幕間2「黒炎の少年は、初めて背中を預けられた」
ガルド・バルガという名前は、名門バルガ家にとってただの隠すべき汚点だった。
由緒正しき貴族の当主と、名もなき愛人との間に生まれた妾腹の子供。
顔も覚えていない母親は早くに死に、ガルドは物心ついた時から屋敷の暗く冷たい一室に押し込められて育った。
正妻やその子供たち、果ては使用人たちから向けられる視線は常に冷酷で、蔑みに満ちていた。
『汚らわしい血筋』
『バルガ家の恥さらし』
『失敗作』
それがガルドに向けられる日常の言葉だった。
誰も彼のことを、まともな名前で呼ぼうとはしなかった。
五歳になったある日、彼の中に眠っていた異常な魔力が暴走し、裏庭の巨大な岩を禍々しい黒い炎で一瞬にして黒く焼き割った。
あの日から周囲の目は変わった。
蔑みから、明確な恐怖へ。
そして当主である父親の目は、ただの汚点を見る目から「利用価値のある兵器」を見る目へと変わった。
『お前にはこの黒炎という力しかない。せめてバルガ家の暴力として役に立て』
それから地獄のような過酷な訓練が始まった。
父親が期待していたのはガルドの成長ではない。
ただ敵を焼き尽くし、すべてを灰にする圧倒的な破壊力だけだった。
誰も「ガルド」という一人の少年を見ようとはしなかった。
力を出せば利用され、失敗すれば容赦ない罰を受ける。
彼に向けられるのは「危険物」「粗暴」「化け物」という恐怖と嫌悪の視線だけだった。
だからガルドは、力で相手を屈服させるしかなかった。
誰よりも強くなれば、誰も俺を見下さない。俺を認めるしかない。
そう信じて、ただ手当たり次第に周囲を燃やし続ける孤高の暴君として振る舞ってきたのだ。
結果として彼は王都の学院からも厄介払いされ、実家からも見捨てられ、この辺境の掃き溜めへと追放された。
そんな俺の前に現れたのが、黒いコートを着た気だるげな男だった。
元勇者、レオン・グランヴァルト。
最初はこいつも他の大人と同じだと思っていた。
俺の黒炎を見ればどうせ怯えるか、親父のように力として利用しようとするかのどっちかだと。
だがその予想は、ことごとく裏切られた。
あいつは俺が作った真っ黒な消し炭の肉を、顔色一つ変えずにガリガリと噛み砕いて食いやがった。
『ゴミじゃない。お前が作った飯だ』
その言葉を聞いた時、ガルドの胸の奥で何かが大きく跳ねた。
今まで誰も俺の失敗を許してくれなかった。
失敗すれば罰を与えられ、見捨てられるだけだった。
それなのにあいつは不味いと言いながらも、俺が作ったものを全部受け止めてくれたのだ。
そして模擬戦の時。
俺が放った本気の黒炎を、あいつは素手で真っ二つに引き裂いた。
『ただ熱いだけで、中身が完全に空っぽだ』
『お前は強い。だからこそ、強さの使い方を覚えろ』
あいつは俺の炎を恐れなかった。
危険物として遠ざけることもなく、兵器として利用することもしなかった。
ただの一人の『生徒』として、真正面から俺の力と、俺自身の弱さを叱り飛ばしてくれたのだ。
昨日の夜。
王都の工作員が提示してきた条件は、かつての俺なら即座に飛びついていた甘い毒だった。
男爵位。英雄の座。王都中の人間が自分を認める輝かしい未来。
だが試験場で奴らの顔を見た時、ガルドははっきりと理解した。
奴らが見ているのは俺じゃない。俺の『火力』だ。
親父と同じだ。俺を首輪のついた便利な兵器としてしか見ていない。
だから俺は、迷いなくあいつらの元へ走った。
あの薄暗くて騒がしい、掃き溜めみたいな教室の仲間たちの元へ。
そして、魔獣の群れが学院を襲ったあの夜。
俺は生まれて初めて、誰かの前に立って、誰かを守るために炎を放った。
『俺の後ろにいろ。燃やすのは敵だけだ』
自分の背後にミリアたちを庇い、巨大な黒炎の壁を展開したあの瞬間。
俺の炎はすべてを焼き尽くすだけの呪われた暴力じゃなかった。
ミリアの氷壁と重なり合い、どんな魔獣の突進も跳ね返す、絶対に破られない最強の盾になったのだ。
『ガルドくん、ありがとう……』
氷壁の中でミリアが心底ほっとしたような顔で俺にそう言った。
俺の炎を一番怖がっていたはずの氷女が俺の火加減を信じて、自分の背中を完全に預けてくれたのだ。
『遅えぞ、ガルド』
レオンもまた俺が背後を守ることを疑いもせず、前だけを見て剣を振るっていた。
誰かに背中を預けられること。
自分の力を誰かが信じて頼ってくれること。
それがこんなにも誇らしく胸が熱くなることだなんて、俺は知らなかった。
現在。
辺境学院の特別隔離教室には、昼休みの穏やかな日差しが差し込んでいた。
今日の給食は鶏肉の香草焼きと、野菜たっぷりのスープだった。
ガルドは自分の机で椅子に深く腰掛け、満足げに腹をさすっていた。
机の上に足を乗せる癖はまだ完全には抜けていない。
だが彼の右手から苛立ち任せの黒炎が漏れ出すことはもうなかった。
指先に小さな黒炎を灯し、それをパッと消す。
また灯し、消す。
火加減のコントロールはあの夜の戦いを経て見違えるほど上達していた。
もう無意識に周囲を焦がすことはない。
「ガルドくん、あの……」
斜め前の席から、ミリアが控えめに声をかけてきた。
彼女の両手にはレオンから渡された黒い手袋が嵌められている。
ミリアはおずおずと、自分のノートを差し出してきた。
「午後の魔法陣の課題なんですけど……ここの計算が、どうしても合わなくて。ガルドくん、火力制御の術式、得意ですよね……ここの魔力量の計算を、見てもらえませんか?」
「あぁ?」
ガルドは眉を寄せ、ミリアのノートを覗き込んだ。
少し前の俺なら「知るか」と突き放すか、ノートごと燃やしていただろう。
だが今は不思議とそんな気にはならなかった。
かつては俺の炎を見て悲鳴を上げていた臆病な少女が、今は俺を頼ってノートを差し出している。
その事実が、ガルドのささくれ立っていた心を不思議なほど穏やかにしていた。
「……ここだ。ここの術式の展開式が一段抜けてんだよ。だから魔力量の係数がおかしくなってんだ」
ガルドがぶっきらぼうに指差して指摘すると、ミリアはパァッと顔を輝かせた。
「あ、本当だ……!ありがとうございます、ガルドくん!やっぱりすごいです!」
「……ふん。こんなの基礎中の基礎だろ。お前は魔力制御は細かい癖に、全体を見渡すのがとろいんだよ」
憎まれ口を叩きながらもガルドはそっぽを向いた。
頼りにされて「すごい」と真っ直ぐに褒められると、どうにも背中がむず痒くなる。
「あら、意外と面倒見がいいのですね。野蛮な暴君かと思っていましたけれど、少しは知性が芽生えてきたのかしら」
セレスが扇子で口元を隠しながら、優雅に紅茶を傾けて嫌味を言ってくる。
「うるせえ!てめえの小賢しい策略より、俺の術式構築の方がよっぽど正確なんだよ!」
「ガルド、顔赤い。照れてる。お肉みたい」
リュカが床でゴロゴロと転がりながら、無邪気な声で指摘する。
「ガルドの魔力波長……昨日より穏やかだ。死者の眠りみたいに静か」
ノアも骨の鳥を撫でながら、真顔で分析してくる。
「てめえら……いちいちうるせえんだよ!ぶっ飛ばすぞ!」
ガルドは顔を真っ赤にして怒鳴り返すが、教室の空気は少しもピリピリしていない。
誰もがガルドの怒鳴り声を、ただの照れ隠しだと分かっているからだ。
ガラッ。
教室の扉が開き、レオンが気だるげな足取りで入ってきた。
ガルドは小さく舌打ちしながら、机の上に乗せていた足をそっと下ろした。
「おいガルド。また大声出して、備品を燃やそうとしてるんじゃないだろうな」
レオンが教卓に日誌を置きながら、呆れたように言う。
「燃やしてねえよ!俺はもう完璧に火加減をマスターしてんだ!こんな机なんか焦がすかよ!」
ガルドは勢いよく言い返し、右手の小さな黒炎を見せつけるように消してみせた。
レオンはそれを横目で見て、ふっと口元を緩めた。
「そうか。昨日の夜は、お前のその火加減のおかげで助かった。頼りにしてるぞ、ガルド」
『頼りにしてるぞ』
その一言が、ガルドの胸のど真ん中に真っ直ぐに突き刺さった。
お前は強い。
俺を守れ。
頼りにしてる。
父親からも王都の教師からも、一度だって言われたことのない言葉。
「失敗作」でも「危険物」でもない、「ガルド」という一人の人間として、この不器用な大人は俺を認めてくれている。
俺の居場所は、間違いなくここにあるのだ。
ガルドは胸の奥が熱くなるのを感じ、思わず立ち上がった。
ガルドは何かを言おうとして、口をパクパクと動かした。
いつも通り「元勇者」と呼んで悪態をつくつもりだった。
だが、喉元まで出かかったのは、いつもの悪態とは違う呼び方だった。
俺に火加減を教えてくれた大人。
俺の炎を信じてくれた大人。
俺を、危険物ではなくガルド・バルガとして見てくれた大人。
「……あんた」
そこまで言って、ガルドは口を閉じた。
本当は、もっと素直な呼び方があった。
けれどそれを口にした瞬間、何か負けたような気がした。
「……っ!」
言えない。
恥ずかしすぎて、死んでも言えない。
ガルドが言葉に詰まって顔を真っ赤にしてフリーズしたその直後。
シュゥゥゥゥッ!!
ガルドの前髪の隙間から、勢いよく真っ黒な煙が噴き出した。
まるで蒸気機関車の煙突のように、シュッシュッと音を立てて絶え間なく黒煙が漏れ出している。
「お、おいガルド。お前、また頭から煙出てるぞ。魔力回路がショートしたんじゃないか?」
レオンが目を丸くして、本気で心配そうな声を上げる。
「あらあら。やはり筋肉の代わりに煤が詰まっていたのですね。頭が燃えていますわよ」
セレスが扇子で仰いで煙を払う。
「ガルドの頭、煙突。ぽっぽー」
リュカが嬉しそうに煙を指差して笑う。
「……煙のせいで、前が見えません」
ノアが咳き込みながら手で顔を覆う。
「ガ、ガルドくん!大丈夫ですか!?お水持ってきます!」
ミリアが慌てて立ち上がり、自分の水筒を手に右往左往している。
「ち、ちげええぇぇっ!!燃えてねえ!これはただの……ああもう、うるせえええぇぇっ!!」
ガルドは顔を限界まで真っ赤にしたまま、頭からモクモクと黒煙を上げながら叫び散らした。
「てめえら全員、外周十周走らせてやる!表に出ろ!!」
「なんで俺たちが走らなきゃならないんだ。お前一人で走って頭冷やしてこい」
レオンが呆れたようにツッコミを入れ、教室の中はドッと大きな笑い声に包まれた。
ガルドは煙を上げながらも、そのやかましくて温かい笑い声の中で不器用に口角を上げていた。
もう、誰も自分を怯えた目で見ない。
俺はもう、孤独な暴君じゃない。
この騒がしい教室で、不器用な仲間たちと、あの気だるげな先生と一緒に。
俺の黒炎はこれからもっと強く、そして温かく燃え続けるのだ。




