第18話「暴君への誘い」
辺境学院の特別隔離教室に、重い溜息が響き渡った。
ガルド・バルガは机に突っ伏したまま、ピクリとも動こうとしない。
彼の全身の筋肉は悲鳴を上げ、魔力回路は完全にすっからかんになっていた。
昨日、レオンから課された『黒炎の盾』の千本ノックならぬ無慈悲な連続魔力弾受けのせいだ。
「おいガルド、死んでるのか。昼の給食だぞ」
気だるげな声と共に、レオンがガルドの机に木製のトレイを置いた。
今日のメニューは、厚切りのベーコンと豆を煮込んだスープに黒パンとサラダだ。
いつもなら「肉が少ねえ!」と文句の一つも言いながら机を焦がすところだが、今のガルドには黒炎を出す気力すら残っていなかった。
「……生きてるに決まってんだろ、クソ勇者。てめえのせいで、指一本動かすのもきついんだよ……」
「そうか。ならお前の分のベーコンはリュカにやるか」
「冗談じゃねえ!俺の肉だ、触るな!」
ガルドは弾かれたように顔を上げ、トレイを両手で抱え込んだ。
隣の席で虎視眈々とベーコンを狙っていたリュカが「ちぇっ」と小さく舌打ちをして、自分の席へと戻っていく。
「ふふっ。野蛮な炎を振り回す気力がないなら、少しは教室も平和になりますわね。そのまま静かな石像にでもなっていればいかがかしら」
セレスが優雅にスープをスプーンですくいながら、チクリと嫌味を刺してくる。
「ガルド、魔力がすっからかん。死者の骨より乾いてる」
ノアも机の下で骨の鳥にパン屑を与えながら、真顔で的確な分析を口にした。
「てめえら、後で絶対ぶっ飛ばす……」
ガルドは力なく毒づきながら、黒パンを乱暴に千切ってスープに浸し、口に運んだ。
腹が減っては戦えない。
レオンの言う通り、この学院の給食は王都の豪華な食事に比べれば質素だが、疲れた体に染み渡るような確かな温かさがあった。
「ガ、ガルドくん……大丈夫ですか?」
不意に、斜め前の席から控えめな声がかけられた。
ミリアだった。
彼女は両手にはめた黒い手袋を膝の上でぎゅっと握りしめ、心配そうにガルドを見つめている。
かつては彼が黒炎を出すたびに怯えて部屋の隅で丸まっていた少女が、今では自分から声をかけてくるようになったのだ。
「……うるせえ。俺がこの程度で参るわけねえだろ。明日の訓練では、あの魔力弾を一つ残らず俺の炎で飲み込んでやるから見てろ」
ガルドがそっぽを向きながらぶっきらぼうに答えると、ミリアはほっとしたように小さく微笑んだ。
「はい。ガルドくんなら、きっとできます」
その真っ直ぐな言葉に、ガルドは居心地が悪くなってさらに顔を背けた。
彼の前髪からシュゥゥゥッと照れ隠しの黒い煙が漏れ出す。
教室の空気が、かつての殺伐としたものから少しずつ変わり始めている。
ガルド自身も、その変化を肌で感じていた。
レオンという不器用な大人が中心にいて、問題児たちが少しずつお互いの距離を測り直している。
自分が一番強いと証明しなくても、ここでは誰も自分を無視しない。
それが、ガルドにとってどれほど心地よいことか。
彼は無意識のうちに、この隔離教室を自分の居場所だと感じ始めていたのだ。
だがその日の放課後。
ガルドの心に生まれたばかりの小さな平穏は、一本の甘い毒矢によって無残にも貫かれることになる。
ガルドは一人で、旧校舎の裏手にある荒れた庭にいた。
旧校舎の裏手は古い結界の綻びが多く、学院の職員でさえ滅多に近づかない場所だった。
今日の訓練で自分が焦がしてしまった足元の雑草を見つめ、右手に小さな黒炎を灯しては消す練習を繰り返していた。
攻撃ではなく、その場に留めるための炎。
まだコツが掴めず、炎はユラユラと不安定に揺れている。
「やはり素晴らしい。実に美しく、そして圧倒的な力をお持ちだ」
背後から不意に声がかけられた。
ガルドが驚いて振り返ると、そこには見慣れない男が立っていた。
どうやら男は、崩れかけた外壁の隙間から入り込んだらしい。
仕立ての良い上質なコートを着た、三十代半ばほどの男。
王都の貴族が使うような洗練された身のこなしで、男はガルドの前に進み出ると、恭しく深く頭を下げた。
「お初にお目にかかります、ガルド・バルガ様」
ガルド・バルガ『様』。
その丁寧な呼びかけに、ガルドは思わず眉をひそめた。
実家であるバルガ家でも、王都の学院でも、自分に敬称をつけて呼ぶ者など一人もいなかったからだ。
「誰だてめえ。王都の役人か?またロベルトとかいう奴の差し金なら、丸焦げにす……」
「お待ちください。私はロベルト査察官のような無能とは違います。私は王都の、もっと上の方から、あなたという『真の天才』をお迎えに上がった者です」
男の言葉に、ガルドの手に灯っていた黒炎がピクリと揺れた。
「……天才?」
「ええ。昨日の訓練の様子、遠目からですが拝見いたしました。あの強大な黒炎を防御に転用するなど、並の魔術師にできる芸当ではありません。あなたの才能は、こんな辺境の掃き溜めで腐らせてよいものではないのです」
男は甘く、滑らかな声で言葉を紡ぐ。
「王都はあなたのその圧倒的な火力を必要としています。私たちはあなたに、王国立第一魔術学院への特別編入と、最新の設備が整った専用訓練施設をご用意いたします」
第一魔術学院。
先日隔離クラスを「見世物小屋」と嘲笑する手紙を送ってきた、あのエリートたちの集う場所だ。
「それだけではありません。あなたが王都でその力を存分に振るい、王国の剣として活躍していただけるなら……私たちは、あなたに男爵位の推薦をお約束します」
男爵位。
その言葉の持つ意味を理解し、ガルドの心臓が早鐘のように大きく跳ねた。
妾腹の失敗作として生まれ実家から見捨てられたガルドにとって、自分自身の爵位を得るということは父親やバルガ家を完全に見返すことができるという何よりの証明になる。
「想像してみてください、ガルド様。王都の誰もがあなたの力にひれ伏し、あなたを王国の英雄として称賛する未来を。もう誰もあなたを危険物と呼びません。誰もあなたを見下しません。あなたは、すべての人に認められるのです」
誰もが、俺を認める。
英雄として称賛される。
それはガルドが幼い頃からずっとずっと欲しかったものだった。
力がすべてだと教えられ、力を見せつけることでしか自分を表現できなかった彼にとって、男の言葉はあまりにも魅力的で、そして致命的な毒だった。
喉から手が出るほど欲しかった『承認』が、今、目の前に用意されたのだ。
「……条件はなんだ」
ガルドの声は、自分でも驚くほど低く震えていた。
ただでそんなものが手に入るわけがないことくらい、彼にも分かっていた。
男はにっこりと微笑み、懐から一枚の羊皮紙を取り出した。
「簡単なことです。あの隔離クラスを見限り、私たちに協力していただきたいのです」
「協力?」
「はい。現在、元勇者レオン・グランヴァルトが、隔離クラスの生徒たちを洗脳し王都への反逆を企てている……という証言の書類に、あなたのサインをいただきたい。それだけで結構です」
つまり、レオンを売り飛ばせということだ。
ガルドの脳裏に、隔離クラスの顔が次々と浮かんだ。
凍ったスープを平然と食べてみせたレオン。
「お前の炎は空っぽだ」と正面から叱ってくれたレオン。
自分のために震えながら氷壁を張ってくれたミリア。
「ガルドくんなら、きっとできます」と、昼の給食で控えめに信じてくれたミリア。
嫌味を言いながらも給食を共に食べるセレスたち。
彼らを裏切り、すべてを捨てる。
そうすれば自分は王都で英雄になれる。
親父を見返すことができる。
(俺は……どうすればいいんだ……!)
ガルドの右手で、小さな黒炎が激しく明滅を繰り返した。
彼の心の中で、隔離クラスで芽生え始めたばかりの絆と長年彼を縛り付け、飢えさせてきた強烈な承認欲求が激しく衝突していた。
すぐに「ふざけるな」と炎を叩きつけるべきだ。
頭では分かっている。
だがあの暗い地下室で、誰にも見向きされずに震えていた幼い頃の自分の幻影がガルドの足元にしがみついて離れないのだ。
『見てほしい』
『褒めてほしい』
その呪いのような痛みが、彼の決断を鈍らせていた。
「……即答は求めません。あなたの人生を左右する、大きな選択ですからね」
男は羊皮紙を懐にしまい、静かに一歩下がった。
「明日の夜、またこの場所へ伺います。ガルド様がご自身の本当の価値を理解し、賢明なご判断を下されることを信じておりますよ」
男は再び恭しく一礼すると、夕闇に紛れるようにして音もなく立ち去っていった。
裏庭には、冷たい冬の風とガルドだけが残された。
「くそっ……!」
ガルドは右手で顔を覆い、ギリッと奥歯を噛み締めた。
俺は誰よりも強い。
最強のはずだ。
なのにどうして、こんなにも心が揺れるのか。
なぜ、あの気だるげな元勇者の顔が頭から離れないのか。
『お前は強い。だからこそ、強さの使い方を覚えろ』
レオンのその言葉が、ガルドの胸の奥で何度もリフレインしていた。
守るための強さを学び始めたはずなのに。
王都からの甘い誘惑は、黒炎の少年を再び深い暗闇の底へと引きずり込もうとしていた。
ガルドは自分の右手に灯る黒炎をじっと見つめ、血が滲むほどに強く、強く拳を握りしめた。
冬の空は、彼を嘲笑うかのようにただ冷たく澄み切っていた。




