第23話「送れなかった魂」
辺境学院の旧校舎にある特別隔離教室。
その日の朝、教室の空気はいつも以上に奇妙なものだった。
ガルドは机に足を乗せたまま、黒炎を灯さずにぶすっとした顔で窓の外を眺めている。
ミリアは黒い手袋をつけた手で、丁寧に教科書のページをめくっている。
セレスは優雅に紅茶をすすり、リュカは床でいびきをかいていた。
ここまではいつもの光景だ。
だが教卓の前では、カタカタと乾いた音を立てながら、一体の骨格標本が黒板消しを持って一生懸命に黒板を綺麗にしていた。
「……右上の端、まだチョークの粉が残っています」
教室の隅の席から、ノア・レイスが淡々と指示を出す。
骨格標本はカタカタと顎を鳴らして頷くような仕草を見せ、背伸びをして右上の粉を消した。
「よし、よくやった。あとは頼む」
レオンが気だるげに教卓に日誌を置くと、骨格標本は律儀にお辞儀をしてからギクシャクした動きで黒板消しを掃除用具入れに戻し、教室の隅へと下がっていった。
昨日ノアが給食の配膳に骨格標本を使ったことで、レオンは死霊術を危険な禁術として頭ごなしに禁じるのではなく、教室内での雑用程度なら条件付きで見守ることにしたのだ。
もちろんエリスからは「衛生上、そして倫理上の問題があります!」と小言を言われたが、レオンは「よく拭いておけば問題ない」と受け流していた。
ノアは自分の机の上で分厚い魔導書を開きながら、昨日の夕暮れ時にレオンから言われた言葉を反芻していた。
『死者に触れる力があるなら、お前の執着のためじゃなく、死者のために使え』
『死者の声を聞き、未練を解いてやるための力にもなるはずだ』
死者のため。
今までのノアはただ自分が寂しくないように、自分が置いていかれないようにするために骨を動かしてきた。
だが死霊術という力には、死者そのものを救うための使い方がある。
その事実は、ノアの冷え切っていた世界に新しい扉を開いていた。
バンッ!
不意に教室の扉が勢いよく開かれ、エリスが血相を変えて駆け込んできた。
彼女の手には、王都からの緊急通達を示す赤い封筒が握られている。
「レオン先生!大変です、緊急事態です!」
エリスのただならぬ様子に、ガルドが机から足を下ろし、ミリアがビクッと肩を揺らした。
「どうしたエリス先生。また王都の査察官が乗り込んできたのか?今度は手加減じゃ済まさないぞ」
「違います!学院から西へ数キロ離れた場所にある『嘆きの古戦場跡』で、亡霊の異常発生が確認されました!」
嘆きの古戦場跡。
そこはかつて、王国軍と魔王軍が激しく衝突し無数の命が散っていった血塗られた大地だ。
終戦から三年が経った今でも大地には濃密な魔力と怨念が染み付いており、普段から近寄る者はいない。
「亡霊の異常発生だと?なぜ今になって」
「原因は不明ですが、数え切れないほどの霊体が実体化して彷徨っているそうです。問題はそれだけではありません。この事態を受けて、王都から『特務調査隊』がすでに現地へ派遣されました」
エリスは唇を噛み締め、忌々しげに言葉を続けた。
「彼らの方針は原因究明や鎮魂ではありません。大規模な浄化魔法による、古戦場の一斉焼却です。亡霊たちを、土地ごと完全に消滅させる気です!」
浄化魔法。
響きこそ神聖だが、それは王都の魔術師たちが用いる高火力の光と炎の混合魔法だ。
魂の未練を解くのではなく、圧倒的なエネルギーで魂そのものを強引に焼き尽くし消し去るための残酷な手段だった。
「……消滅」
教室の隅で、ノアがぽつりと呟いた。
彼はゆっくりと立ち上がり、青白い顔に初めて強い感情を浮かべていた。
「消すな。……彼らを、消させちゃ駄目だ!」
普段は周囲に全く無関心なノアの大きな声に、ガルドやセレスも驚いて彼を見た。
ノア自身も、自分がこんな大きな声を出したことに驚いたように、わずかに目を見開いていた。
それでも、言葉は止まらなかった。
「どうしたノア。ただの悪霊の群れだろ。放っておけば王都の連中が勝手に掃除してくれるんじゃねえか」
ガルドが怪訝そうに言うと、ノアは強く首を横に振った。
「悪霊なんかじゃない!亡霊が実体化して彷徨うのは、彼らがこの世に強い未練を残しているからだ。まだ言葉が残っているんだ!それを無理やり焼き尽くせば、彼らの魂は永久に救われないまま苦痛の中で砕け散るだけだ!」
ノアの悲痛な叫びは、妹を失った彼だからこそ理解できる死者の尊厳への切実な思いだった。
「その通りですわ」
教室の入り口から、静かで落ち着いた声が響いた。
保健医のメルディアだった。
保健室にも同じ緊急通達の写しが届いたのだろう。彼女の手にも、エリスと同じ赤い封筒が握られていた。
彼女はいつもの白衣姿で、エリスの背後から静かに教室内へと歩み入ってきた。
「メルディア先生……」
「ノア君の言う通り、力ずくの浄化魔法では彼らの未練を晴らすことはできません。あの古戦場には王国軍の兵士だけでなく、魔王軍の兵士も多数眠っています。両軍の魂が混在し、癒えない傷と憎しみを抱えたままこの地に縛られているのです」
メルディアの瞳には深い悲しみが宿っていた。
かつて戦場で敵味方の区別なく傷ついた者を診てきた治癒術師として、彼女は多くの命が散っていくのを見てきた。
敵も味方も関係なく、誰もが家に帰りたかったはずだ。
その魂を十把一絡げに焼き払うなど、彼女にとっても見過ごせるものではなかった。
「王国の力ずくの浄化魔法ではかえって彼らの怨念を増幅させ、より恐ろしい災厄を生み出しかねません」
メルディアの言葉に、レオンは短く息を吐き日誌を閉じた。
王国側の正義だけで裁ききれない場所。
そして、未練を残した魂が彷徨う場所。
「……事情は分かった」
レオンは腰の剣を確かめ、生徒たちを見渡した。
「今日のホームルームはここまでだ。全員、防寒具を着て外に出ろ。これから野外授業を行う」
「野外授業?こんな時にどこに行くつもりですか!」
エリスが驚いて問うと、レオンは気だるげに、だが確かな凄みを込めて答えた。
「古戦場跡だ。王都の連中が余計な火遊びをする前に、俺たちで掃除を終わらせる」
「なっ……正気ですか!?相手は無数の亡霊と王都の特務調査隊ですよ!」
「安心しろ。専門家が一人いる」
レオンはノアを見つめた。
「お前の力は、死者のために使うんだったな。あの亡霊たちの言葉を聞いて、送ってやれるか?」
ノアはハッとしてレオンを見返し、両手でぎゅっと拳を握り締めた。
もう自分の執着のために死者を縛ることはしない。
死者に人生を返すために自分の力を使うと決めたのだ。
「……はい。僕が、彼らを送ります」
「決まりだな。行くぞ」
レオンが先頭を切って歩き出す。
ノアが迷いなくその後を追い、ガルドが「面白くなってきやがった」と悪びれた笑みを浮かべて続く。
ミリアも小さな決意を秘めた顔で歩き出し、セレスは「野外の泥汚れは勘弁していただきたいですわね」とため息をつきながらも立ち上がった。
リュカは「お出かけ?ノア、行くの?」と首を傾げながらついていく。
エリスは頭を抱えたが、すぐにメルディアと顔を見合わせ救急箱を掴んで彼らの後を追った。
辺境学院から西へ数キロ。
ノアは歩きながら、胸元に抱えた魔導書の表紙をそっと撫でた。
妹を取り戻したくて集めた知識。死者を繋ぎ止めるためだけに使ってきた感覚。
そのすべてを、今度は迷う魂の声を聞き分けるために研ぎ澄ませていく。
『嘆きの古戦場跡』は、異様な光景に包まれていた。
空は分厚い鉛色の雲に覆われ、冬の寒さとは質の違う骨の髄まで凍りつくような冷気に満ちている。
荒れ果てた大地には錆びた剣や折れた槍が散乱し、その上を無数の青白い半透明の姿をした霊体がゆらゆらとあてもなく彷徨っていた。
うめき声のような、風の音のような悲痛な声が古戦場全体に響き渡っている。
その古戦場の外縁部で、白衣と銀色の鎧を身に纏った王都の特務調査隊が等間隔に陣形を組んで儀式の準備を進めていた。
隊長らしき傲慢な顔つきの男が、部下たちに向かって大声で指示を飛ばしている。
「巨大な浄化魔法陣の展開を急げ!上からは本日中の完全浄化を命じられているのだ!原因調査などしている時間はない!こんな薄気味悪い場所、一秒でも早く焼き尽くしてしまえ!」
「お待ちください!隊長、魔力反応の中にまだ自我を保っている霊体も確認できます!無理に浄化すれば……」
「黙れ!魔王軍の残党の魂など情けをかける価値もない!すべてまとめてチリ一つ残さず消し去ってやれ!」
隊長が杖を振り上げ、魔術師たちが一斉に詠唱を始めようとしたその時だった。
「そこまでだ」
低く鋭い声が、調査隊の詠唱を断ち切った。
隊長が忌々しげに振り返ると、黒いコートを風に翻したレオンとその後ろに続く隔離クラスの生徒たちが現れた。
「なんだ貴様らは!ここは特務調査隊の管轄だ!民間人は立ち去れ!」
「あいにくだが、ここは辺境学院のすぐ近くだ。勝手に学院の近くで火遊びをされると迷惑なんでね」
レオンは気だるげに言い放ち、隊長の前に立ち塞がった。
「その魔法陣をたため。亡霊の処理なら俺の生徒がやる」
「生徒だと?」
隊長はレオンの背後にいる子供たちを見て、鼻で笑った。
「馬鹿馬鹿しい。あんな薄気味悪い悪霊どもをガキの手に負えるわけがないだろう!我々王都のエリートが浄化の炎で一網打尽にしてやるのだ。邪魔をするなら公務執行妨害で……」
「悪霊じゃない!」
ノアがレオンの横から進み出て、隊長を真っ直ぐに睨みつけた。
彼の青白い肌には、はっきりとした怒りが浮かんでいた。
「彼らはただ、迷っているだけだ。故郷に帰りたかったのに誰にも送ってもらえなくて、どうしていいか分からないだけなんだ!」
ノアの瞳には、死霊術師としての特別な視界が広がっていた。
隊長たちにはただの薄気味悪い青白い霧にしか見えない亡霊たちの姿が、ノアにははっきりと見えていた。
ノアの耳には、言葉になりきらない嗚咽がいくつも重なって聞こえていた。
痛み。
後悔。
帰りたいという願い。
それらはまだ、誰にも聞き取られないまま、この古戦場に取り残されていた。
「……死霊術師のガキか」
隊長はノアの放つ特有の魔力の気配を感じ取り、露骨に嫌悪の表情を浮かべた。
「死者を冒涜する悪魔の力を持つ化け物が。悪霊に同情するなど反吐が出る!ええい、構わん!魔法陣を起動しろ!このガキごと浄化の炎で焼き払ってしまえ!」
隊長の冷酷な命令に、魔術師たちの杖の先から眩い光と炎の魔力が膨れ上がり、古戦場へ向けて放たれようとした。
「させませんわ!」
セレスの声と共に、彼女が展開した魔力障壁が調査隊の魔法陣の前に割り込んだ。
「てめえら、俺のクラスメイトをガキごと焼くって言ったか?」
ガルドの両手から凄まじい黒炎が吹き上がり、調査隊の魔術師たちを威圧する。
「近づいたら、凍らせます!」
ミリアがノアの前に立ち、両手から冷気を放って分厚い氷の壁を作り上げた。
リュカも低い唸り声を上げ、いつでも飛びかかれる態勢を取っている。
かつては互いに干渉しようとしなかった問題児たちが、今は明確にノアを守るために結束し王都の魔術師たちと対峙していた。
「き、貴様ら……!反逆する気か!」
隊長が怒りに顔を赤くする。
レオンは腰の剣の柄に手を置き、圧倒的な殺気を放って調査隊全員の動きを縫い留めた。
「調査隊の仕事はここまでだ。ここから先は、俺の生徒の授業の時間だ。死者を焼くんじゃない。まず、声を聞く。邪魔をする奴は俺が叩き斬る」
レオンの言葉に、調査隊の魔術師たちは恐怖で一歩後ずさった。
レオンは振り返らずに、背後のノアに向かって言った。
「ノア。お前の番だ」
ノアは大きく頷いた。
彼は分厚い魔導書を開くことなく、素手で古戦場の大地に向かって歩み出た。
彼が未来の屍竜王へ堕ちるのではなく、死者のために歩む最初の一歩が、ここから始まろうとしていた。




