濁った人間たちの目だった。
そして価値のない巨大な骨格だけが、冷たい暗い土の中へと埋められ、何百年もの間見捨てられた。
その絶望と孤独はどれほどのものだっただろうか。
そして今日。
王都の特務調査隊が放った浄化魔法の余波と、古戦場に染みついた怨念によって、竜は再び眠りから引きずり出された。
ただ静かに眠ることすら許されず、そのうえ巨大な光の鎖で縛られ、今度は人間の戦争のための魔導兵器の核として、自我を完全に削り取られようとしたのだ。
『人間ハ、我ヲ殺シ、骨ヲ暴キ、ソレデモ飽キ足ラズ我ヲ奴隷ニトイウノカ!許サナイ……絶エテ滅ビヨ、人間共!!』
竜の魂から、世界そのものを焼き尽くそうとするほどの果てしない憎悪と痛みが噴き出した。
あまりにも強大で、あまりにも悲痛な怒りの奔流。
少し前のノアなら、この怒りに完全に同調し、人間への復讐を誓って未来の屍竜王へと変貌していただろう。
だが今のノアは違った。
「……痛かったね」
ノアは逃げることなく、激しく燃え盛る青白い炎に向かって真っ直ぐに歩み寄った。
「理不尽で、恐ろしかったよね。怒って当然だ。人間の中には、ひどいことをする人たちがいる。僕も、それは知っている。大好きな妹が死んだ時、世界に何の意味もないと思った。生きている人の声なんて、もう聞きたくないと思ったこともある。君の絶望と怒りは、僕にも少しだけ分かるよ」
ノアの言葉に、竜の炎が一瞬だけ揺らいだ。
ノアは躊躇うことなく、その燃え盛る炎の塊へとそっと両手を伸ばした。
「でもね。憎しみと寂しさに囚われて、死者だけの世界へ逃げようとしていた僕を見捨てないで、ちゃんと叱ってくれた大人がいたんだ」
ノアの手から、青白い魔力が優しく溢れ出す。
それは死者を操るための冷たい魔力ではない。
死者の凍りついた心を温かく包み込む、鎮魂の光だった。
「全部がそうじゃないんだって、僕は知ってしまったんだ。だから、君の怒りを世界にぶつけるのはやめてほしい」
ノアの魔力が、竜の魂を優しく抱きしめるように広がっていく。
「その代わり……君を縛る生者の鎖は、僕が全部壊してあげる。君はもう、絶対に誰の道具にもならない。僕が、君を終わりのない痛みから解放する」
竜の魂が驚愕に震えた。
自分を力で支配しに来たと思っていた人間から、未練に寄り添い、眠りへ送るという予想外の言葉を投げかけられたからだ。
ノアの魂送りの儀式が、竜の果てしない憎悪を少しずつ、確かに溶かし始めていく。
現実の古戦場跡。
暴れ狂い、レオンに向かって咆哮を上げていた巨大な竜骨の動きが、ピタリと止まった。
空洞の眼窩で激しく燃え盛っていた青白い炎が、穏やかで静かな鎮魂の光へと変わり始める。
「……やったな。ちゃんと届いたぞ、ノア」
レオンは剣を下ろし、ふっと口元に笑みを浮かべて息を吐いた。
竜骨の怒りが静まったことに呼応するように、隔離クラスの生徒たちに猛攻を仕掛けていた亡霊の群れも、ピタリと動きを止めた。
彼らは憎悪の牙を収め、ゆらゆらと古戦場に立ち尽くしている。
ノアの対話が、死者たちの暴走を完全に沈静化させたのだ。
誰もが安堵の息を漏らし、これですべてが終わったと思った。
だがその静寂を、許しがたい強欲な声が引き裂いた。
「今だ!あの忌まわしい骨の暴走が止まったぞ!」
竜骨の暴走に巻き込まれない位置まで後退し、観測機で状況を窺っていた特務調査隊の隊長が、歪んだ笑みを浮かべて古戦場の外縁に姿を現したのだ。
彼は怯える部下たちを怒鳴りつけ、巨大な魔法陣の展開準備を再開させる。
「あの死霊術師のガキが骨を抑え込んでいる今こそが、絶好の好機だ!最大出力で拘束魔法を準備しろ!あの骨も、死霊術師のガキもまとめて捕獲し、王都の魔導兵器の核にするのだ!」
欲にまみれた王都の魔術師たちの杖に、再び冷たい光が灯り始める。
ようやく心を通わせ、静かな眠りにつこうとしていた無防備なノアと竜骨に向け、非情な命令が下されようとしていた。
王都の正義という名の救いようのない傲慢が、ノアが完成させようとしている魂送りの儀式を、再び無惨に踏みにじろうと迫っていた。




