第26話「死者を縛るな」
ズズンッ、と重い地鳴りが古戦場跡を揺らした。
巨大な竜の骨が咆哮を上げる中、レオンは青白い魔力に呑まれかけているノアを真っ直ぐに見据え、大地を力強く蹴った。
竜骨を斬れば、ノアの精神ごと深く傷つけてしまう。
だからこそ斬るべきは、ノアと竜骨の憎悪を繋いでいるその異常な共鳴そのものだ。
「おおおぉぉぉっ!!」
竜の骨が空気を震わせて叫ぶ中、レオンは一閃の剣を振り抜いた。
魔王討伐の旅で、レオンは幾度となく呪いと契約の鎖を断ち切ってきた。
元勇者の闘気は、刃の届かない魔力の流れすら斬る。
物理的な刃ではなく、魔力の繋がりそのものを的確に断ち切る神速の剣閃だった。
パァァァンッ!と青白い魔力の鎖が砕け散り、ノアはハッとして膝から崩れ落ちた。
「ノア!」
レオンが間髪入れずにノアの襟首を掴み、後方へと大きく跳躍する。
直後、ノアが先ほどまでいた場所を巨大な骨の尻尾が凄まじい風圧と共に薙ぎ払った。
ノアは自分の両手を見つめ、荒い息を吐いた。
「僕は……何を……」
「危ないところだったな。あと少しで、お前はあいつの果てしない憎悪に完全に呑まれるところだったぞ」
レオンが気だるげな表情を完全に消したまま、前方を鋭く睨みつける。
ノアとの共鳴を断たれた竜骨は、狂乱していた。
再び静かな眠りにつくこともできず、王都の魔術師たちに受けた屈辱と痛みに激しく怒り狂っているのだ。
竜骨の空洞の眼窩に宿る青白い炎が一段と激しく燃え上がり、古戦場全体に響き渡るような凄まじい咆哮を空へ向けて放った。
それに呼応するように、古戦場の大地から無数の青白い霊体が次々と這い出してきた。
竜骨の強大な魔力にあてられ、かつての戦場で散った兵士たちの魂が憎悪の亡霊と化して実体化したのだ。
「ひぃぃっ!た、助けてくれぇっ!」
「撤退だ!全軍撤退しろ!」
王都の特務調査隊の魔術師たちは、自分たちが引き起こした最悪の事態の責任を取ることもなく、武器や高価な魔導具を放り出して我先にと逃げ出していった。
彼らが展開していた浄化の魔法陣は完全に崩壊し、亡霊たちを止めるものは何もない。
亡霊の群れは渦を巻き、やがて一つの巨大なうねりとなって動き始めた。
彼らが向かう先は、生者の気配が最も濃い場所。
すなわち、ここから数キロ先にある辺境学院だった。
「大変です!このままでは、あの亡霊の群れが学院へ到達してしまいます!」
エリスが血相を変えて叫んだ。
学院には他の生徒たちや職員も残っている。
もしあの無数の亡霊と暴走する竜骨が押し寄せれば、辺境学院は一晩にして死の国へと変わってしまうだろう。
ノアは青ざめた顔で立ち上がった。
「僕がやります……!」
彼は自分の分厚い魔導書を強く握り締め、レオンを見上げた。
「僕の死霊術なら、あの竜の骨をもう一度僕の支配下に置くことができます!強引に魔力で縛り付けて、あの霊たちごと動きを完全に封じ込める!そうすれば学院は助かります!」
それはノアにとって、最も確実で手っ取り早い解決策だった。
自分の強大な死霊術の才能を全開にし、対象の意志を完全に無視して絶対的な支配下に置く。
そうすれば被害をゼロに抑えることができる。
ノアは魔導書を開き、自らの魔力を極限まで解放しようとした。
だが彼の手首を、レオンの大きな手がガシッと掴んで止めた。
「やめろ」
レオンの低く厳しい声が、ノアの鼓膜を打つ。
「先生!でも、僕がやらなきゃ皆が危ないんです!」
「支配すれば、お前は確かに王になる。あの巨大な骨を従え、絶大な力を持った王にな。だがなノア。それは生者の王じゃない。死者の王だ」
レオンの視界の端で、ノアの頭上に浮かぶ赤い文字が激しく明滅していた。
『【未来の屍竜王】人類生存率、三パーセント。破滅原因:死者への執着』
「お前は妹を失った寂しさから、死者を自分のそばに縛り付けてきた。だがそれは死者のためじゃない。お前自身の執着だと言ったはずだ。ここでまたお前が力ずくで死者を支配すれば、お前は二度と生者の世界には戻ってこれなくなる。一生、死者の声なき呪いに縛られて生きることになるんだぞ」
レオンの言葉にノアは息を呑んだ。
だがそれでも、目の前で暴走する死者の群れを止めなければならない。
「でも……僕が止めるしかないんです!僕しか、彼らを抑え込めない!」
ノアが悲痛な声で叫んだ時だった。
「いいえ、ノア君。死者を無理やり縛り付けることは、決して救いにはなりません」
静かな、しかし確かな重みを持った声が響いた。
保健医のメルディアだった。
彼女はエリスの隣から一歩進み出ると、ノアの目線を合わせるように優しく微笑んだ。
「死者を支配するということは、彼らを終わりのない苦痛の牢獄に閉じ込めるのと同じです。彼らは命令を聞くからくり人形になりたいのではありません」
「メルディア先生……」
メルディアは視線をそらし、暴走する古戦場の霊たちを悲しげに見つめた。
彼女の瞳の奥には、ノアの知らない遠い過去の戦場の記憶が揺らめいている。
「私もかつて、戦場で数え切れないほどの兵を看取りました。彼らは皆、苦しみの中で息を引き取りました。そんな彼らが最後に願ったのは、誰かに自分の魂を縛られることではありません。ただ静かに、帰るべき場所へ送ってほしかったのです」
メルディアはかつて、戦場の片隅で多くの死を見届けてきた。
その言葉には、神学上の理屈ではない、戦争の真実を直接知る者だけが持つ圧倒的な説得力があった。
「あの竜の魂も同じです。人間に殺され、骨を砕かれ、さらに兵器として利用されようとしている。その怒りと絶望をあなたが力でねじ伏せてしまえば……竜の魂は、永遠に救われません」
永遠に救われない。
その言葉がノアの胸の最も柔らかい部分を鋭く貫いた。
妹が死んだ時、ノアはずっと「自分は置いていかれた」と思っていた。
だから妹を取り戻したくて、死霊術という禁忌に手を染めた。
だがもし妹が自分の力でこの世に繋ぎ止められていたら。
苦痛の中で、永遠に。
そう想像した瞬間、ノアの指先から力が抜けた。
震える手の中で、魔導書が静かに閉じられる。
「……でも、僕が支配しなければ、あの亡霊たちが学院に向かってしまう……」
ノアがポツリとこぼすと、背後から荒々しい声が飛んできた。
「ふざけんな!てめえが全部一人で抱え込めると思うなよ!」
ガルドだ。
彼は両手に黒炎を圧縮し、不敵な笑みを浮かべて前に出た。
「俺の黒炎の盾を舐めてんのか!あんな気味の悪い霊の群れ、何千匹来ようが俺が全部受け止めてやる!」
「ガルドくんの言う通りです!私も、みんなを守ります!」
ミリアもまた両手から冷気を立ち上がらせ、ガルドの隣に並び立つ。
「野外授業の泥汚れは勘弁していただきたいところですが……仕方ありませんわね。後方支援と魔力配分は私が指揮しますわ」
セレスが扇子を開き、冷静に戦況を分析し始める。
「ノア、心配ない。敵、全部止める」
リュカが低い姿勢を取り、鋭い爪を立てていつでも飛び出せる態勢を取る。
クラスメイトたちの姿を見て、ノアは目を丸くした。
彼らは誰も逃げようとしていない。
王都の精鋭である特務調査隊が蜘蛛の子を散らすように逃げ出したというのに、この辺境の落ちこぼれと呼ばれた問題児たちは真っ向から無数の亡霊と巨大な竜の骨に立ち向かおうとしている。
レオンが気だるげに首の後ろを掻きながら、ノアの背中をポンと叩いた。
「見ろ、ノア。お前が一人で抱え込まなくても、あいつらが防いでくれる。それに俺もいる」
レオンの腰の剣が、鉛色の雲の隙間から差し込む光を反射して鋭く光る。
「だからお前は、力で支配するんじゃない。お前にしかできない方法で、彼らに語りかけてやれ」
ノアは深く息を吸い込んだ。
冷たい冬の風が肺を満たし、頭をクリアにしていく。
死者を縛る力。
死者を操る力。
自分を孤独から守ってくれると信じていたその力は、本当は誰も救えない。
死者を救うのは支配ではなく、対話だ。
そして彼らの未練を解き、静かに送ることだけだ。
「先生……」
ノアはもう迷うことなく、レオンを真っ直ぐに見上げた。
彼の瞳には、かつての虚無や孤独はもうどこにもない。
「僕に、あの竜の魂と話す時間をください。僕が、彼らを送ります」
レオンは満足そうに口元を緩め、大きく頷いた。
「ああ、任せろ。あのデカい骨の足止めは俺たちが引き受ける」
ノアは魔導書を地面に置き、震える両手を胸の前で静かに重ねた。
もう彼に、古い知識や魔力を無理やり増幅させる道具は必要ない。
彼自身が持つ魂と向き合う力だけで、巨大な怒りの塊となった屍竜に挑むのだ。
ガルドの黒炎とミリアの氷壁が展開され、亡霊の群れと激突する凄まじい轟音が古戦場に響き渡る。
レオンの黒いコートが風に翻り、彼が竜骨へ向けて一直線に駆け出していく。
屍竜王になるはずだった少年は、死者を縛ることをやめた。
今、彼の手によって、彼にしかできない最後の対話が始まろうとしていた。




