第24話「死者の声を聞く授業」
鉛色の厚い雲に覆われた『嘆きの古戦場跡』に、骨の髄まで凍りつくような冷たい風が吹き抜けていた。
王都の特務調査隊が展開しかけていた大規模な浄化魔法陣は、レオンの圧倒的な殺気と隔離クラスの生徒たちによる強固な防衛陣の前に完全に沈黙させられていた。
隊長をはじめとする王都の魔術師たちは、恐怖で顔を引きつらせながら一歩、また一歩と後ずさりをしていく。
ノア・レイスの足が、古戦場の冷たい土を踏みしめた。
死者のために力を使え。
レオンの言葉は、ノアの中にまだ完全には馴染んでいなかった。
生者のために何かをするのは、今でも少し怖い。
けれど、死者の声を聞こえないふりをすることは、もっとできなかった。
彼は分厚い魔導書を開かなかった。
いつものように死者を従えるためではない。
今ここで必要なのは、命令ではなく、耳を澄ませることだった。
彼の足元には、朽ち果てた剣や無数の骨の欠片が散乱している。
それらに呼び寄せられるように、青白く半透明な霊体たちがゆらゆらとノアの周囲へと集まってきた。
王都の魔術師たちには、それはただの気味の悪い怨念の塊にしか見えていない。
だが生と死の境界を見極める特異な魔力を持つノアには、彼らがかつてこの地で命を散らした兵士たちであることがはっきりと見えていた。
「う、うあぁぁぁ……っ」
霊体がノアに近づくにつれて、彼らの抱える未練と痛みが実体を伴う冷気やポルターガイスト現象となって周囲の空間を荒れ狂わせ始めた。
錆びた剣が宙に浮き、古戦場の土が渦を巻いて巻き上がる。
霊たちは救いを求めているのか、あるいは生者への憎悪に囚われているのか、凄まじい勢いでノアへと殺到しようとしていた。
「ノアくん、私たちが防ぎます!」
ミリアが両手を突き出し、ノアの周囲をすっぽりと覆うように透明な氷のドームを展開した。
それは霊たちを攻撃し凍らせるためのものではなく、霊の暴走からノアを守るための安全地帯を作る優しい盾だった。
「後ろは気にすんな!てめえの仕事に集中しろ!」
ガルドが氷壁の外側に立ち、両手から黒炎を放った。
その炎はかつてのように手当たり次第にすべてを灰にする山火事ではない。
迫り来る淀んだ魔力の塊や実体化した怨念の刃だけを正確に弾き飛ばし、呑み込むための『黒炎の盾』だった。
リュカは低い姿勢でいつでも飛び出せるように警戒し、セレスは冷静に霊の動きの偏りを見極めて二人に指示を飛ばしている。
かつては互いに孤立していた問題児たちが、今はノアが安全に死者と向き合えるように完璧な連携で彼を支えていた。
「ありがとう……」
ノアは小さく呟き、目を閉じて深く息を吸い込んだ。
今まで彼は、死霊術という力を
『死者を自分の傍に縛り付けておくためのもの』
としてしか使ってこなかった。
妹を失った絶望から生者を信じることをやめ、絶対に自分を置いていかない死者だけを操り、自分の孤独を埋めようとしてきたのだ。
『死霊術は死者を冒涜する力じゃない。死者の声を聞き、未練を解いてやるための力にもなるはずだ』
昨日の夕暮れ時にレオンが言ってくれた言葉が、ノアの脳裏に蘇る。
「ノア」
氷壁のすぐ外側から、レオンの静かな声が響いた。
「死霊術は支配じゃない。まずは対話から始めろ。無理に動かそうとするな。ただ、彼らの声を聞いてやれ」
対話。
声を聞く。
ノアは抱えていた分厚い魔導書を地面に置き、両手を無防備に前へと差し出した。
青白い魔力が彼の指先から広がり、氷壁をすり抜けて周囲を彷徨う霊体たちと静かに共鳴していく。
ノアの意識が、死者たちの精神の奥底へと繋がった。
『痛い……腕が、痛いよ……』
『どうして俺は、こんなところで……』
『母さん……帰りたい……っ』
『妻が、俺の帰りを待っているんだ……!』
『馬鹿な……我が角が折れるなど……まだ、戦えるはずだ……』
『まだ、巣に戻っていない。幼子たちが、待っている……』
『戦いで死ぬ覚悟はあった。だが名も残らず土に埋もれるために来たのではない……!』
ノアの耳に、いや、心に直接、無数の悲痛な声が流れ込んできた。
それは死という絶対的な恐怖と痛みに囚われたまま、時間が止まってしまった者たちの嘆きだった。
王国の兵士も魔王軍の兵士も関係ない。
人の母を呼ぶ声も、魔族の巣へ帰りたいと願う声も、死の前では同じだった。
誰もが故郷に帰りたかった。
愛する者の元へ帰りたかったのだ。
彼らはただ憎しみで生者を呪っているのではない。
自分が死んだことすら受け入れられず、誰かに送られることをずっと待っていたのだ。
「……そうか。あなたたちも、置いていかれたんじゃなくて、帰りたかったんだね」
ノアの目から、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。
妹が死んだ時、ノアはずっと『自分が置いていかれた』のだと思っていた。
だが死んでいった妹もまた、本当はずっとノアと一緒に生きていたかったはずなのだ。
死者を無理やり現世に縛り付けることは、彼らの魂を苦痛の牢獄に閉じ込めることと同じだ。
「もう、大丈夫です。痛くない。怖くない。僕が、あなたたちを送ります」
ノアは自分の魔力を、霊たちを操るためではなく、彼らの魂の傷を優しく包み込むために使った。
ノアの手から放たれる青白い光が、古戦場の外縁部を温かく照らし出す。
すると、醜く歪んでいた霊体たちの姿が、少しずつ生前の穏やかな兵士の姿へと戻っていった。
『……ありがとう』
誰かのそんな声が聞こえた気がした。
青白い光の粒子となった魂たちが、鉛色の雲へ溶けるように、静かに昇っていく。
怨念が渦巻いていた古戦場の空気が、嘘のように澄み切った清らかなものへと変わっていく。
それは力ずくで焼き尽くす残酷な浄化魔法では決して成し得ない、本物の『鎮魂』の光景だった。
「馬鹿な……。大規模な浄化魔法陣すらなしに、あれだけの亡霊を、たった一人の子供が鎮めたというのか……」
王都の特務調査隊の隊長が、その奇跡のような光景を前にして、へたり込みながら茫然と呟いた。
魔術師たちも皆、武器を下ろして光の粒子が昇っていく空を呆然と見上げている。
エリスの隣では、メルディアがそっと目を閉じ、両手を組んで静かに祈りを捧げていた。
かつての戦場で救えなかった両軍の兵士たちの魂が、一人の少年の手によってようやく帰るべき場所へと送られていくのを見届けるために。
やがて光の粒子がすべて空へ溶け込むと、ノアは静かに目を開け、ふうと長い息を吐き出した。
彼が送れたのは、この古戦場に眠る無数の魂のごく一部に過ぎないだろう。
それでも彼の心には、これまでにない確かな温もりと充実感が満ちていた。
彼は今、未来の屍竜王へ続く道とは違う一歩を、確かに踏み出していた。
その時レオンの視界の端で、ノアの頭上に浮かぶ赤い文字がかすかに揺らいだ。
だがまだ消えてはいない。
「よくやったな、ノア」
レオンが歩み寄り、ノアの頭に無造作に大きな手を乗せた。
「お前はもう、死者を無理やり縛り付ける必要はない。立派な魂送りだ」
「……はい、先生」
ノアは涙を拭い、小さく、けれどはっきりと頷いた。
「さて、特務調査隊の皆さんもお疲れのようだが、俺たちはこれで野外授業の昼休みにさせてもらう。邪魔をするなら容赦しないぞ」
レオンが調査隊に向かって気だるげに言い放つと隊長たちは顔を青ざめさせ、這うようにして後方へと撤退していった。
とりあえずの安全が確保された古戦場跡で、隔離クラスの生徒たちは思い思いに休憩の態勢に入った。
「エリス先生、弁当の準備はできているか?」
「はい。野外ですので携帯食のサンドイッチと温かいスープだけですが、全員分用意してあります」
エリスが手際よくバスケットから包みを取り出し、生徒たちに配っていく。
ノアは自分の分の弁当を受け取ると、クラスメイトたちから少し離れた岩場にポツンと一人で腰掛けた。
彼はずっと、食事の時は一人か、あるいは自分で魔力を流して動かした骸骨たちに囲まれて食べるのが日常だったからだ。
ノアが膝の上で弁当の包みを開けようとした、その時だった。
「あの、ノアくん。隣、いいですか?」
不意に声がして見上げると、ミリアが自分の弁当箱を持って立っていた。
ノアが返事をする前に、彼女は当然のようにノアのすぐ隣にちょこんと腰を下ろした。
「おい、そこどけ。俺が座る」
今度は向かい側から声がした。
ガルドがドカッと大きな音を立てて岩に腰掛け、乱暴にサンドイッチの包みを開き始める。
「ガルド君、埃が立ちますわよ。もう少しお上品に座れませんの?」
セレスがハンカチで鼻を覆いながらも、ガルドの隣に優雅に腰を下ろす。
「サンドイッチ、肉入ってる!ノアも食え!」
リュカが尻尾を振りながらノアの背中側の岩に飛び乗り、早速サンドイッチにかぶりついた。
気がつけば、ノアの周囲を囲むようにして、隔離クラスの全員が一緒に食事の輪を作っていた。
「……」
ノアは目を丸くして、パチパチと何度も瞬きをした。
いつもなら、彼の周りにはカタカタと音を立てる骸骨がいるはずだ。
だが今日は、死霊術の実戦演習と称して彼らを連れてくることはしなかった。
彼の周りにいるのは、体温があり、文句を言い合い、美味しそうに食事をする生きた人間たちだった。
「どうしたノア。サンドイッチの具が気に入らないのか」
レオンが自分の分のサンドイッチをかじりながら、ノアの前に立って気だるげに尋ねた。
ノアは首を横に振り、少しだけ戸惑ったような、それでいて嬉しそうな顔で呟いた。
「……いえ。死者ではない人たちと食事をするのは、久しぶりです」
生者は嘘をつくし、いつかはいなくなる。
その恐怖が完全に消えたわけではない。
だが今、こうして生者たちと肩を並べて食べる食事の温かさは、絶対に壊れない骨の鳥や骸骨からは決して得られないものだった。
「なら、冷める前に食え。死者の声を聞くのは体力がいるからな」
「はい」
ノアはサンドイッチを両手で持ち、大きく一口かじった。
「……温かいです」
ノアの口元に、微かな笑みが浮かぶ。
冷たかった彼の心に、生者の世界の温もりが確かな繋がりとなって沁み込んでいった。
だがその穏やかな昼休みの時間は、長くは続かなかった。
食事が終わりかけた頃、古戦場の大地が突如としてズズンッと重く不気味な地鳴りを上げたのだ。
ノアがハッとして立ち上がり、古戦場の奥深くへと視線を向ける。
遠くで様子を窺っていた特務調査隊の観測魔導具が、けたたましい警告音を一斉に鳴らし始めた。
「な、なんだこの魔力反応は!古戦場の地下から、信じられないほどの膨大な魔力が……!」
「隊長!計器が振り切れています!これはただの亡霊の群れではありません!」
調査隊の悲鳴が風に乗って聞こえてくる。
ノアの特殊な視界にも、古戦場の地下深くに眠る『それ』の輪郭がはっきりと見え始めていた。
それは人間の兵士でも、魔族の兵士でもない。
あまりにも巨大で強大すぎる憎しみと未練を抱えたまま、この地に埋もれていた絶望の象徴。
空を覆う鉛色の雲が渦を巻き、大地に走った亀裂から青白い魔力の柱が立ち上る。
「……竜の、骨だ」
ノアが呆然と呟く。
未来の彼が従えることになるはずだった、人類を滅ぼす災厄の原型。
巨大な竜の骨が、王都の浄化魔法の余波と古戦場の怨念に当てられ、長い眠りから目覚めようとしていた。
レオンはサンドイッチの最後の一口を飲み込むと、腰の剣の柄に静かに手をかけた。
この古戦場の奥底に眠るものがある限り。
ノアの授業は、まだ終わっていなかったのだ。




