第16話「認めてほしかっただけの少年」
冬の冷たい風が吹き荒れる辺境学院のグラウンド。
ミリアの氷壁が砕け散り、暴走した黒炎の津波をレオンが素手で薙ぎ払った後、そこには重苦しい静寂が降りていた。
ガルド・バルガは自分の両手を見つめたまま、ガタガタと震え続けていた。
『これが、お前の強さか?』
レオンのその一言は、ガルドの心を完全にへし折っていた。
自分が一番強いと信じ、力で他者を屈服させれば誰かが自分を認めてくれると信じてきた。
だがその結果は、同じクラスの仲間たちをこの手で焼き殺しかけるという凄惨な現実だった。
「俺は……俺は……」
ガルドの指先から、黒炎はもう一つも灯らなかった。
いつもなら苛立ちと共に無意識に漏れ出していたはずの炎が、まるで彼自身が恐れて鍵をかけてしまったかのように、完全に沈黙してしまったのだ。
ガルドは耐えきれなくなり、弾かれたようにグラウンドから走り出した。
背後からミリアが「ガルドくん!」と呼ぶ声が聞こえたが、彼は振り返ることができなかった。
ただ逃げるように、荒れ果てた旧校舎の裏手へと駆け込んでいった。
「レオン先生……ガルドくんは……」
エリスが青ざめた顔のまま、レオンの隣に歩み寄ってきた。
彼女の手には、万が一の怪我に備えて持ってきた救急箱が握られている。
「俺が追う」
レオンは短く答え、黒いコートの裾を翻した。
「エリス先生はミリアたちを教室に戻して、温かいお茶でも飲ませてやってくれ。誰も怪我がなくてよかった」
「先生。ガルドくんを、怒らないでください」
ミリアが震える声でレオンを見上げた。
彼女の顔にはまだ炎の恐怖の色が残っており、両手はかすかに震えていた。
だがその瞳には、ガルドを気遣う優しさと理解があった。
「ガルドくんも……怖かったはずです。私が、自分の力を怖がっていた時みたいに。私、大丈夫ですから。だから……」
「分かってる。あいつはもう、自分の炎の痛みを十分すぎるほど思い知ったはずだ。これ以上俺が説教するまでもない」
レオンはミリアの頭を軽く撫でると、ガルドが逃げていった旧校舎の裏手へとゆっくり歩き出した。
旧校舎の裏側は日の光が遮られ、ひんやりとした空気が淀んでいた。
放置されたままの壊れた木箱や瓦礫の陰で、ガルドは膝を抱えてうずくまっていた。
赤い髪をくしゃくしゃに掻きむしり、奥歯を強く噛み締めている。
彼の脳裏には、幼い頃から浴びせられ続けてきた言葉が呪いのように渦巻いていた。
『お前にはこの黒炎という力しかない。せめてバルガ家の暴力として役に立て』
『あの子に近づかない方がいいわ。何をされるか分からないもの』
父親の冷酷な目。
使用人たちの怯えた顔。
王都の学院で、自分から逃げ惑う生徒たちの悲鳴。
そして先ほど、自分の放った黒炎の津波に飲み込まれそうになったミリアたちの絶望的な表情。
すべてがフラッシュバックし、ガルドの呼吸を浅くする。
(親父の言う通りだ。俺の炎はすべてを灰にするだけの、呪われた暴力でしかない)
誰も俺の炎を見て笑ってくれない。
誰も俺の頭を撫でてくれない。
どれだけ強くなっても、どれだけ相手を屈服させても、返ってくるのは恐怖と嫌悪の視線だけだ。
俺は化け物だ。
誰かを守ることも、誰かと一緒に飯を食うことも許されない、ただの危険な失敗作なんだ。
ザクッ、と枯れ草を踏む足音が聞こえた。
ガルドが顔を上げると、逆光の中にレオンの黒いコートのシルエットが立っていた。
「……炎、出なくなったか」
レオンは気だるげな声でそう言うと、ガルドの数歩手前で足を止め、瓦礫に寄りかかるようにして腕を組んだ。
ガルドはギリッと唇を噛み、顔を背けた。
「……うるせえ。俺なんかに構うなよ」
「そうはいかない。お前は俺の生徒だからな」
「生徒だぁ?ふざけんな。あんただって、俺のことが怖いんだろ!俺がいつか、あんたたちを全部焼き尽くす化け物になるって、そう思ってんだろ!」
ガルドの口から、堰を切ったように感情が溢れ出した。
「俺には、これしかねえんだよ!親父は、俺の価値はこの黒炎だけだって言った!だから俺は、誰よりも強くなって、邪魔な奴らを全員灰にすれば……そしたら、誰も俺を馬鹿にしない!誰も俺を無視できないって、そう思って生きてきたんだよ!」
ガルドの目から、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちた。
それは暴君の怒りではない。
ずっと誰かに自分を見てほしかった、ただ承認に飢えた迷子の痛切な叫びだった。
「俺は強い!俺の黒炎は最強のはずだ!なのに……なんで誰も俺を見ねえんだよ!なんで誰も、俺をすごいって言ってくれねえんだよ!俺が勝っても、みんな怯えるだけだ!俺だって……俺だって、ただ……っ!」
認めてほしかっただけなのに。
その最後の言葉は嗚咽に飲み込まれ、声にならなかった。
ガルドは両手で顔を覆い、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
レオンはガルドの涙を笑わなかった。
哀れむこともしなかった。
彼は壁から背中を離し、ガルドの目の前まで歩み寄ると、その赤い頭に無造作に大きな手を乗せた。
「誰も見ていないわけじゃない。俺はちゃんと見ているぞ」
ガルドがハッとして顔を上げる。
レオンは静かな、しかし確かな熱を持った瞳でガルドを真っ直ぐに見据えていた。
「お前の黒炎の火力。一瞬で間合いを詰める瞬発力。ミリアの分厚い氷壁すら溶かそうとする圧倒的な突破力。そして何より、相手をすくみ上がらせる戦場での威圧。どれを取っても一級品だ」
レオンの口から紡がれるのは、慰めでも誤魔化しでもない。
純粋な、戦士としての明確な評価だった。
「王都の騎士団長だろうと、今のお前と正面から撃ち合えば命はないだろうな。お前の強さは、それほどまでに桁外れだ」
ガルドは呆然と目を見開いた。
これまで「化け物」「危険物」「暴力」としか呼ばれなかった自分の力を、初めて大人が「強さ」として、具体的に正面から評価してくれたのだ。
「俺が……強い?」
「ああ、お前は強い。魔王を倒した元勇者の俺が保証してやる。お前の炎は決して空っぽなんかじゃない」
レオンの言葉が、ガルドの乾ききった心に深く、深く沁み込んでいく。
父親にすら一度も与えられなかった明確な肯定。
自分の存在価値を初めて丸ごと受け止められた感覚に、ガルドの胸の奥で何かが熱く震えた。
「だがな、ガルド」
レオンはガルドの頭から手を離し、厳しい声で告げた。
「強すぎる力は、ただ無闇に振り回せば大切なものまで焼き尽くす。お前はもう、ただ力を誇示して誰かを怯えさせたいだけの迷子の子供じゃないはずだ。あの給食で、俺が真っ黒な炭を食べた時、お前は自分の失敗から目を逸らさなかった。そして今日、ミリアを巻き込みそうになった時、お前は本気で絶望しただろう」
それはガルドの中に、他者を思いやる心と、自分の力に対する責任感が芽生え始めている証拠だった。
「お前は強い。だからこそ、強さの使い方を覚えろ」
レオンはガルドに手を差し伸べた。
「世界を灰にするためじゃない。力で誰かを屈服させるためでもない。世界の中で、お前が誰かの前に立って守るための使い方をな。俺が教えてやる」
守るための、強さの使い方。
ガルドはその言葉を反芻し、ゆっくりと立ち上がった。
まだ顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃだったが、その瞳からはもう絶望の色は消え去っていた。
「……俺なんかが、誰かを守れるのかよ。俺の炎は、燃やすことしかできねえのに」
「ミリアにできて、お前にできないはずがないだろう。それともなんだ、あの臆病な氷女に負けたままでいいのか?」
レオンの意地悪な挑発に、ガルドの額にピキッと青筋が浮かんだ。
「……ふざけんな。誰が負けるかよ」
ガルドは制服の袖で乱暴に涙を拭うと、ギリッと奥歯を噛み締めた。
その瞬間だった。
沈黙していたガルドの右手の指先に、ぽっと小さな黒炎が灯った。
それは周囲を無差別に焼き尽くそうとする暴走の炎ではない。
彼の明確な意志によって制御された、静かで、しかし決して消えることのない熱い炎だった。
ガルドは、自分の指先に灯ったその小さな炎をじっと見つめた。
暴走したわけじゃない。
自分の意志で、ただ小さな火加減として灯すことができた。
その確かな事実が、ガルドの心に強がる余裕を呼び戻す。
「教えてやるよ、元勇者。俺の炎が一番強えってことをな」
ガルドは不敵な笑みを浮かべ、レオンの差し出した手を力強く握り返した。
その手は熱を帯びていたが、レオンを火傷させるような暴力的な熱さではなかった。
「楽しみにしているぞ、黒炎の問題児」
レオンは満足そうに口元を緩め、ガルドの手を強く引き寄せた。
「さあ、教室に戻るぞ。今日はエリス先生が特別に菓子を用意しているらしい。泣きすぎて腹が減っただろう」
「なっ……!俺は泣いてねえ!目にゴミが入っただけだ!」
図星を突かれたガルドの顔が真っ赤になり、彼の前髪からシュゥゥゥッと照れ隠しのような黒い煙が漏れ出した。
コミカルなその反応に、レオンは思わず声を上げて笑った。
かつて王都で恐れられ、実家から見捨てられ、力を見せつけることでしか生きられなかった少年。
彼が初めて、自分の弱さを認め、大人の導きを真っ直ぐに受け入れた瞬間だった。
『【未来の黒炎暴君】滅亡国家、七つ。破滅原因:承認飢餓』
レオンの視界の端で明滅していた禍々しい赤い文字。
その色が、ほんの僅かに薄れたように見えた。
未来は変わる。
氷獄魔女が守る盾に変わったように、この黒炎の暴君もまた、別の未来を歩み始めているのだ。
「早く歩けよ、元勇者!俺は誰よりも早く菓子を食うんだからな!」
「はいはい。だが手も洗わずに菓子を食ったら、またエリス先生に説教されるぞ」
旧校舎の裏手から、焦げ臭い煙と一緒に、二人の賑やかな声が冬の空へと溶けていく。
ガルドの心の中にあった承認飢餓という名のぽっかりと空いた穴は、今、彼を真っ直ぐに見てくれる教師の存在によって、確かな温もりで満たされようとしていた。




