第21話「死霊術師の少年」
辺境学院の特別隔離教室には、不思議な平穏が訪れつつあった。
つい先日、王都の工作による魔獣の襲撃を退けたことで、問題児たちの中に確かな連帯感が生まれ始めていたのだ。
「おい氷女。そのノート、俺にも見せろ。昨日の魔法陣の計算が合わねえ」
「えっ……あ、はい。どうぞ、ガルドくん」
ガルドがぶっきらぼうにノートを要求し、ミリアがおずおずとそれを差し出す。
ガルドは乱暴にノートを引ったくったが、すぐに「……サンキュ」と小さな声で呟き、自分の机でガリガリとペンを走らせ始めた。
彼が怒り任せに机を焦がすことはもうない。
ミリアの周囲が恐怖によって極寒に凍りつくこともなくなった。
「まあ、少しはまともな学習意欲が湧いてきたようですわね。ですがその計算、二行目から間違っていますわよ。脳の代わりに筋肉で思考しているからそうなるのですわ」
セレスが優雅に紅茶を飲みながら、チクリと嫌味を刺す。
「うるせえ!てめえは黙ってノート書いてろ!」
ガルドが顔を赤くして怒鳴り返すが、そこに以前のような殺気はない。
リュカは窓からの日差しを浴びながら、床で気持ちよさそうに丸まって寝息を立てている。
教室の空気は、少しずつだが普通の学校のそれに近づきつつあった。
だがレオン・グランヴァルトは、教卓から教室全体を見渡し、一人だけその和やかな輪から完全に外れている少年に視線を向けた。
ノア・レイス。
青白い肌に、目の下には濃い隈。
彼は教室の隅の席で、クラスメイトたちのやり取りには一切の興味を示さず、分厚く古い魔導書に視線を落としていた。
彼の机の下では、カタカタと乾いた音を立てて、小さな骨の鳥が歩き回っている。
それは魔力によって動くからくりではなく、死んだ動物の骨に魔力を流し込んで操る『死霊術』の産物だった。
ノアの孤独は、ミリアのように「人を傷つけることを恐れる」孤独ではない。
ガルドのように「誰かに認めてもらいたい」と願う孤独でもない。
ただ純粋に、生きている人間に対する完全な『無関心』と『虚無』だった。
レオンは出席簿を閉じ、静かにノアを見つめた。
彼は教室で問題を起こすことはない。
誰かに突っかからず、暴走して周囲を破壊することもない。
だが彼が抱えている心の暗闇は、ある意味で誰よりも深く、冷たいものにレオンには見えた。
その日の深夜。
辺境学院の裏手にある、古く見捨てられた墓地。
冬の冷たい月明かりが、苔むした墓石を青白く照らし出している。
凍てつくような寒さの中、ノアは一人で土の上にしゃがみ込み、何かを熱心に探し回っていた。
「……これじゃない。この骨は、形が違う」
ノアは土まみれの手で古い動物の骨を掘り起こし、しげしげと観察しては、使えないものを傍らにより分けた。
彼の足元には、墓地の隅で息絶えたのだろうウサギや鳥など、小さな動物の骨がいくつも並べられている。
彼はその中から形の良いものを拾い上げ、青白い魔力を指先に込めて繋ぎ合わせようとしていた。
だが凍りついた土の中で鋭く欠けた骨の破片を強く握りすぎたため、ノアの細い指先が切れ、赤い血がツツッと滴り落ちた。
「痛っ……」
ノアは顔をしかめ、指先を舐めようとした。
その時、背後からザクッという足音が聞こえた。
「こんな夜更けに何をしている、ノア」
ノアが驚いて振り返ると、黒いコートを着たレオンがランタンを手にして立っていた。
レオンは夜の見回りの途中で、墓地に奇妙な魔力の揺らぎを感じてやってきたのだ。
ノアは血の滲む手を咄嗟に背後へ隠し、警戒するような目でレオンを見上げた。
「……先生。見回りの時間ですか」
「そうだ。夜の墓地は冷えるぞ。寮のベッドの方がよっぽど寝心地がいいはずだがな」
レオンはランタンを墓石の上に置き、ノアの足元に並べられた無数の骨を見下ろした。
普通の大人であれば、夜の墓地で骨を集めて魔力を流し込んでいる少年を見れば、気味悪がって怒鳴りつけるか、悪魔の業だと忌み嫌うだろう。
ノアもまた、そうやって王都の大人たちから恐れられ、迫害されてきた。
だから彼は、レオンから否定の言葉が飛んでくるのを待つように、じっと身構えていた。
「死霊術は忌むべきものだと、王都の大人たちは言いました。死者を冒涜する不浄の力だと。先生もそう思うなら、王都の監視官に報告すればいい」
ノアの声は平坦で、どこか投げやりだった。
だがレオンは腰の剣を抜くこともなく、ただ気だるげに首の後ろを掻いただけだった。
「報告書を書くのは面倒くさいんでな。それに骨遊びを咎める気はないが、夜更かしは背が伸びないぞ」
「……怒らないんですか?」
「死霊術が不浄だとか悪魔の業だとか、そんな神学上の理屈は俺には分からん。ただお前がこんな寒空の下で、指から血を流してまで何を探しているのかには少し興味があるな」
レオンはノアの目の前でしゃがみ込み、視線の高さを合わせた。
その真っ直ぐで静かな瞳に見つめられ、ノアは少しだけ戸惑うように視線を泳がせた。
だがやがて、彼は足元でカタカタと動く小さな骨の鳥をそっと拾い上げ、ぽつりと呟いた。
「生きてる人間は、嘘をつきます。裏切ります。そして……急にいなくなります」
ノアの声に、初めて微かな感情の揺らぎが混じった。
「どんなに大切に思っていても、生者はいつか必ず死んで、僕を置いていってしまう。でも死んだものは、もう死なない。僕が魔力を与え続ける限り勝手にどこかへ行かないし、僕を裏切らない。……だから僕は、死んだものの方が好きなんです」
生者は失われる。
だから死者とだけ共にいる。
それはあまりにも悲しく、歪んだ執着だった。
ノアはただ、過去に失った何かから逃れられず、死の世界に自分の居場所を求めているだけなのだ。
レオンの視界が微かに揺れ、ノアの頭上に禍々しい赤い文字が明滅して浮かび上がった。
『【未来の屍竜王】人類生存率、三パーセント。破滅原因:死者への執着』
死者だけを愛し、生者すべてを憎む未来の王。
その破滅の種は、強すぎる魔力ではなく、彼の心の奥にあるもっと深い場所にある。
レオンは静かに息を吐いた。
かつて魔王討伐の旅の途中で、レオンも多くの仲間を失った。
もし死んだ仲間たちともう一度話せるなら、もう一度笑い合えるなら、どんな力にでもすがりたいと思った夜はいくらでもある。
だからノアのその悲しい執着を、頭ごなしに否定することなどレオンにはできなかった。
「……怪我を見せてみなさい」
不意に、静かで穏やかな声が夜の墓地に響いた。
レオンとノアが振り返ると、そこには白い白衣に身を包んだ女性が立っていた。
辺境学院の保健医を務める、メルディアだ。
彼女は手提げの救急箱を持ち、落ち葉を踏む音すらさせずに、いつの間にか二人のすぐそばまで近づいていた。
「メルディア先生。夜勤か?」
「ええ。この辺りから、死霊術の魔力反応と血の匂いがしましたので。念のため救急箱を持ってきて正解でした。レオン先生こそ、夜の見回りお疲れ様です。風邪を引かないように気をつけてくださいね」
メルディアはレオンに軽く会釈をすると、ノアの前に静かにひざまずいた。
彼女はノアが背中に隠していた手を優しく取り、ランタンの灯りの下で血の滲む指先を確認した。
「傷口に土が入っていますね。化膿するといけません」
メルディアは救急箱から消毒液と包帯を取り出し、手際よくノアの指先を処置していく。
ノアはされるがままになっていたが、やがて不思議そうにメルディアの顔を見上げた。
「……気持ち悪くないんですか。墓地に迷い込んだ小動物の骨をいじっていたのに」
「どうして気持ち悪いと思う必要があるのですか?死はすべての生き物に等しく訪れる、ただの自然な現象です」
メルディアは微笑みながら、ノアの指先に丁寧に包帯を巻きつけた。
「死霊術は古い知識ですが、決して悪魔の業などではありません。かつては、命の理を学ぼうとする者たちが用いた一つの手段に過ぎないのですから。……あなたが死者に寄り添おうとする気持ちは、決して悪いものではありませんよ」
その言葉は、王国の教えとは完全に相反するものだった。
王都の人間であれば絶対に口にしない、生と死を対等に扱うような不思議な死生観。
ノアは目を見開き、メルディアの言葉を噛み締めるようにじっと黙り込んだ。
レオンは一歩下がった場所から、メルディアの手当の手際を静かに観察していた。
彼女の指先の動きには一切の無駄がなく、迷いがない。
それは平和な学院の保健室で身につけたものではなく、もっと過酷で、血生臭い場所……戦場で無数の負傷兵を治療してきた者の動きだった。
それに彼女の纏う魔力の気配は、王国の魔術師のものとはどこか違う。
だがレオンは何も追求せず、ただ気だるげに息を吐いた。
この辺境の掃き溜めに流れ着く人間には、誰にでも一つや二つ、言えない過去があるものだ。
それが生徒に害をなさない限り、レオンが口出しする理由はない。
「処置は終わりました。今日はもう休んで、明日からは手袋をして探し物をしてくださいね」
メルディアが優しくノアの頭を撫でる。
ノアは小さく頷き、足元の骨の鳥を大事そうに懐に抱え込んだ。
「さて、戻るぞノア。いつまでも外にいるとエリス先生に大目玉を食らうからな」
レオンが立ち上がり、ランタンを手に取った。
ノアはメルディアに小さく頭を下げると、レオンの隣に並んで歩き出す。
彼は歩きながら、何度も自分の指に巻かれた白い包帯を見つめていた。
「先生」
不意に、ノアがぽつりと口を開いた。
「生きてる人間は、いつか絶対にいなくなります。だから僕は、誰も信じたくない」
「そうだな。命あるものはいつか死ぬ」
レオンは夜空の月を見上げながら、淡々と答えた。
「だが死んで骨になるまでの間、誰かと一緒に温かい飯を食って笑うことはできる。お前が死者をどう扱おうと勝手だが、生きてる間の楽しみまで全部捨てる必要はないんじゃないか?」
ノアは立ち止まり、レオンの背中を見つめた。
頭ごなしに死霊術を否定せず、だからといって同情もせず、ただ普通に腹の足しになることを勧める不器用な大人。
ノアにとって、それは王都の人間とも、自分が愛する死者とも違う、全く新しい存在だった。
「……明日の給食は、なんですか」
「確かエリス先生が、豆とソーセージの煮込みだと言っていたな」
「……分かりました。残さず食べます」
ノアは懐の骨の鳥を撫でながら、静かにレオンの後を追った。
冷たい墓地の空気が、ほんの少しだけ和らいだ気がした。
レオンは前を歩きながら、後ろをついてくる青白い少年の気配を感じていた。
失ったものを取り戻そうとする悲しい執着。
彼が未来の屍竜王になる前に、どうやって生者の世界に彼を引き戻すか。
レオンの新たな戦いが、今ここから静かに始まろうとしていた。




