第15話「黒炎、味方を焼く」
冷たい冬の風が吹き抜ける辺境学院の荒れたグラウンド。
レオン・グランヴァルトはいつもの黒いコートのポケットに両手を突っ込んだまま、十歩ほど先に立つ赤髪の少年と対峙していた。
ガルド・バルガ。
彼はギリッと奥歯を噛み締め、両腕にどす黒い魔力を纏わせている。
グラウンドの端には、安全な距離を取ったつもりでミリア、ノア、セレス、リュカの四人、そして万が一に備えて救急箱を持ったエリスが不安げな顔で見守っていた。
だがそれは、あくまで通常の模擬戦を想定した距離でしかなかった。
「いいか、ガルド。条件は昨日言った通りだ」
レオンは気だるげな声で告げた。
「俺に少しでもお前の炎をかすらせてみろ。それができたら、王都の連中を見返す方法を教えてやる」
「はんっ。かすらせるだと?舐めやがって。俺の炎でてめえのその余裕ごと完全に焼き尽くしてやるよ!」
ガルドは吠え、右手をレオンへと突き出した。
「行くぞ、元勇者ぁっ!」
ガルドの腕から、禍々しい黒炎の塊が放たれた。
それは昨日までのただ手当たり次第に周囲を燃やすだけの山火事のような炎ではない。
怒りを乗せつつも、レオンという単一の標的だけを狙うように、彼なりに『火加減』を意識して圧縮された黒炎だった。
鋭い軌道を描いて黒炎がレオンの胸元へと迫る。
(……少しは学習したようだな)
レオンは内心で小さく頷きながらも、その黒炎を半歩横にずれるだけであっさりと躱した。
黒炎はレオンの背後へと抜け、遠くの地面を黒く焦がして霧散する。
「なっ……!?」
「遅い。それに軽いな」
レオンは全く動じることなく、冷たく言い放った。
「狙いを絞ろうとしたのは褒めてやるが、意識しすぎて火力が落ちている。その程度の炎で、王都の連中を見返すつもりか」
「うるせえ!ならこれならどうだ!」
ガルドは両手から連続して黒炎の弾丸を放つ。
しかしレオンは歩くような自然な足取りで、すべてを紙一重で躱していく。
焦げた匂いがグラウンドに充満するが、レオンの黒いコートの裾一つすら燃やすことができない。
ガルドの息が上がり始める。
彼の心の中で、昨日の王都学院からの挑発状の言葉が蘇ってきた。
『底辺の掃き溜め』
『野蛮な黒炎』
『せいぜいその檻の中で道化としてお過ごしください』
(俺は道化なんかじゃねえ!俺は誰よりも強いんだ!)
ガルドは力を証明しなければならない。
自分が恐るべき力を持つ存在であると、王都のエリートたちにも、目の前の元勇者にも思い知らせなければならないのだ。
だがレオンはそんなガルドの焦りを見透かしたように、容赦ない言葉を投げかけた。
「どうした。お前を“妾腹の失敗作”だの“野蛮な黒炎”だのと笑った連中に、その程度の炎しか見せられないのか」
その言葉に、ガルドの動きがピタリと止まった。
「……なんだと?」
レオンの目はわざと冷酷な色を帯びていた。
「底辺の掃き溜めと馬鹿にされた怒りを、俺にぶつけてみろと言ったんだ。だがお前の炎からは、ただ怯えている迷子の泣き声しか聞こえないな。王都の連中が言う通り、お前はただの野蛮な見世物で終わりか?」
それは、ガルドがこれまで浴びせられてきた言葉をあえて突きつける、危うい賭けだった。
レオンは知っている。
ガルドの根底にある承認飢餓が、どれほど彼を縛り付けているかを。
だからこそその殻を壊すために、あえて悪役を演じたのだ。
暴走すれば、自分が止める。
その覚悟だけは、レオンの中にあった。
だがガルドにとって、その言葉は導きではなく完全な自己否定に聞こえた。
「てめえ……っ、ふざけんじゃねえぞ!!」
ガルドの瞳孔が縦に細く収縮し、彼の全身からドゴォォォンッ!という爆発音と共に巨大な黒炎が噴き出した。
熱波がグラウンドを吹き荒れ、足元の凍てついた地面が一瞬にして赤熱する。
昨日自分で選んだはずのわずかな制御など、怒りによって完全に吹き飛んでしまったのだ。
レオンの視界が赤く染まり、ガルドの頭上に禍々しい文字が明滅する。
『【未来の黒炎暴君】滅亡国家、七つ。破滅原因:承認飢餓』
理性を失い、ただ目の前のすべてを焼き尽くすためだけの純粋な破壊の力。
「俺は強い!誰にも馬鹿にさせねえぇぇっ!!」
ガルドが両腕を振り抜く。
彼から放たれた黒炎は、これまでとは桁違いの質量と熱量を持っていた。
巨大な黒炎の津波がレオンに向かって押し寄せる。
だがガルドは怒りに我を忘れており、その炎が『レオンだけ』に向かっていないことに気がついていなかった。
レオンの予想を超え、黒炎は一瞬で扇状に膨れ上がった。
扇状に大きく広がった黒炎の嵐はレオンを飲み込むと同時に、その背後の遠くにいるミリアたち観戦者の元へと猛烈な速度で迫っていったのだ。
「しまっ……!?」
炎を放った直後、ガルドはハッとして目を見開いた。
自分が放った黒炎の射線上に、ミリア、ノア、セレス、リュカ、エリスの姿がある。
(止まれ……っ、止まれよ!!)
ガルドは心の中で叫んだ。
父親にはすべてを灰にしろとしか教わっていない。
彼は放った炎の勢いを途中で殺す方法も、方向を曲げる方法も知らなかった。
自分の絶対的な力が、仲間を飲み込もうとしている。
「きゃあああぁっ!」
悲鳴が上がった。
迫り来る致死の熱波を前にして、ミリアが咄嗟に両手を前に突き出した。
「みんな、下がって……!」
ミリアの足元から、分厚く透明な氷の壁が凄まじい速度でせり上がる。
先日ガルドの実戦授業で作り出した、仲間を守るための氷の盾だ。
ガァァァァンッ!!
ガルドの放った黒炎の津波が、ミリアの展開した氷壁に激突した。
すさまじい蒸気が上がり、熱波と冷気がグラウンドの端で激しくぶつかり合う。
だが今日のガルドの黒炎は、昨日ミリアが防いだ時のものとは威力が違った。
制御を完全に失い暴走状態となった黒炎の熱量は、ミリアの氷壁を容赦なく溶かしていく。
「う、あぁぁぁっ……!」
ミリアは悲痛な声を上げ、両手から必死に魔力を注ぎ込む。
だがピキ……ピキキキッ!と、氷壁に無数の亀裂が走った。
「ミリアさん!無理です、防ぎきれません!」
エリスが青ざめた顔で叫ぶ。
セレスが扇子で顔を庇い、ノアが骨の鳥を抱きしめる。
リュカも熱さに耐えかねて後ずさる。
氷壁の向こう側で荒れ狂う黒炎が、今にも壁を突き破り彼女たちを灰にしようとしていた。
(俺の、せいだ……俺が、あいつらを……!)
ガルドは絶望に顔を歪め、膝から崩れ落ちそうになった。
自分が一番強いと信じて疑わなかった力が、ただ味方を焼き殺そうとしている。
昨日、初めて自分で選べたと思っていた『火加減』は、たった一度の怒りで粉々に砕け散っていた。
親父の言う通りだ。
俺の炎はすべてを灰にするだけの、呪われた暴力でしかない。
その残酷な現実が、彼の心を容赦なくへし折ろうとしていた。
パリンッ!!
ついにミリアの氷壁が限界を迎え、中央から大きく砕け散った。
ミリアの瞳に絶望が宿る。
——みんなを、守れない。
抑え込まれていた黒炎が牙を剥いてミリアたちへと襲いかかる。
だがその黒炎が彼女たちに届くよりも早く。
「——そこまでだ」
黒いコートの男が、砕けた氷壁と黒炎の間にスッと入り込んだ。
レオンだ。
彼は腰の剣を抜くことなく極限まで闘気を高めた右手の素手の一振りで、襲いかかってきた黒炎の津波を真っ向から薙ぎ払った。
パァァァンッ!!
空気が弾けるような爆発音と共に、黒炎が左右に真っ二つに裂かれ、ミリアたちを避けるようにして後方へと逸れていく。
背後の古い校舎の壁を黒く焦がし、炎は完全に霧散した。
グラウンドに重苦しい静寂が降りる。
もうもうと立ち込める白い蒸気の中で、ミリアはへたり込み荒い息を吐いていた。
彼女の頬は熱波で赤く染まり、手袋には黒い煤がこびりついている。
エリスや他の生徒たちも怪我はないものの、死の恐怖に顔を青ざめさせていた。
「……っ」
ガルドは自分の両手を見つめたまま、ガタガタと震えていた。
炎を放った感覚がまだ指先に残っている。
もしレオンが間に合っていなかったら。
もしあのまま黒炎が直撃していたら。
自分は同じクラスの仲間たちをこの手で焼き殺していたのだ。
「俺は……なんてことを……」
ガルドの口から乾いた声が漏れた。
彼は力で他者を屈服させることしか知らなかった。
誰よりも強くなればすべてが解決すると思っていた。
だがその力が、ただ味方を危険に晒すだけのコントロールの利かない欠陥品だったと思い知らされたのだ。
王都の連中が言っていた通りだ。
自分は誰かを守ることもできない、ただの野蛮な化け物なのだと。
「おい、ガルド」
レオンが蒸気を払いながら、ゆっくりと歩み寄ってきた。
ガルドはビクッと肩を震わせ、顔を上げる。
レオンの顔には怒りも失望もなかった。
ただすべてを見透かすような静かな目をして、ガルドを見下ろしていた。
「これが、お前の『強さ』か?」
その言葉はレオンの物理的な一撃よりも深く、ガルドの心を容赦なくえぐった。
ガルドは何も言い返すことができず、ただグラウンドの土を強く握りしめ、屈辱と後悔に唇を噛むことしかできなかった。
黒炎の暴君は初めて、自らの力がもたらす取り返しのつかない結果に震えていた。
彼の指先からは、もう黒炎は一つも灯らなかった。




