第22話「ノアの失ったもの」
ノア・レイスの記憶は、いつも冷たくて静かな部屋の風景から始まる。
ベッドの上で、青白い顔をして横たわる小さな少女。
ノアのたった一人の家族であり、最愛の妹だった。
『お兄ちゃん……ごめんね。ずっと一緒にいるって、約束したのに』
それが、妹の最期の言葉だった。
王都の片隅の貧民街で流行り病にかかり、孤児だったノアには十分な薬を買う金もなかった。
彼はただ妹の小さな手を握りしめ、彼女の命が少しずつ冷たくなっていくのを看取ることしかできなかった。
生者は失われる。
どんなに愛していても、どんなに願って祈っても、死は絶対的な別れとしてノアのすべてを奪い去った。
冷たくなった妹の手を握りながら、ノアの心にぽっかりと底なしの穴が空いた。
その穴を埋めるために彼が手を伸ばしたのが、王都の地下古書店で偶然見つけた古い魔導書——禁じられた『死霊術』だった。
妹を一人にさせたくない。
もう一度、あの笑顔を見たい。
だが未熟な死霊術で呼び覚ませたのは、魂のないただの小動物の骨の残骸だけだった。
やがて彼が墓地で本格的な儀式を行おうとしたところで、王都の大人たちに見つかってしまった。
『死者を冒涜する悪魔の子だ!』
『なんて気味が悪いんだ、近づくな!』
誰もノアの悲しみを見ようとはしなかった。
妹を失った深い喪失感を理解しようとする者は一人もおらず、彼はただの『危険な死霊術師』として迫害され、辺境学院の特別隔離教室へと厄介払いのように追放されたのだ。
だからノアは、生者を信じることをやめた。
生者は平気で嘘をつき、裏切り、そしていつか必ず死んで自分を置いていく。
勝手にどこかへ行かず、絶対に自分を裏切らないのは死者だけだ。
「……」
ノアは教室の自分の席で、分厚い魔導書からふと顔を上げた。
昨夜の出来事が、胸の奥で奇妙な引っかかりを残していたからだ。
夜の墓地で骨を集めていた自分を、担任のレオンも保健医のメルディアも気味悪がらなかった。
それどころか怪我の手当てをして、温かい飯を食えと言ってくれた。
『生きてる間の楽しみまで全部捨てる必要はないんじゃないか?』
レオンのその気だるげな言葉が、ノアの頭の中で反響している。
昼休みの鐘が鳴り、エリスが手配した給食のワゴンが教室の前に運び込まれてきた。
今日のメニューは、豆とソーセージの煮込みと黒パンだ。
いつもならレオンが適当に配膳するのだが、今日はノアがゆっくりと席を立った。
「どうしたノア。腹でも減ったか?」
レオンが問うと、ノアは無表情のまま右手に青白い魔力を灯した。
「……死霊術の、実戦演習です」
ノアがそう呟いた瞬間、教室の扉が開きカタカタと乾いた音を立てて三体の人間の骸骨が歩いてきた。
旧校舎の倉庫に眠っていた古い骨格標本を、ノアが魔力で動かしたものだった。
かつて魔法生物学の授業で使われていたものらしく、本物の遺骸ではない。
「ぎゃああっ!?なんだこの動く骨は!」
ガルドが驚いて椅子から飛び退き、右手に黒炎を灯しかける。
「ひっ……!」
ミリアは青ざめて机の下に身を隠した。
「骨、肉ついてない。美味しくない」
リュカは匂いを嗅いで興味を失い、セレスは扇子で顔を半分隠しながら呆れたように息を吐いた。
「まあ、衛生的とは言い難いですわね。給食の場に骨格標本を呼び出すなど、悪趣味にも程がありますわ」
クラスメイトたちが騒然とする中、ノアの操る骸骨たちは驚くほど手際よく動き始めた。
一体がワゴンを押し、もう一体がお玉で豆とソーセージの煮込みを正確に人数分だけ器によそう。
最後の一体がそれを各生徒の机にカタカタと音を立てながら運んでいくのだ。
配膳の効率は抜群だったが、動く標本に給食を置かれる光景は異様そのものだった。
「……どうですか。生者の手より、よっぽど正確で無駄がありません」
ノアが少しだけ誇らしげに言うと、レオンは自分の机に配られたシチューをまじまじと見つめ、それから骸骨を見た。
「便利だな。これなら、放課後の掃除と黒板消しも頼めるか?」
「……は?」
ノアは目を丸くした。
悪魔の業だと忌み嫌われてきた自分の死霊術を、この元勇者はただの『便利な手伝い』として平然と受け入れたのだ。
「……怖くないんですか?骨が動いているんですよ」
「動く骨くらい、魔王軍のアンデッド兵で見慣れてるからな。だがノア、調理には手を出すなよ。衛生上の問題でエリス先生に怒られるからな」
レオンはそう言って、スプーンで煮込みをすくって口に運んだ。
「うまい。ソーセージの塩気がちょうどいいな。お前たちも冷める前に食え」
レオンが平然と食べ始めたのを見て、ガルドは気味が悪そうにしながらも
「……腹減ってんだよ」
と黒パンをかじり始めた。
ミリアもおそるおそるスプーンを手に取り、セレスは「まあ、毒は入っていないようですわね」とため息をついて食事を始める。
リュカはすでにソーセージを頬張っていた。
ノアは自分の机に置かれた器を見つめた。
骸骨が配膳した温かい食事。
かつて王都の大人たちは、ノアが骨を動かすだけで悲鳴を上げて逃げ出したのに。
この教室の連中は文句を言いながらも、普通に自分の魔法を受け入れて給食を食べている。
ノアは一口、煮込みを口に運んだ。
温かい。
昨日、レオンが言った通りだった。
死者を愛するとしても、生者の温かさをすべて拒絶する必要はなかったのだ。
放課後の夕暮れ時。
他の生徒たちが寮へ戻った後、ノアは一人でグラウンドの隅にいた。
彼は昨夜墓地で集めた小動物の骨を地面に並べ、魔力を流し込んで繋ぎ合わせる作業を繰り返している。
カタカタと骨が組み上がり、不器用な形をした獣の骨格が出来上がっていく。
「熱心だな」
背後から声がした。
レオンが黒いコートのポケットに両手を突っ込んだまま、ノアを見下ろしている。
ノアは手を止めず、淡々と口を開いた。
「……もっと強い魔力の流し方を研究しているんです。小さな骨だけじゃなく、もっと大きな……魂の欠片すら呼び戻せるような、完璧な死霊術を」
「魂の欠片、ね」
レオンは少し目を細めた。
ノアの頭上には、赤く明滅する禍々しい文字が浮かんでいる。
『【未来の屍竜王】人類生存率、三パーセント。破滅原因:死者への執着』
「王都の文献には、死者の魂を完全にこの世へ縛り付ける禁術があるって書いてありました。それを完成させれば……僕は、もう二度と大切なものを失わずに済む」
ノアの声には、深い悲しみと、狂気にも似た強い執着が混じっていた。
「妹を、蘇らせたいんです。僕には死霊術の才能がある。だから絶対にできるはずなんです」
妹の死。
それがノアの時間を止め、彼を死の世界へと縛り付けている鎖だった。
生者を憎み、死者だけを愛する未来の王。
彼がこのまま死者を蘇らせる禁術に手を染めれば、やがて巨大な屍竜の骨を掘り起こし人類を滅ぼす災厄へと変貌してしまうだろう。
だがレオンは、ノアから死霊術の魔導書を取り上げるような真似はしなかった。
彼はノアの隣にどっこいしょと腰を下ろし、夕日に染まる空を見上げた。
「妹さんを亡くしたのか」
「……はい」
「そうか」
レオンは短く答え、しばらくの間、静寂が二人の間を包んだ。
頭ごなしに否定されると思っていたノアは、拍子抜けしてレオンの横顔を見た。
「……死者を蘇らせるなんて、自然の摂理に反する悪魔の業だって、またお説教しないんですか?」
ノアが少し棘のある声で問うと、レオンは自嘲するように笑った。
「俺は神父じゃない。それに俺も魔王討伐の旅で、多くの仲間を失った」
レオンの瞳の奥に、戦場に散っていった者たちの記憶がよぎる。
「もし死んだあいつらともう一度話せるなら、もう一度一緒に酒を飲めるなら、どんな禁術にでもすがりたいと思った夜はいくらでもある」
ノアは息を呑んだ。
王都の大人たちは、誰もが綺麗事を並べてノアの悲しみを否定した。
だが目の前の元勇者は、ノアの抱える喪失感と死者への未練を、自分と同じ痛切な願いとして肯定してくれたのだ。
「先生も……死んだ人を、生き返らせたいと思ったことがあるんですか?」
「ああ。しかしやらなかった」
レオンは静かに、しかし断固とした声で言った。
「なぜなら、それは死んだ仲間のためじゃない。残された俺自身のエゴだからだ」
「エゴ……?」
「お前がやろうとしていることも同じだ、ノア」
レオンはノアの方へ向き直り、その真っ直ぐな瞳で少年を見据えた。
「お前は妹に会いたいと言うが、それは死んで静かに眠っている妹の魂を、お前の寂しさを埋めるために現世に無理やり引きずり戻すってことだ。それは妹のためじゃない。お前自身のためだ」
ノアの肩が、ビクリと震えた。
痛いところを突かれたような、息苦しさが胸を襲う。
ノアは反論しようとした。
しかし声が出なかった。
妹に会いたい。
その願いが、本当に妹のためなのか。
初めて、その問いが胸に刺さった。
「死者に触れる力があるなら、お前の執着のためじゃなく、死者のために使え」
レオンの言葉は冷たく厳しいようでいて、誰よりもノアの力を信じているからこその導きだった。
「死者に人生を返すために、生者の人生を奪うな」
死者のために使う。
ノアは自分の足元で動く骨の獣を見つめた。
今まで彼は自分が寂しくないように、自分が裏切られないように、骨を動かして傍に置いていただけだった。
死者の魂そのものが何を望んでいるかなど、考えたこともなかったのだ。
「死者のため……僕の力が……?」
ノアが呆然と呟くと、レオンは立ち上がり、コートの埃を払った。
「お前にはその才能がある。死霊術は死者を冒涜する力じゃない。死者の声を聞き、未練を解いてやるための力にもなるはずだ」
レオンはノアの頭に、大きな手をぽんっと乗せた。
「妹さんに、情けない顔で報告するわけにはいかないだろ。胸を張って生きろ。それが、生きてる兄貴の役目だ」
ノアは唇を噛み締め、俯いた。
目から温かいものがこぼれ落ちそうになるのを、必死に堪える。
『生者はいつか絶対にいなくなる』
その恐怖はまだ完全には消えない。
だが自分の持つ死霊術という力がただの執着の道具ではなく、もっと別の意味を持てるかもしれないという希望が、ノアの冷え切った心に小さな光を灯した。
レオンの視界の端で、『【未来の屍竜王】』の赤い文字がほんのわずかに揺らいだように見えた。
「さて、そろそろエリス先生が見回りに来る時間だ。骨を片付けて寮に戻れよ」
レオンはそう言い残し、気だるげな足取りで旧校舎へと向かっていく。
ノアは足元の骨の獣の魔力を解き、バラバラになった骨を丁寧に拾い集めた。
彼は夕日に向かって歩くレオンの広い背中をじっと見つめ、小さく呟いた。
「……はい、先生」
死者の世界にだけ自分の居場所を求めていた少年は、今、生者の世界にも確かな繋がりを感じ始めていた。




