第11話「黒炎の問題児」
王都教育局の査察官による理不尽な襲撃事件から数日が過ぎた。
辺境学院の旧校舎、特別隔離教室の朝は、かつてないほど穏やかな空気に包まれていた。
レオン・グランヴァルトが気だるげに教室の扉を開けると、そこには信じられない光景が広がっていたのだ。
一番窓際の席。
これまで常に周囲を極寒の氷で閉ざし、誰一人として寄せ付けなかった白銀の髪の少女、ミリア・フロストレイン。
彼女は机に向かい、レオンから渡された特注の魔獣革の手袋を外した素手でペンを握ってノートに文字を書いていた。
机には微かな霜すら降りておらず窓ガラスも凍っていない。
レオンと目が合うと、ミリアは少しだけ頬を染めながらおずおずと口を開いた。
「おはようございます……先生」
小さな、けれどはっきりとした声だった。
レオンは目を見開き、そして口元に柔らかい笑みを浮かべた。
「ああ、おはようミリア。調子はどうだ?」
「はい。……手袋を外していても、少しだけなら大丈夫になりました」
彼女は照れくさそうに笑った。
誰かを守らなければならない場面では声を振り絞れたミリアだが、こうして朝の教室で自分から挨拶をするのは彼女にとって大きな一歩だった。
レオンは出席簿を教卓に置き、窓際の床で丸まっている銀髪の獣人少女リュカを見た。
「ほらリュカ、起きろ。朝のホームルームが始まるぞ」
「……んん。今日のご飯、肉ある……?」
「昼の給食は鶏肉の香草焼きだとエリス先生が言っていたぞ」
「……起きる」
リュカはむくりと身を起こし、尻尾を揺らしながら自分の席へと向かった。
教室は少しずつ普通の学校らしい空気を取り戻し始めていた。
その光景を、ガルドは教室の後方から横目で見ていた。
あの氷女が先生に笑いかけ、教室の空気が少しずつ温かくなっていく。
それがなぜか、彼にはひどく面白くなかった。
ガンッ!!
教室の後方から机を乱暴に蹴り飛ばす鋭い音が響き渡った。
全員の視線が一斉にそちらへ向かう。
椅子にふんぞり返り両足を机に乗せて貧乏ゆすりをしていた赤髪の少年、ガルド・バルガだった。
彼の机の上には、昨日の魔法基礎理論の課題の羊皮紙が放り出されている。
ガルドは苛立たしげに舌打ちをし、右手からボワッと禍々しい黒い炎を立ち上がらせた。
「朝っぱらから気色悪りぃな。仲良しごっこなら他所でやれよ」
ガルドの言葉には、あからさまなトゲがあった。
彼は右手の黒炎を机の上の羊皮紙へと無造作に近づけた。
課題の紙は瞬く間に真っ黒な灰と化し、パラパラと床に崩れ落ちる。
「んな紙切れにちまちま計算書いたところで、魔法が強くなるわけじゃねえだろうが。俺にはこんなくだらねえ理屈はいらねえ。俺の黒炎があれば、敵なんて全部灰にできるんだからな」
ガルドは灰を払うように手を振り、さらに黒炎を大きく燃え上がらせた。
熱波が教室中に広がり、天井の木材がチリチリと焦げ始める。
周囲の空気がじりじりと焦げるような熱を帯びた。
レオンは静かに口を開いた。
「ガルド。炎をしまえ。それと、机から足を下ろせ。備品が傷むだろうが」
担任としての当然の注意だった。
だがガルドはレオンの言葉を鼻で笑い、さらに挑発的な目を向ける。
「うるせえな!俺が燃やしたいから燃やしてんだ!元勇者だかなんだか知らねえが、お前の言うことなんか聞くかよ!」
その野蛮な振る舞いに、セレスが冷ややかな目を向けた。
「野蛮ですわね。自分の力を誇示するしか能がないなんて。脳の代わりに筋肉と煤でも詰まっていらっしゃるのかしら。そのような知性では、いずれ足元をすくわれますわよ」
「なんだと!?てめえのコソコソした小細工より、俺の炎の方がよっぽど強えんだよ!お前もまとめて燃やしてやろうか!」
「ガルドの炎……魂まで焦がしそう。骨が熱がっている」
ノアが机の下の骨の鳥を庇うように抱き上げ、静かに呟く。
リュカは両手で耳を塞ぎ、不快そうに顔をしかめた。
「うるさい。焦げ臭い。寝れない」
「てめえら……っ!」
孤立無援となったガルドの苛立ちは頂点に達し、彼の全身から黒い魔力が噴き出し始めた。
ミリアが怯えたように肩を震わせる。
だが彼女はもうただ逃げて無差別に凍らせるだけの少女ではなかった。
彼女は両手に力を込め、みんなを守るために氷壁を展開しようと魔力を練り始めた。
「ミリア、いい。座っていろ」
そのミリアの動きを、レオンが静かな声で制した。
レオンはゆっくりとガルドの正面へと歩み寄った。
レオンの視界が微かに揺れ、ガルドの頭上に禍々しい赤い文字が鮮明に浮かび上がる。
『【未来の黒炎暴君】滅亡国家、七つ。破滅原因:承認飢餓』
レオンはその文字を冷静に見つめていた。
滅亡国家が七つ。
どれほどの軍事力と結界を持つ大国であろうと、未来の彼が振るう黒炎の前には意味をなさないということだ。
だがレオンが着目したのは、その圧倒的な破壊力ではなかった。
破滅原因:承認飢餓。
ガルドは強さを求めているのではない。
ただ認められたいだけなのだ。
自分を見てほしい。
自分を褒めてほしい。
自分という存在の価値を証明したい。
だが彼はその手段として、力で相手を屈服させることしか知らない。
ミリアが変わり教室の空気が変わった。
その中で、自分だけが置いていかれる。
ガルドの炎は、そんな焦りにも見えた。
自分が一番強いという優位性が揺らぐことが、彼には耐えられないのだ。
「俺が一番強いんだ!俺の炎があれば何だって燃やせる!誰も俺には逆らえねえんだよ!」
ガルドが吠え、右手の黒炎を苛立ち任せに極限まで圧縮した。
そしてあろうことか、その破壊の塊をレオンに向かって真っ直ぐに放ったのだ。
「先生!」
ミリアが悲鳴を上げた。
大人がまともに受ければ、骨まで灰になる凶悪な一撃だ。
だがレオンは避けるどころか、腰の剣すら抜かなかった。
「——その程度か」
地を這うような低い声と共に、レオンは右手を無造作に前へと突き出した。
闘気と魔力を極限まで集中させたその素手が、迫り来る黒炎の塊のど真ん中を真っ向から捉える。
パァァァンッ!!
爆発音と共に、黒炎がレオンの手のひらで真っ二つに裂かれた。
裂かれた炎はレオンの背後の左右へと逸れ、壁を黒く焦がして霧散していく。
レオンの右手は煤で少し黒く汚れただけで、火傷一つ負っていなかった。
「な……っ!?」
ガルドは驚愕に目を見開き、自分の右手とレオンを交互に見つめた。
苛立ち任せに叩きつけた黒炎が、ただの素手で裂かれたのだ。
「火力は一級品だ。だがお前の炎は軽すぎる。ただ熱いだけで、中身が完全に空っぽだ」
レオンは煤で黒く汚れた手のひらを軽く払うと、ガルドを冷たく見据えた。
「空っぽだと!?ふざけんな!俺の炎の威力が分からねえのか!俺は誰よりも強えんだよ!」
「俺から見れば、ただ駄々をこねている子供にしか見えないな」
レオンの言葉は、容赦なくガルドの痛いところを突き刺した。
「今のお前の炎からは、強くなりたいというより、誰かに見ろと叫んでいるように見える。腹を空かせた迷子みたいにな」
「っ……!ち、違え!俺は……俺はただ……っ!」
図星を突かれたガルドの顔が、怒りと羞恥で真っ赤に染まる。
反論しようとして言葉に詰まった彼の前髪から、シュゥゥゥッと情けない音を立てて黒い煙が漏れ出した。
コミカルなその光景に、緊迫していた教室の空気が一気に抜ける。
「ガルド君、頭から煙が出ていますわよ。やはり脳が燃えていらっしゃるのね」
セレスが扇子で口元を隠しながらくすくすと笑う。
「う、うるせえ!笑ってんじゃねえ!てめえら、全員ぶっ飛ばしてやる!」
ガルドは顔を真っ赤にして怒鳴り散らすが、その声には先ほどまでの危険な殺気はなかった。
レオンはそんなガルドを見下ろし、口元に挑発的な笑みを浮かべた。
「俺を倒したければ、もう少しマシな炎を出せ。今のお前じゃ、俺の手のひら一つも貫けない」
ガルドはギリッと奥歯を噛み締めた。
圧倒的な実力差を見せつけられ、それ以上踏み込むことができなかったのだ。
「ただし、教室の備品を壊すような真似はもう二度とするな。次やったら、昼の給食の肉はお前だけ抜きだ」
「給食抜きだと!?……ふざけんな!せっかくここに来てから、まともに肉が食えるようになったってのに……!」
「なら大人しく席に座れ。ホームルームの続きだ」
レオンが背を向けて教卓に戻ると、ガルドはそれ以上炎を出すことはなかった。
彼は乱暴に椅子を引き、ドカッと座り直す。
だがその瞳には、レオンに対する明確な対抗心と、自分の本質を見透かされたことへの戸惑いが渦巻いていた。
(俺の炎が、空っぽ……?ふざけんな、俺がどれだけ……!)
黒炎の暴君は、まだ自分の力の本当の意味を知らない。
だがレオンはガルドが放つ不器用な叫びを、正面から完全に受け止めてみせたのだ。
ミリアの氷壁の次は、ガルドの黒炎。
辺境学院の特別隔離教室では、新たな問題児の教育の火蓋が切られようとしていた。




