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第6話 夜の使い方

 意識が戻った時、部屋は静かだった。


 スマートフォンで時刻を確認すると、午後十一時四十三分だった。昨夜より早い。まだ日付も変わっていない。


 夜は、まだ長い。


 その事実を確認した瞬間、胸の奥に、ごく小さな熱のようなものが生まれた。


 カーテンの隙間から、遠くの街灯の光が見える。昨日見たコンビニの看板も、まだ白く光っているはずだった。その先には大通りがあり、信号があり、車が走り、夜でも動いている場所がある。


 外へ出れば、また何かが分かる。


 昨日より遠くへ行けば、この街の形がもう少し見える。自分が置かれている世界の輪郭を、少しだけ広げられる。


 ――知りたい。


 その言葉だけが、胸の奥で静かに熱を持った。


 そう考えて、体を起こした。


 その瞬間、足の奥に鈍い重さが残っていることに気づいた。


 痛みではない。歩くことを妨げるほどでもない。ただ、ふくらはぎから足首のあたりにかけて、疲労が沈んでいる。前夜に住宅街を歩き、コンビニまで往復した時のものだろう。


 前夜に歩いたのは自分だ。


 けれど、その重さを抱えて学校へ行ったのは成瀬歩だった。授業を受け、小森と話し、篠原の前で駒を持ったのは、自分ではない。


 自分の行動の結果を、別の意識が理由も分からず受け取っている。


 それは、効率だけの問題ではなかった。


 スマートフォンを手に取り、今日の痕跡をたどることにした。


 LOINのトーク履歴を開くと、まず陽菜の名前が目に入った。午前中に、一つだけメッセージが来ている。


『ちゃんと食べた?』


 歩は、それに短く返していた。


『食べた』


 やり取りはそれだけだった。けれど、学校にいる時間にわざわざ確認を入れてくるあたり、陽菜の意識は昼間も兄の方へ向いていたのだろう。


 次に、小森拓真とのやり取りを確認した。


 冗談混じりの短い文がいくつか続いている。内容だけを追えば、特別なものではない。だが、その中に一文だけ、目に留まるものがあった。


『今日は顔色悪かったけど、明日は少しましになってるといいな』


 真正面から心配する文ではない。


 それでも、見ている。


 小森は冗談の中に紛れるようにして、成瀬歩の顔色が悪かったことに触れていた。


 篠原結衣とのトークは、さらに短かった。


『今日はありがとうございました』


 歩はそれに、同じくらい短く返している。


『こちらこそ』


 ただの礼に見える。けれど、余計な言葉を残さない人間が、わざわざ一文を送ってきた。その事実は、文字の数以上の意味を持つ可能性があった。


 陽菜は、直接気にかける。


 小森は、軽口の中に混ぜる。


 篠原は、短い一文だけを残す。


 形は違っても、三人とも成瀬歩を見ていた。


 昼間の成瀬歩は、学校に行き、授業を受け、小森と弁当を食べ、放課後には将棋部へ行った。文字にすれば、それだけの一日だ。特別な事件はない。


 けれど、その普通の一日の中で、周囲の人間は歩の疲れを拾っていた。


 夜の行動は、昼に残る。


 その事実が、足の奥の重さよりもはっきりと意識に沈んだ。


 成瀬歩には、夜に歩いた記憶がない。それなのに朝になると体が重い。眠ったはずなのに疲れが残っている。そういう日が続けば、やがて「眠れているはずなのに疲れる」という認識が、成瀬歩の中に残る。


 そしてそれは、成瀬歩を見ている人間の目を引く。


 陽菜は家族として、顔色や生活の変化に気づく。小森は軽口に混ぜて、普段との違いを拾う。篠原は言葉少なでも、手元や顔色を見ている。


 ――昼を壊せば、夜も残らない。


 その一文が、頭の中に落ちた。


 それでも、窓の外には夜の街がある。


 意識はベッドから足を下ろした。床に足裏が触れる。冷たかった。昨日確認した廊下の軋み、階段の音、玄関の鍵の感触が、順に思い出される。


 今夜は昨夜より早く目覚めている。


 外へ出れば、使える時間は長い。


 駅の方へ行けば、コンビニ以外にも明かりがあるかもしれない。もう少し広い道を確認できる。夜にどんな人間が動いているのか、どの店が開いているのか、どこまで行けば人の目が増えるのか、それを確かめることもできる。


 部屋の中にいるだけでは、分からないことがある。


 外へ出れば、情報が増える。


 それは確かだった。


 ――知りたい。


 もう一度、その言葉が浮かんだ。


 この体の名前は分かった。家族も、学校も、部活も分かり始めている。けれど、自分が何者なのかはまだ分からない。成瀬歩なのか、成瀬歩ではないのか。事故による一時的な混乱なのか、それとも別の何かなのか。


 何も分からないまま、部屋の中で夜を終えることはできる。


 だが、それでは何も増えない。


 机の引き出しを開けると、前夜に買った小さなリングノートとボールペンが入っていた。水とゼリー飲料も、棚の下段に隠してある。外へ出るための準備は、最低限だが整っていた。


 ドアの方へ一歩進んだ。


 足の奥の重さが、そこでまた意識に上がってきた。


 歩ける。


 玄関まで行ける。


 鍵を開けられる。


 昨日と同じように夜の道へ出て、昨日より少し遠くまで行ける。


 ――行ける。


 その事実が、判断を鈍らせる。


 体が動かないなら、諦める理由は簡単に見つかる。けれど、今の体は動く。痛みで止まるほどではない。誰かに見つかったわけでもない。時間もある。


 行けない理由は、少ない。


 だからこそ、厄介だった。


 ドアノブに手を伸ばした。


 あと少しで、指が触れる。


 昨日と同じように、廊下へ出られる。階段を下りられる。玄関の鍵を開けられる。外へ行ける。


 ――行きたい。


 その言葉が浮かんだ瞬間、足の奥の重さが戻ってきた。


 前夜に歩いた結果を、昼の成瀬歩が受け取った。今日、陽菜が兄を気にし、小森が顔色に触れ、篠原が短い礼を送ってきた。誰も何かを疑っているわけではない。だが、見ている。


 ここで外へ出れば、何かを得る可能性はある。


 だが、目的はまだ曖昧だった。


 駅前を見たい。別の店を確認したい。もう少し遠くまで行ってみたい。


 それらは興味ではある。


 今夜でなければならない理由ではない。


 目的の曖昧な外出は、疲労だけを残す。


 その疲労を受け取るのは、昼の成瀬歩だ。


 ドアノブの手前で、指が止まった。


 外に出ることはできる。


 それでも、今夜は出ない。


 そう決めるまでに、少しだけ時間がかかった。


 恐怖ではない。迷いでもない。得られる情報と、残る負担を比べていただけだった。


 ただ、比べ終えた後にも、外へ出たいという欲求は消えなかった。


 消えないまま、抑えた。


 自由に使えるはずの夜に、自分で制限をかける。


 それは不快だった。


 だが、不快だから間違いだとは限らない。


 意識はドアから離れ、机の前に戻った。


 引き出しからリングノートを取り出す。まだほとんど何も書かれていないページを開き、ボールペンを手に取った。


 これは、ルールではない。


 最初から自分を縛る言葉を並べるには、まだ情報が足りない。今必要なのは、何をすれば何が残るのか、夜の行動が昼の成瀬歩にどう影響するのか、自分で管理できる痕跡と、他人の目に触れる痕跡がどこで分かれるのかを整理することだった。


 紙の上に、三行だけ残した。


 夜の行動は、昼に残る。

 成瀬歩の変化に気づく人間がいる。

 目的のない外出はしない。


 三行。


 それだけだった。


 けれど、今夜必要なことはそれで足りていた。長く書けば正確になるわけではない。むしろ、今の段階で細かな決まりを増やせば、必要な判断が見えにくくなる。


 夜は使える。


 それは、昨夜の外出で分かった。街は完全には眠らない。コンビニは開き、信号は動き、車は走り、店員はそこにいる。昼より静かで、昼より人は少ないが、社会の機能は夜にも残っている。


 ただし、夜を使えば昼に影響が出る。


 それが、今夜分かったことだった。


 メモ帳を閉じようとして、手が止まった。


 もう一つ、確認しておくべきことがある。


 スマートフォンを開き、ブラウザの検索欄に短く入力した。


 睡眠 体力回復 必要時間


 いくつかの記事が並んだ。適切な睡眠時間、回復のための栄養、体を動かした翌日に必要なこと。書かれている内容のすべてが、今の状況にそのまま当てはまるわけではない。それでも、体が回復するには時間と条件が必要だという一点は変わらなかった。


 使うなら、回復まで含めて計画に入れる。


 そう考えると、夜の使い方は少し変わる。


 外へ出る夜があっていい。長く歩く夜があってもいい。いつか体を鍛える必要が出てくるかもしれない。けれど、その後に何時間眠れるのか、翌日の成瀬歩に何があるのか、学校があるのか、部活があるのか、誰と会うのかを考えずに動けば、昼の生活に痕跡が残る。


 夜だけで完結する行動は、思っていたより少ない。


 スマートフォンの画面を閉じる前に、検索履歴を見た。


 消すべきかどうか、一瞬考えた。消せば痕跡は減る。だが、検索履歴が完全に消えていれば、それもまた不自然になる可能性がある。成瀬歩が普段どの程度検索履歴を残す人間なのか、まだ十分には分かっていない。


 今夜は触らない。


 そう判断し、画面を閉じた。


 メモ帳を引き出しの奥に戻す。ボールペンの位置を合わせ、引き出しを静かに閉める。スマートフォンの充電残量を確認し、充電器に差した。画面を伏せ、元の位置に戻す。


 それから、もう一度窓の外を見た。


 遠くのコンビニの明かりは、まだ消えていなかった。大通りの信号も変わっている。どこかで車が通り過ぎる音がした。夜の街は、今夜も静かに動き続けている。


 行こうと思えば、行ける。


 その事実は消えない。


 だが、今夜は行かない。


 次に外へ出る時は、目的と手順を決めてからにする。どこへ行くのか。何を確認するのか。どれだけ歩くのか。帰った後、成瀬歩の体に何を残すのか。そこまで考えてから動く。


 夜は使える。


 ただし、昼を壊さない範囲で。


 それが今夜、最も重要な結論だった。


 部屋の明かりを消すと、窓の外の光が少しだけ強く見えた。


 暗い部屋の中で、意識はもう一度、メモに残した三行を思い返す。


 夜の行動は、昼に残る。


 成瀬歩の変化に気づく人間がいる。


 目的のない外出はしない。


 今夜はここまででいい。


 外へ出ない夜にも、得られるものはあった。

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