第2話「氷の少女は誰も近づけない」
赴任二日目の朝。
レオン・グランヴァルトは、王国立最果て学院の旧校舎の最奥にある『特別隔離教室』の教卓の前に立っていた。
「よし、まずは出欠を取るぞ」
返事はない。
ただそれぞれの生徒が好き勝手な音を立てているだけだった。
隔離教室というだけあって、部屋の広さに対して机の数は五つだけと異常に少ない。
ガルドは机に両足を乗せ、指先から黒い炎を出しては消し、机の角をじりじりと焦がしている。
彼が炎を明滅させるたびに、微かに焦げ臭い匂いが漂っていた。
ノアは教室の隅で古い魔導書に視線を落としたまま、机の下で小さな骨の鳥をカタカタと歩かせていた。
セレスは背筋を伸ばして優雅に座り、ときおり手元のノートへ何かを書き留めていた。
その赤い瞳は、クラスメイトとレオンの動きを値踏みするように静かに追っている。
リュカに至っては、窓際の床に丸まり完全に野生の獣のように寝息を立てていた。
そして一番窓際の席。
白銀の髪の少女ミリア・フロストレインの周囲だけ、まるで真冬の吹雪の中のように冷え切っていた。
彼女の机には真っ白な霜が降り窓ガラスは分厚く凍りつき、吐く息は白く濁っている。
レオンは短く息を吐いた。
魔王城の最深部で魔王軍の幹部たちと対峙した時より、この五人をまとめる方がよほど骨が折れそうだ。
だがレオンは苛立つことなく、名簿を置いて生徒たちを見渡した。
「出席は全員取れているようだな。いいことだ」
レオンが口を開くと、ガルドが鼻を鳴らした。
「はん。昨日逃げなかったからって、調子に乗るなよ元勇者。俺の炎で丸焦げになりたくなかったら、さっさと王都に帰るんだな」
「生憎だが俺は熱さには強い。それに、帰る場所もないんでな」
レオンは軽くあしらい、視線を窓際へ向けた。
「ミリア。寒くないか?」
ミリアはビクリと肩を震わせ、さらに深く顔を伏せた。
「……近づかないでください」
消え入りそうな声だった。
レオンが気遣って一歩足を踏み出すと、ヒュオオオッと教室内で局地的な吹雪が舞った。
ミリアの感情が揺れるたび、彼女の魔力が制御を失い周囲の温度を急激に奪っていくのだ。
彼女自身が意図して攻撃しているわけではない。
レオンは立ち止まり、彼女の様子を静かに観察した。
昨日、レオンの『終末視』は彼女の頭上に恐ろしい未来の称号を映し出していた。
『【未来の氷獄魔女】死亡者数、二百万人。破滅原因:孤独』
未来の彼女は世界を凍らせる魔女になる。
だが今、目の前で自分の腕を抱きしめて震えているのは世界を滅ぼす恐ろしい化け物などではない。
ただ自分が誰かを傷つけることを極端に恐れ、怯えているだけの小さな子供だ。
エリスから渡された資料には、ミリアの過去が簡潔に記されていた。
幼い頃の凍傷事故。
王都学院での氷結事故。
そして、何度も浴びせられた言葉。
『化け物』
『近づくな』
『凍らされるぞ』
詳細な経緯や、彼女がその時どんな顔をして泣いたのかまでは書かれていない。
だがそれだけで十分だった。
本来なら親の愛情を一身に受けるべき子供が、自分から孤独を選ぶようになるには、あまりにも十分すぎる記録だった。
自分が誰かに触れれば、必ずその人を傷つけてしまう。
だから誰にも近づいてはいけない。
誰も傷つけないために、完全に孤立することを選んだのだ。
それが、彼女が自らを閉じ込めた『氷の檻』だった。
レオンは無理に近づくことをやめ、黒板に文字を書き始めた。
「今日は魔法の基礎理論をやる。ガルド、その火で教科書を燃やすなよ。ノア、骨の鳥にチョークを運ばせるのはやめろ。俺が自分で取る」
レオンはマイペースに授業を進める。
生徒たちは相変わらずレオンを無視するか、反抗的な態度を取っていた。
だが彼がまったく動じないせいで、少なくとも授業を完全に壊すところまではいかなかった。
戦場で幾多の修羅場を潜り抜けてきたレオンにとって、子供の反抗期など可愛いものだった。
何より彼にはこの教室の生徒たちを本気で恐れ、危険物として扱う大人たちの視線の方がよほど腹立たしかった。
目の前にいるのは災厄ではない。
まだ傷つくことを恐れている子供たちだった。
やがて昼休みの鐘が鳴った。
教室の扉が開き、ワゴンが運び込まれてくる。
レオンがエリスに頼んで手配させた、辺境学院の給食だった。
「よし、飯にするぞ。ガルド、火を消せ。セレス、ノートをしまえ。リュカ、起きろ。肉だぞ」
『肉』という単語に反応し、リュカの耳がピクッと動き、勢いよく跳ね起きた。
まともな当番制など機能するはずもなく、レオンが自ら生徒たちの机にスープとパン、肉料理を配っていく。
辺境学院の給食は王都に比べれば質素なものだが、それでも育ち盛りの子供たちを満たすには十分な量があった。
レオンは食事の時間を何よりも重んじていた。
戦場では腹が減っていては戦えなかった。
心が荒んでいるときほど温かい飯が必要なのだ。
「ほら、お前の分だ」
レオンはミリアの机にも、温かいスープが注がれた器を置いた。
ほかほかと湯気が立ち上っている。
ミリアは躊躇いながらも、小さく「……いただきます」と呟き、器の横に置かれたスプーンへ手を伸ばした。
しかし、スプーンを器のスープに入れた瞬間だった。
ピキキキキッ!
鋭い音が鳴り、器の縁から瞬く間に氷が這い上がった。
温かかったはずのスープは一瞬にして完全に凍りつき、白い冷気を放つ氷の塊と化してしまった。
スプーンも氷のなかに閉じ込められ、ビクともしない。
「あっ……」
ミリアは息を呑み、弾かれたように手を引っ込めた。
まただ。
また、温かいものを壊してしまった。
凍りつく音に気づき、周囲の生徒たちの視線が集まる。
ガルドが腕を組み、鼻を鳴らした。
「おいおい氷女。せっかくの飯が台無しじゃねえか。食わねえなら俺によこせ」
セレスが冷ややかに微笑む。
「相変わらず魔力制御ができていませんのね。迷惑極まりないですわ」
ノアは無関心に本をめくり、リュカは自分の肉に夢中で気にも留めない。
ミリアは深く俯き、膝の上で両手を強く握りしめた。
目から涙がこぼれそうになる。
それを隠すように彼女の周囲の温度がさらに急激に下がっていく。
机の霜が分厚くなり教室の空気が肌を刺すほど冷たくなる。
「ごめんなさい……私、外に出ます……」
ミリアが椅子から立ち上がり、逃げるように教室を飛び出そうとした時だった。
「待て」
レオンが静かに声をかけ、ミリアの机の前に歩み寄った。
彼は凍りついたスープの器を素手で無造作に持ち上げた。
ミリアは慌てて顔を上げる。
「だ、駄目です!先生まで凍ってしまいます!」
悲痛な叫びだった。
これ以上、自分のせいで誰かが傷つくのを見たくなかった。
レオンは器を持ったまま、全く平然としていた。
元勇者の彼にとって、この程度の冷気など雪山のドラゴン討伐で野宿するよりよほどマシだ。
彼は器を片手で持ったまま、もう片方の手で氷に突き刺さったスプーンを掴み、力任せにバキッと引き抜いた。
そして引き抜いたスプーンで凍ったスープの塊をガリガリと削り取り、そのまま口に運んだ。
ガリッ、ボリッ。
氷を噛み砕く無骨な音が、静まり返った教室に響き渡る。
ガルドもノアもセレスも、信じられないものを見るような目でレオンを見つめていた。
「マジかよ、あいつ……」
とガルドが呆れたように呟く。
セレスは扇子で口元を隠したが、その目には明らかな驚愕が浮かんでいた。
リュカでさえ、肉を頬張る手を止めてレオンを凝視している。
ミリアは驚きのあまり、目を丸くして固まっている。
レオンは口の中の氷を飲み込んでから、ふうと息を吐いた。
「なるほど。冷製スープだな」
「え……」
ミリアは言葉を失った。
今まで、彼女が凍らせたものに触れようとする人間はいなかった。
皆、恐れて捨ててきた。
危険物として扱い、彼女を非難してきた。
それなのに、この教師は凍ったスープを平然と食べている。
「先生……どうして……」
「腹が減ってたからな」
レオンはもう一口、凍ったスープを削って食べる。
「味は悪くない。だが次は温かいまま食いたいな。お前も、一人で食べるより誰かと食ったほうが飯は美味いだろう?」
レオンは器を机に戻し、ミリアを真っ直ぐに見つめた。
「ミリア。お前は自分の力が怖いか?」
ミリアは震える唇を噛み締め、ゆっくりと頷いた。
「私が触れると、全部凍ってしまいます。人も、物も……。だから、誰も私に近づかない方がいいんです。近づかないで。先生まで、凍らせたくない……!」
それは彼女がずっと抱えてきた、孤独な呪いの言葉だった。
自分は一人でいなければならない。
誰とも関わってはいけない。
だがレオンは、その呪いを鼻で笑って一蹴した。
「馬鹿を言え。俺は勇者だぞ。お前の氷くらいで死ぬか」
彼はミリアの頭へ手を伸ばしかけた。
だが触れる直前で止めた。
代わりに、凍った器をもう一度持ち上げる。
「今日はここまでだ。無理に触らなくていい。ここから逃げないだけで十分だ」
温かく、静かな声だった。
「お前は優しいから、誰も傷つけないために自分を遠ざけている。だがな、その力はお前を孤独にするためにあるんじゃない」
レオンの言葉は、ただの慰めではない。
戦場で幾多の命のやり取りを見てきた男の、確かな重みを持っていた。
「抑えるな。使い方を覚えろ。凍らせない使い方を、俺と一緒に探せばいい」
ミリアの瞳から、ポロリと大粒の涙がこぼれた。
彼女の感情が激しく揺れたにもかかわらず、その涙は凍ることなく、温かいまま彼女の白い頬を伝って落ちた。
初めてだった。
自分の恐ろしい力を前にして、逃げ出さず、恐れず、凍らせたものを当然のように食べてくれる大人など。
周囲の空気が、少しだけ和らいだような気がした。
舞っていた吹雪が弱まる。
「さあ、飯の続きだ。凍ってないパンと肉を食え。腹が減ってるとろくな未来にならないからな」
レオンは笑って教卓に戻っていく。
ミリアは手元のパンを手に取った。
指先が震えていた。
パンを少しだけちぎり、ゆっくりと口に運ぶ。
パンは、凍っていなかった。
柔らかく、ほんのりと温かかった。
彼女の心の中で、分厚く閉ざされていた氷の壁に、ほんの小さなひびが入った音がした。
「……おいしい」
誰にも聞こえないほどの小さな声で、ミリアは呟いた。




