第25話「屍竜の骨」
ズズンッ、と重い地鳴りが嘆きの古戦場跡を揺らした。
大地に走った巨大な亀裂から、身の芯まで凍りつくような冷気と、青白い魔力の柱が天へ向かって立ち上る。
空を覆う鉛色の雲が渦を巻き、冷たい風が悲鳴のような音を立てて吹き荒れていた。
「みんな、下がれ!」
レオンの鋭い声に、隔離クラスの生徒たちは弾かれたように後方へと飛び退いた。
直後、亀裂から巨大な白い塊が土を跳ね飛ばして姿を現した。
それは人間の兵士でも、魔族の兵士でもない。
あまりにも巨大な、竜の骨格だった。
生前はどれほどの威容を誇っていたのだろうか。
見上げるほどの巨躯を持つその骨は、王都の特務調査隊が放とうとした浄化魔法の強大なエネルギーと古戦場に渦巻いていた無数の怨念を吸い上げ、長い眠りから無理やり叩き起こされたのだ。
「……なんだ、ありゃあ」
ガルドが目を丸くして、黒炎を灯すことも忘れて呆然と呟いた。
ミリアは両手で口を覆い、セレスは扇子を握る手を小刻みに震わせている。
リュカは全身の毛を逆立て、本能的な恐怖に喉の奥で低い唸り声を上げた。
圧倒的な、死の象徴。
未来のノア・レイスが従え、人類を絶滅寸前まで追い込むことになる災厄の原型。
それが今、目の前でゆっくりと首をもたげ、空っぽの眼窩に青白い魔力の火を灯そうとしていた。
「ひぃぃっ!ば、化け物だ!撤退しろ、態勢を立て直すんだ!」
少し離れた場所で魔法陣を展開しかけていた王都の特務調査隊の魔術師たちが、巨大竜の骨を見て恐慌状態に陥る。
だが彼らを指揮していた隊長の男だけは違った。
彼は恐怖で青ざめた顔をすぐに歪んだ歓喜の笑顔に変え、手に持った杖を天へ突き上げたのだ。
「待て!逃げるな、馬鹿者共!よく見ろ、あれはただの骨だ!だがこの古戦場の強大な怨念と魔力をその身に宿している!」
隊長の傲慢な目が、欲にまみれてギラギラと光った。
「これほどの質量と魔力を持つアンデッド素材など、王都でも滅多に手に入らん!捕獲しろ!魔導兵器のコアにすれば、他国を圧倒する切り札になるぞ!」
死者の尊厳など、彼らの頭には微塵もなかった。
彼らにとって死者とは、利用価値のある道具か、焼き捨てるべきゴミのどちらかでしかないのだ。
隊長の号令を受け、特務調査隊の魔術師たちが杖を構え直した。
「強力な拘束魔法陣を展開しろ!一気に魔力を流し込んで、あの骨の制御を奪うのだ!」
特務調査隊が詠唱を始め、巨大な光の鎖が竜の骨へ向かって放たれようとした。
レオンは舌打ちをし、腰の剣を抜いて前に出ようとする。
「死者を焼くのをやめたと思ったら、今度は兵器利用か。王都の連中は相変わらずろくなことを考えないな」
レオンが殺気を放ち、魔法陣ごと彼らを叩き斬ろうとしたその時だった。
「お待ちください、特務調査隊の皆様!」
凛とした声が響き、レオンの前にエリス・アークライトが立ち塞がった。
彼女は腕に抱えていた分厚いバインダーの中から羊皮紙を一枚引き抜き、隊長の前に毅然とした態度で突きつけたのだ。
「なんだ貴様は!辺境のしがない教師が、我々エリートの邪魔をする気か!」
「私は辺境学院の学院長代理、エリス・アークライトです。邪魔をしているのではありません。正当な手続きを求めているのです」
エリスは一歩も引かず、王都の隊長を真っ直ぐに見据えた。
「この嘆きの古戦場跡は、当辺境学院の管轄区域に隣接しています。規定により、この近辺で出土した未確認の魔導素材や遺物の所有権および一次処置権限は、すべて辺境学院に帰属します」
「はあ!?何を馬鹿なことを言っている!これは王国の財産だぞ!」
「ええ、最終的にはそうなるかもしれません。ですが正式な手続きと所有権の移譲なしに、無断で搬出・兵器転用することは明確な法律違反です。今すぐ魔法陣を解き、所定の書類を提出してください。それまでは、あの骨に指一本触れることは許可しません!」
エリスの言葉は、まるで鋼の盾のようだった。
彼女は武力でレオンたちを守ることはできない。
だが学院の責任者として、そして王都のルールを知り尽くした官僚としての武器を持っていた。
書類と規定。
それを盾にして時間を稼ぎ、特務調査隊が竜の骨を強引に奪い去るのを防ごうとしているのだ。
エリスの背中には、レオンや生徒たちを「危険指定」という理不尽から何としても守り抜くという、強い覚悟が滲んでいた。
「ふざけるなッ!こんな非常時に書類の手続きだと!?辺境の小役人が、王都の特務調査隊に指図する気か!」
「非常時だからこそ、規則を遵守すべきです。手続きを踏まない強権発動は、教育局本部へ直ちに不服申し立てを行います!」
エリスの気迫に、隊長はギリッと奥歯を噛み締めた。
論理で言い負かされ、王都のエリートとしてのプライドをいたく傷つけられたのだ。
隊長は忌々しげにエリスを睨みつけ、そしてその視線を、レオンの背後にいる青白い肌の少年——ノアへと移した。
「……ええい、構わん!強行しろ!」
隊長は狂気じみた声を張り上げた。
「書類の手続きなど後でどうとでも捏造できる!それよりもあの骨を拘束しろ!そして、そこの死霊術師のガキも一緒に捕縛するんだ!」
「なにっ!?」
エリスが目を見開く。
「……今の命令、確かに記録しました」
エリスは唇を噛み締めながらも、震える手で隊長の発言をバインダーに書き留めた。
「あのガキが先ほど、大規模な浄化魔法なしで亡霊の群れを鎮めてみせたのを私はこの目で見た!あの異常な死霊術の才能、野放しにはしておけない!竜の骨と一緒に王都へ連行し、魔導兵器の制御部品として利用してやる!」
彼らの狙いはもはや竜の骨だけではなかった。
ノアという一人の生きた少年すらも、強力な兵器のパーツとして人間扱いせずに奪おうとしているのだ。
「てめえら……ふざけんな!!」
ガルドが激怒し、ミリアも氷壁を展開しようと身構えた。
だが彼らが動くよりも早く、特務調査隊の放った無数の光の鎖が、古戦場の中央に立つ巨大な竜の骨へと深々と突き刺さった。
ガァァァァァァァンッ!!
空気を震わせるような、金属的な激突音。
光の鎖はただ物理的に縛り付けるものではない。
死者の魔力を強引に押さえ込み、精神を削り取って制御を奪うための、残酷な拘束魔法だった。
「……ッ!!」
竜の骨が天を仰ぎ、声にならない絶叫を上げた。
普通の人間の耳には、ただ骨が軋む音や風の音にしか聞こえない。
特務調査隊の魔術師たちも「よし、拘束が効いているぞ!さらに魔力を流し込め!」と歓声を上げている。
だが生と死の境界を見極め、死者の声を聞く力を持つノアには、その絶叫が痛いほどはっきりと聞こえていた。
『痛イ……痛イ痛イ痛イ痛イ痛イッ!!』
『ナゼ、我ヲ起コシタ……!』
『殺サレ、肉ヲ削ガレ、骨トナッテモナオ、我ヲ縛ルカ人間共ォォッ!!』
それは、かつて大空を支配していた誇り高き竜の魂の悲鳴だった。
人間たちに狩られ、肉も鱗も奪われ、価値がないと見なされた骨だけを土に埋められた。長い時を経て、ようやく静かな眠りにつこうとしていた魂だった。
だが王都の魔術師たちが放とうとした浄化魔法は、その安眠を破ってしまった。
それだけでは飽き足らず、彼らは目覚めた骨すらも兵器として利用しようとしている。
「やめろ……!」
ノアの口から、震える声が漏れた。
彼は両手で自分の頭を抱え込んだ。
竜の放つ激しい痛みと怒りの思念が、ノアの心に直接流れ込んでくる。
妹を失い、死霊術で死者を自分のそばに縛り付けていた過去の自分。
ノアはずっと、自分が寂しくないように死者を道具のように扱ってきた。
だがレオンとの対話と、今日の鎮魂の試みを通じて、ノアは教わったのだ。
死者には死者の人生があり、静かに眠る権利があるのだと。
だからこそノアには、目の前で特務調査隊が行っている残酷な仕打ちが、絶対に許せなかった。
死者をこれ以上、生者の勝手な都合で縛り付けるな。
「やめろ……痛がってる!彼を、道具にするな!!」
ノアが血を吐くような声で叫んだ。
その瞬間だった。
ノアの全身から、これまでとは比較にならないほどの膨大な青白い魔力が噴き出した。
それはただの死霊術師の魔力ではない。
死者の悲しみと怒りに完全に同調し、彼らの痛みを自分のものとして受け入れたことで引き出された、王の魔力だった。
「ノア君!?」
エリスが驚愕の声を上げる。
ノアの魔力は周囲の空気を凍てつかせ、特務調査隊の魔術師たちに向かって波紋のように広がっていった。
それに呼応するように、光の鎖に縛られていた巨大な竜の骨が、ギギギッと不気味な音を立てて動き始めた。
竜の空っぽの眼窩に、ノアの放つ魔力と同じ青白い炎がボワッと点灯する。
竜の魂は、ノアの魔力の奥に、未来の主となり得る片鱗を見たのかもしれない。
『王ヨ……我ノ怒リヲ……!』
竜の魂がノアに向かって呼びかけた。
この少年の魔力に身を委ねれば、自分たちを縛り付ける忌まわしい人間たちをすべて滅ぼすことができる。
ノアもまた、その声に応えようとしていた。
「許さない……死者を冒涜するお前たちを、絶対に許さない……っ!」
ノアの青白い肌に、亀裂のような黒い魔力の紋様が浮かび上がる。
特務調査隊への憎悪から始まったノアの怒りは、竜の魂と共鳴することで、死者を踏みにじるすべての生者へと向かおうとしていた。
竜の骨とノアの魔力が完全にリンクし、強烈な共鳴状態へと突入していく。
それは死者を救うための対話ではない。
生者そのものを拒絶し、死者の怒りを代行して世界を破壊するための、圧倒的な支配。
レオンの視界が、激しく赤く明滅した。
ノアの頭上に浮かんでいた文字が、かつてないほど禍々しく、巨大に膨れ上がる。
『【未来の屍竜王】人類生存率、三パーセント。破滅原因:死者への執着』
その執着は今、これまでとは違う危うい熱を帯びていた。
「まずいな……」
レオンは舌打ちをし、構えていた剣の柄を強く握り直した。
ノアは今、自分の私怨や妹への執着からではなく、『死者を守る』という正義感から竜骨と共鳴してしまったのだ。
だからこそ、その怒りは深く、引き返すのが難しい。
特務調査隊の放った光の鎖が、次々とパチン、パチンと弾け飛んでいく。
竜の骨がノアの魔力を受けて完全にその拘束を打ち破り、天に向かって凄まじい咆哮を上げた。
空気を震わすその声に、王都の魔術師たちはついに武器を投げ出して逃げ惑い始めた。
「ば、化け物だ!あのガキ、竜の骨を操りやがった!」
「逃げろ!殺されるぞ!」
パニックに陥る特務調査隊を他所に、巨大な竜の骨はノアの背後に守護者のようにそびえ立った。
だがその姿は、決して頼もしい味方などではない。
憎しみに囚われたまま世界を滅ぼす、最悪の災厄の姿そのものだった。
「ノア、深呼吸しろ!お前がそれに飲まれてどうする!」
レオンが鋭い声で呼びかけるが、ノアの耳にはもう届いていないようだった。
ノアの周囲には強大な死の魔力が渦巻き、誰も彼に近づくことができない。
ミリアの氷壁は立ち上がる前に青白い魔力に軋み、ガルドの黒炎は竜骨へ届く前に呑まれた。
リュカは本能で一歩も踏み込めず、セレスだけが震える声で状況を言葉にした。
「先生……!ノアが……ノアが、あんな大きな骨に食べられちゃいそうですわ!」
セレスが叫ぶ。
物理的に食べられるわけではない。
だがノアの精神が、竜の果てしない憎悪に飲み込まれ、完全に融合しようとしているのだ。
このまま共鳴が完了すれば、ノアは二度と人間の心を取り戻せなくなる。
人類を絶滅寸前まで追い込む屍竜王が、今この古戦場跡で完全に誕生してしまう。
「させるかよ。あいつは俺の生徒だ」
レオンは気だるげな表情を完全に消し去り、本気の闘気を全身から立ち上らせた。
黒いコートが魔力の風を受けて激しく翻る。
王都の正義が引き起こした最悪の事態。
孤独な生徒を救い出すため、元勇者は青白い魔力に呑まれかけているノアを真っ直ぐに見据え、大地を蹴った。
竜骨を斬れば、ノアの精神ごと傷つける。
ならば斬るべきは骨ではない。ノアと憎悪を繋ぐ、その共鳴だ。
屍竜王への道が開き始めた絶望の空の下で、レオンの新たな戦いが始まろうとしていた。




