第1話「追放勇者、災厄の教室に赴任する」
辞令書を、もう一度じっくりと読んだ。
何度目をこすって読み返しても、そこに書かれている流麗な字は同じだった。
王国軍最高司令部が発行した、れっきとした正式文書である。
『——王国立最果て学院、通称「辺境学院」の特別教導官を命ずる』
「教師か……。俺、字を教えるよりドラゴンの倒し方の方が得意なんだが」
レオン・グランヴァルトは、手元の羊皮紙をひらひらと揺らしながら思わず呟いた。
魔王を倒してから三年。
勲章も、褒賞金も、勇者という名誉も一通り与えられた。
だが最後に王国が用意した役目がこれだった。
王国最果ての廃校寸前の学院で問題児たちの面倒を見ること。
「魔王を倒した勇者の最後の仕事が、辺境送りとはな。王国の人事部はなかなか洒落が利いている」
あの戦いの後、王都で見てはいけないものに気づきかけた時からこうなる予感はどこかにあった。
苦笑しながら、レオンは深い溜息をついた。
魔王討伐の旅で、彼は多くのものを失った。
共に笑い合った仲間たち、救えなかった小さな村の住人たち。
そして戦争の波に呑まれた名もなき人々。
血と泥に塗れた長い道のりだった。
だからこそ、平和になったこの世界で、もう誰も傷つけたくないという思いが強かった。
剣を振るうことには、もう心底疲れていたのだ。
だからこそこの辞令が持つ本当の意味に気づきながらも、彼は静かに受け入れるしかなかった。
豪華な調度品に囲まれた王都の執務室で、向かいに座る軍務卿の補佐官と対峙していた。
「勇者殿の功績は、我々も高く評価しております」
補佐官は愛想笑いを浮かべた。だがその目は少しも笑っていない。
「ですが平和な時代において、貴殿の強大すぎる武力と民衆人気は……少々、扱いが難しい」
要するに、王都に残られると困るということだ。
強大すぎる力と民衆からの支持を集めた勇者は、平和になった世界ではただの危険物でしかない。
王国上層部にとって、レオンの存在は目障りなのだ。
栄転を装った体のいい追放である。
「これからは若い世代の育成に力を貸していただきたい。辺境学院には特殊な才能を持つ生徒が集められています。君なら適任だ」
レオンは冷めた目で補佐官を見つめながらも怒鳴ることはしなかった。
戦場帰りの元勇者である彼にとって、宮廷の嫌味や政治的な駆け引きなど取るに足らないことだったからだ。
「……分かった。引き受けよう」
席を立ち、執務室の窓から王都の美しい街並みを見下ろした。
人々は平和を謳歌し、色とりどりの旗が風に揺れている。
その瞬間、レオンの視界がぐにゃりと揺れた。
——燃え盛る王都。
——完全に凍りついた城壁。
——街を闊歩する死者の軍勢。
——血に染まった玉座。
——そして、空を裂く獣の咆哮。
「……っ」
一瞬の強烈な幻視。
レオンは痛む眉間を指で押さえた。
彼が時折見る未来の破滅の断片だった。
彼には他者が辿り得る未来の到達点を称号や災厄の形で視る『終末視』という固有能力がある。
とりわけ破滅へ向かう者については、その最悪の未来が赤い文字となって浮かび上がる。
しかしこの時点ではそれが何を意味するのか、いつ起こるのか詳しく理解していなかった。
ただ胸の奥底に嫌な予感だけが澱のように溜まっていた。
数日後。
レオンはガタガタと揺れる馬車を乗り継ぎ、王都から遠く離れた辺境学院に到着した。
何日も続く過酷な旅路の果てに見たものは、信じられないほど荒廃した学び舎だった。
王都の華やかさとは対照的に、辺境学院は古く、寒く、酷く寂れていた。
崩れかけた正門には蜘蛛の巣が張り、所々ひび割れた魔獣除けの古い結界が辛うじて機能している。
雑草が伸び放題の中庭の向こうには、窓ガラスの割れた旧校舎が寒々しく建っていた。
壁には何かの魔法で焼け焦げたような跡があり、屋根の一部も崩れ落ちている。
遠くには薄暗い森が広がり、歓迎の花火どころか人の気配すらまばらだった。
冷たい風が吹き抜け、枯れ葉がカラカラと音を立てて転がっていく。
「……城よりは、息がしやすいな」
レオンは背中の荷物を担ぎ直し、ぽつりとこぼした。
王都の息苦しい宮廷の空気に比べれば、この荒涼とした風景のほうがよほど彼には性に合っていた。
飾らない、ありのままの世界だ。
「ようこそ、レオン先生。王国立最果て学院へ。もっとも王都の方々は皮肉を込めて“辺境学院”と呼んでいますが」
旧校舎の入り口で彼を出迎えたのは、真面目で現実的そうな若い女性だった。
学院長代理を務めるエリス・アークライト。
彼女はカチッとした制服に身を包み、レオンを歓迎するというより明らかに警戒した目を向けていた。
「あなたが担当する特別クラスは、普通のクラスではありません。これまでの教師は全員、初日で逃げました」
薄暗い廊下を歩きながら、エリスは淡々と事実を告げる。
「生徒たちは王都から危険視され、監視対象にされています。問題が起きれば学院ごと責任を問われることになります。……失礼ですが、元勇者様が子供の相手をできるとは思えません。武勇伝を語って聞かせるだけで教育ができるほど甘い現場ではないのです」
棘のある言葉だった。だがレオンは怒らずに平然と返した。
「俺もそう思う。だからこれから覚える」
その言葉にエリスは少しだけ面食らったような顔をしたが、すぐに案内を続けた。
旧校舎の最奥。
その扉の前で、レオンは足を止めた。
異様な光景だった。
重厚な木製の扉にはびっしりと魔術の封印符が何重にも貼られ、廊下には魔力抑制の結界が息苦しいほどに張られている。
窓には太い補強鉄格子がはめ込まれ、まるで凶悪犯を閉じ込める地下監獄のようだ。
そして扉の横には『特別隔離教室』という物々しい札が掛けられていた。
ただの子供の教室に対して、王国がどれほどの恐怖を抱き、どれほど異常な警戒をしているかが一目でわかる。
「ここにいる子たちは、学院の生徒です」
エリスが重い口調で言った。
「ですが王都の書類上は、災害予備群とされています。授業時間中はこの旧校舎で管理され、寮との往復と、教師の引率下での実技訓練以外の外出は認められていません」
その言葉に、レオンは静かに息を吐いた。
教育対象ではなく危険物扱い。
この扉の向こうにいるのは、人間扱いされていない子供たちなのだ。
王国が何かを恐れていることだけは、嫌でも分かった。
レオンは躊躇いなく扉の取っ手に手を掛け、一気に押し開けた。
軋む音とともに教室の中が見える。
そこには、五人の生徒がいた。
その瞬間、レオンの視界の縁が赤く滲んだ。
彼の固有能力である『終末視』が発動したのだ。
窓際に座る白銀の髪の少女。彼女の周囲だけ机に霜が降り、手元の水筒の水は完全に凍りついている。
レオンが一歩足を踏み入れると、彼女はびくりと肩を震わせた。
「……近づかないでください」
小さな声だった。
だがその一言だけで、彼女が何度も誰かを遠ざけてきたことが痛いほどに分かった。
誰とも目を合わせず、ただじっと自分の手を見つめる彼女の頭上に、血のような赤い文字が浮かび上がった。
『【未来の氷獄魔女】死亡者数、二百万人。破滅原因:孤独』
未来映像として、白い氷に沈んだ街と、氷の玉座に座るあの少女の姿が見える。
レオンは視線を現在の彼女に戻す。
今の彼女は世界を凍らせる恐ろしい魔女ではない。
ただ誰にも近づけない孤独な少女だ。
彼女は自分の力が誰かを傷つけることをひたすらに恐れ、自ら孤独という檻に引きこもっているように見えた。
椅子にふんぞり返り、机の端を黒い炎で焦がしている赤髪の少年。
炎は苛立ちに合わせるように、机の角をじわじわと黒く炭化させていた。
『【未来の黒炎暴君】滅亡国家、七つ。破滅原因:承認飢餓』
レオンは威圧には乗らない。
彼の放つ炎がただの乱暴さではなく、自分を見てほしい、自分の存在価値を認めてほしいという切実な叫びに見えた。
教室の隅で古い本を読む、青白い肌の少年。
彼にはレオンへの興味すらない。
机の下には死霊術の痕跡である小さな骨の鳥がカタカタと動いていた。
『【未来の屍竜王】人類生存率、三パーセント。破滅原因:死者への執着』
レオンは死霊術の危険性より、彼の目の空白を見る。
この子は死者を操りたいのではなく、理不尽に奪われた大切なものからただ離れられないだけなのだと感じた。
姿勢よく座る、赤い瞳の令嬢。
礼儀正しく微笑んではいるが、胸元には一冊のノートを大切そうに抱えている。
その赤い瞳は、初対面のレオンを値踏みするように静かに観察していた。
『【未来の血塗れ女帝】粛清者数、十万人。破滅原因:裏切りへの恐怖』
一見最もまともに見える彼女の微笑みが、信頼ではなく、二度と裏切られないための自己防衛の仮面だとレオンは悟った。
そして、出口に一番近い場所にいる銀髪の獣人少女。
人間を極度に警戒し、レオンが近づいただけで喉の奥で唸り鋭い牙を見せた。
『【未来の獣神災厄】破壊都市、二十三。破滅原因:迫害、言葉の断絶、群れの喪失』
獣ではない。
大人の理不尽によって傷つけられ続けた、一人の子供だとレオンは見る。
言葉が通じないのではなく、都合よく嘘をつく人間の言葉を信じるのをやめてしまったのだ。
レオンは心の中で静かに独白した。
五人。
その全員が、未来の災厄だった。
王都の執務室で見たあの破滅の断片は、この子たちの未来だったのだ。
王都の学院では誰も受け入れられなかった子たち。
王国が厄介払いしたかったのは俺だけじゃなく、彼らも同じだったというわけだ。
レオンが黙って生徒たちを見つめていると、エリスがその沈黙を恐怖だと勘違いし小声で言った。
「……無理なら、今ならまだ辞退できます。これまでの教師も、初日で逃げました」
普通なら逃げるだろう。
王国も学院も、それを期待している。
しかしレオンは逃げない。
未来の災厄は、今ここにいる子供たちそのものではない。
この子たちが見捨てられ、追い詰められた果てに生まれるものだ。
孤独な少女。
認められたい少年。
喪失に囚われた少年。
裏切りを恐れる令嬢。
迫害に傷ついた獣人。
彼らはまだ破滅していない。
まだ救える。
今なら、まだ間に合う。
レオンは黒板の前に立つと、チョークを手に取り大きく自分の名前を書いた。
「レオン・グランヴァルト」
元勇者の名前に、生徒たちが僅かに反応する。
「勇者様が、俺たちに何を教えるって?」
赤髪の少年が鼻で笑って煽る。
レオンは平然と答えた。
「まずは、給食を残さず食べるところからだな」
その言葉に、教室の空気が固まった。
赤髪の少年は怒り、令嬢は困惑し、青白い肌の少年は古い本から顔を上げる。
獣人少女は「食い物?」と耳を動かして反応し、銀髪の少女の机に降りていた霜が、ぱきりと小さな音を立てて広がった。
戦場では、腹が減っていては戦えなかった。
心が荒んでいるときほど、温かい飯が必要だったのだ。
それを教えるのが、彼の最初の授業だった。
レオンは生徒たちをゆっくりと見渡した。
彼の視界には、未来の災厄称号がちらついている。
だが目の前にいるのは、まだ何者にもなっていない子供たちだった。
レオンはチョークを置き、静かに告げた。
「俺は、お前たちを特別扱いしない」
教室の空気が、わずかに揺れた。
「どこにでもいる生徒と同じように教える。食わせる。叱る。困っていたら守る。それが今日からの俺の仕事だ」
魔王を倒した勇者は、辺境の教室で思った。
世界を救うより、子供一人に昼飯を食わせる方が案外難しい。
未来がどれほど恐ろしいものでも、今ここにいる彼らはまだ子供だ。
討伐する相手ではない。
教えるべき生徒だ。
もう二度と、救えたかもしれない誰かを見過ごさない。
災厄になる前の子供を、俺は見捨てない。
「ようこそ、俺の教室へ。ここは檻じゃない。未来を変える場所だ」




